天拝山のあの道この道………養精術(2)2019-10-01


       オンネトー(雌阿寒岳の麓)  2003.07.05(脊髄損傷前)




 3年前のブログ「身体障害者となり落ち込んだか。」で、ほとんど落ち込まなかったと書いた。それは怪我して当座のことだったが、それから7年半が経った。7年半といえばそこそこいろんな事があってもおかしくない年月だが、私は同じ仲間の脊髄損傷者と比べると、併発する病気(肺炎、腸閉塞、褥瘡、尿路感染など)の発症も少なく、割と規則的で平穏無事な生活を送っきたといえる。従って心の持ちようも安定して推移したと思う。

 自慢するわけではないが、また自慢できるようなものでもないが、ここまでに至る心の持ちようを振り返って、ここに書き留めておきたいと思う。同じような障害者の目にとまって参考になれば幸いであり、また書き留めることでこれからの私自身の生き方の道しるべとして役立てるためでもある。

 そうは思ったものの、実は恥ずかしい気持が強い。裏にしまっている心の内を人様の目に晒すことは、普通はやらないことである。自分の心の内をやたらさらけ出す人は ”つまらない人間” だと、何かの本に書いてあった。やはり心の内は伏せておくのが常識というものだろうと思う。

 だが、私は私自身のためにあえて書き残しておきたいと思う。自分は ”つまらない人間” だと宣伝しているようなものかもしれないが、まあそれでもいい。思い起こしてみれば、このブログを書くということは自分の存在証明書の発行作業であり、それを自分が読んで「嗚呼!まだ俺は生きている」と確認するという繰り返しのためでもあった。だから私は自分の心の内もこのブログに書き、そして自分で読み返すのだ。

 私が自分自身にこの7年半でつぶやいた言葉を思い出して列挙してみる。




[大学病院の救急に運ばれた。5時間位の意識不明から覚めた。大怪我をして運ばれたようだ。とにかく首が猛烈に痛い。躰は全く動かない。頭は大混乱、何をどう考えたらいいのか皆目わからない。]

 ”この私が大怪我をしたなんて何かの間違いではないか、この私の身に限ってそんなことが起るなんてあり得ない。夢に違いない。目が覚めたらまたいつもの日常が始まっているだろう。夢であって欲しい。”  (しかし、そのいつもの日常は始まらなかった。)

 ” 大変な怪我をしたようだが、果たしてどの程度の怪我だろうか。まあ、今は手術が済むまで色々心配してもしょうがない、なるようにしかならない。大怪我だったとしても、自分の運命を引き受けるしかない。静かに明日を待とう。”

 ” 死ぬわけではない。どんなになろうが生きていければそれでいい。そう思おう。”

[1週間位経った。]

 ” 両手両足が完全麻痺でほとんど動かない。寝返りもできない。電動車椅子にはなんとか乗れるそうだ。ベッドに24時間寝たきりにならなくてよかった。しゃべることには不自由はなさそうだ。だが、一体これからどうなるのだろうか?”
                                        
[2週間位経った。]

  ” 若い頃からの私の今までを考えれば、この程度で落ち込むようには私の心は出来ていないはずだ。これまで心がつぶれそうになったことは何度もあった。しかしその都度、時間はかかったがなんとか克服してきた。だからたいていの逆境には耐えることができるようになっている。そのたくましさを求めての今までの人生だったではないか。大したことはない、なんとかなる。”

[せき損センターに移り、リハビリに励む。しかし、腕は10㎝位しか動かない。怪我して半年位経った頃。]

 ” うつしよの はかなしごとに ほれぼれと
              遊びしことも 過ぎにけらしも (古泉千樫作)
この短歌に刺激され対抗上、入院中の病院のベッドの上で次の短歌を作った。作り終えた時、何か憑きものが落ちた気がした。
 胸の上 リハビリ重ね 右の手で
             いとし左手 撫でさすりけり  ”

[1年後、退院してから]

 ” 今までは健常者、これからは障害者、二つの違った人生を体験できる。健常者だったら気付かない考え方ができるかもしれないし、障害者だから味わえる喜びがあるかもしれない。いや、きっとあるだろう。貴重な体験ができる人生だ。”                                                
  
 ” 怪我する前のことだが、私は中高年の山の会(あだると山の会)で登山を楽しんだ。麓から一歩一歩フーフー言いながら登り、疲れたら休憩して吹き出た汗を拭き、喉を水で潤す。それを何回も繰り返しやっと山頂に達する。だからこそ、登頂した喜びを感じられたのだ。ヘリコプターで連れて来られたら、こういう喜びは味わえないだろう。
 足が動かない、残念だがもうこの喜びは味わえない。この喜びと似た喜びはないものだろうか?。
 目的を持って読書をする、何冊も何冊も読書をする。すると山を登っている感じがしないだろうか。小さなピークが見えないだろうか。稜線とそれに連なる主峰を仰ぎ見ることはできないだろうか。人間が築き上げた叡智がどういう山河なのか、踏破できなくてもせめて展望できる所まで歩けないだろうか。よし、目的を持って読書をしよう。

[怪我して2年後位]

 ” 人生の後半で障害者になった、そんな私だからこそ世の中に何か発信できることがあると思う。じっくり考えてブログで発信しよう。”

[怪我して4~5年後位]

 ” これまでは人との会話が苦手だった。相手の話をじっくり聞くのも苦手だったし、その話を引き取って自分の感想や考えを述べ、話を続けることも下手だった。努力して上手な聞き手&上手な話し手になろう。そのためには会話の内容が問題だ、読書の量を増やそう。”

 ” 障害者になって人と会う回数がめっきり減った。入ってくる情報も少なくなった。知的興奮の機会もほとんどない。放送大学の大学生になり、広範囲に学び直そう。そこから連想ゲーム的に自分の知的世界を広げよう。”
 
 
 ”天拝山に登る。トレーニングを兼ねてザックは20キロにする。コンビニでおにぎりを二個買う。登山道は8本ある、私はそれらにそれぞれ勝手な名前をつけている。頭の中で今日のルートを確認する。何百回と登った山だ、知り尽くした道、眼を閉じても登ることができる。
 天神さまの径(気分によっては、石楠花谷コース)から主稜線上の最高点(295メートル、地図を見ての私の判断)を越え、竹林コースを往復し地蔵川源流コースを下る。九州自然歩道をまた登り返し主稜線と出会い、向きを変えて天拝山の山頂に戻る。眼下に広がる福岡の街を展望し、正面登山道を下りる。
 足は動かない、そんなことは大したことではない。私は明日も天拝山に登る。”  (天拝山のあの道この道)




 上に書いた青字の部分は読み返してみると、意識的にそうしたわけではないが幸いにもポジティブでプラス志向が強い。私の周りにいた脊髄損傷者を思い返してみると、私のように恵まれている人ばかりではなかった。肺炎を併発し亡くなった人がいた。別の施設に移ったが、リハビリがうまくいかないで躰が固まったままになり、ベッドに寝たきりになった人がいた。

 また、経済的に困窮し同じ脊髄損傷の仲間からお金を借りて返済できず、人間関係も破綻しとうとうリハビリにも来なくなった人がいた。私は続けられる仕事(公認会計士・税理士)があって経済的には助かった。経済的に困窮し埋もれてしまう人は予想以上に多いと思う。ケアマネジャーの制度が障害者の隅々まで普及し十分に機能することを願う。

 私が知っている中で多いのが、離婚というかはっきりいえば配偶者(或いは恋人)から見放された人、配偶者が逃げ出してしまった人である。配偶者にも自分の人生がある。手足が動かずベッドに寝たきりになったような人間の面倒を、あなたが一生見なさいとは誰も言えない。逃げ出してしまう人の胸の内は分かりすぎる程分かる。去った人間がいて、残された人間がいた、両者ともにつらい。人生をこれきしであきらめてはいけないと傍ら願うばかりである。



 あらためて思うことはやはり言葉だと思う。その局面その局面での言葉の発見だと思う。しかしすぐには言葉は発見できない。言葉を発見することはそうたやすいことではない。落ち込みが深ければ深いほど、言葉の発見には長い時間がかかる。私の経験では落ち込んでから1年くらいかかることはざらであった。それ以上長いこともあった。

 言葉の発見という云い方がわかりにくければ、言葉を練り上げる、或いはストーリーを作ると云ってもよい。言葉が見つからない、その時間は本当につらい。その忍耐の果てに自分を元気づける言葉はあるだろうか、自分を救う言葉はあるだろうか、あって欲しい。その言葉を求める孤独な営為は報われるだろうか、報われて欲しい、たとえどれだけの時間がかかろうとも。

 練り上げる言葉はワンセンテンスの場合もあるし、一文章の場合もあるし、それ以上長い場合もある。ストーリーになることもある。私の経験上はあまり長くならず、そぎ落として簡潔に表現する方がよいと思う。
 
 例えば、私が40歳頃落ち込んだ時、練り上げた言葉は「人間は可変多面体」というものだった。ここでは意味は説明しない、他人のために作ったのではない。私一人が分かればいい、その言葉で私は救われ励まされたのだから。また、自分の人生になぞらえたあるストーリーを作り、自分が森繁久弥のような名優になったつもりで心の中で何度も演じ、そうしているうちに気分が変わり落ち込みから生還したこともあった。

 落ち込んだままで言葉が見つかりそうにない場合はどうするか。一人悪戦苦闘して再起不能で駄目になってしまうより、精神科か心療内科を受診することを勧める。睡眠をとり、少しでも気持が持ち上がるように向精神薬に頼る方がよい。私もうつ病の時はそうした。これまで書いてきたことと矛盾するようだが、融通のきかない頑固な精神主義はよくない。

 

 書きながらこのブログは少しづつ支離滅裂になってきているかもしれない。何回も書いたことだがここで私が書くということは、自分がこの世にこうして生きているという、自分自身に宛てた存在証明書の発行作業だ。一人で演じる一人作家の一人読者、この芝居を私は気に入っている。

73歳になった。2019-09-14


           黒部五郎岳 2006.08.08(脊髄損傷前)
  


一年前のブログ「70歳から生き方について考える。」の続編です。
四年前のブログ「国分功一郎「暇と退屈の倫理学」を読む」とも関係があります。

 73歳………私が子供の頃であったならば、まれにみる長生きで仙人みたいな想像もつかない年齢ということになるだろうか。まだ小さい子供の時のことだが、親戚のおばあちゃんが養老院に入るということで、風呂敷包みを手に提げて私の家のそばの道を歩いていく姿を見た時、見てはいけないものを見たような気がしたのを憶えている。養老院は私の家を通り過ぎたずっとずっと山の方にあった。今思えばあのおばあちゃんはまだ60歳前だったかもしれない。

 あの時私と目が合ってしまった、その場にたまたま出合わせたのがよくなかったのだ。この世の果てでひっそり死にに行くのだ、子供ながらにそんな気がした。その頃前後してだったが、深沢七郎作の「楢山節考」(木下恵介監督、田中絹代)の映画を祖母に連れられ見に行った。養老院に行ったおばあちゃんは私の祖母の妹で、遠く離れた町に長く一人で住んでいた。なぜだかその時の私には養老院と映画で見た姥捨山が同じもののように重なって感じられた。

 時代は変わった。いつしか世の中は人生100年などと云われ、60歳定年後さらに40年間を生きることが珍しくなくなるという、とんでもなく恐ろしい時代が訪れようとしている。ちなみに私の父は90半ばまで生き、私の妻の母も100歳近くまで生きた。急激に日本の世の中は高齢化の社会になってしまった。私もその高齢者の入口付近にいる一人である。

 70歳頃から感じ始めている不安がある。長すぎる老後をどう生きたらいいのか? はて困ったぞ!どうしたらいいものか? 先人の適当な前例かモデルはないものか? なければ自分でなんとか考え出さなけれならないのか? この不安はすぐには答が出そうにない。”人生暇つぶし” と言うには、あまりにも長すぎる人生である。

 60歳頃まで働いてその後は老後を適当に楽しんで人生を全うするなどという、一昔前までの人生モデルはもはや参考にならない。そんなモデルで生きていると、つぶしてもつぶしきれない暇がありすぎて、その老後の途中で 退屈のあまり ”私の一生って一体何?” と悲鳴を上げてしまう。その時、しっぺ返し的残酷な後悔が間違いなく待ち受けているのではないかと思う。

 私は老後の生き方というテーマを自覚しないままに、60歳からもう13年間も生きてしまった。まだ先は長そうだ、暇つぶしではない老後を考える必要がある。

 長寿はめでたい事ではあるが、高齢者にとっては困った事が四つある。一つは経済的な問題である。大半の高齢者は年金中心で生活している。この長すぎる老後を支えるために日本の年金制度は本当に大丈夫だろうかと考えてしまう。

 ①少子高齢化と人口減少、➁低成長の経済、③1,000兆円の国債残高、④増税を嫌う国民体質、⑤非正規労働者の増大、⑥経済のグローバル化による貧富の格差と貧困層の増大等、年金制度の将来にとっては不安材料ばかりである。

 年金制度に依拠した老後をイメージするより、生活保護の老後を設計する方が現実的ではないのか、認めたくはないがそんな感じさえしてくる。経済的に貧しい老後では悲しすぎる。この年金問題は何はともあれ日本の最重要な課題の一つである。私も日本人の成員の一人として、考えているところをこのブログでいつか書きたいと思っている。

 二つは、将来のことは分からないということである。100歳まで生きるつもりでいたのに70歳で死んでしまった。逆に、普通に生活していたら100歳まで生きてしまった。前者の場合には無念さが残り、後者の場合には持て余してしまう長すぎる老後が残る。

 何歳まで生きるか分からないのに、100歳までの人生プランを考えても仕方ないのではないか、途中で死んだらどうする。とりあえず日本人の平均寿命の80歳位まで生きると考えて、後は成り行きでいいのではないか、そのうちに頭もだんだんボケてくるだろうからと考えたくもなる。先ほど書いた私の不安はこの二つ目の困った事、いつ死ぬか分からない=いつまで生きるか分からない、と直結している。

 ところで、こんな問題でグズグズ&グダグダしている私を一撃で吹き飛ばすような名言がある。 「明日死ぬと思って生きなさい。永遠に生きると思って学びなさい。」(マハトマ・ガンジー)

 三つは、老後の時間はそれまでの若い頃の時間とは質的に違うということである。個人差はあるが、<集中力>も<持続力>も<記憶力>も<思考力>も、そし て<感受性>も<好奇心>も劣ってくる、もちろん<体力>も<健康>もそうである。総じていえば、<気力>の衰えである。

 私は近頃特に記憶力の著しい衰えを何かにつけ体験している。それを赤瀬川原平氏流に「老人力」と肯定的にとらえてもいいが、実際には仕事上も日常生活上も困ることはなはだしい。個々人の習慣と努力でその劣化を食い止めるしか方法はないのではないかと思っている。

 そしてこの事は更に考えを押し進めるとそこには、その人なりの人生観や哲学とも関係する難しい問題が秘そんでいる、つまり老いと死の受容」という問題である。今の私にはこの問題は全くの手付ずである。

 ” 形見とて 何か残さむ 春は花 山ほととぎす 秋はもみぢ葉”(良寛) 
 ”全身を埋めて、ただ土を覆うて去れ。経を読むことなかれ。………”(沢庵) 
この三つ目は私の不安と深く関係していることは云うまでない。

 四つは、家族による介護の問題である。高齢者になると身体的・精神的な疾患がどうしても目立ってくる。特に認知症と脳梗塞であるが、医療保険・介護保険があるので病院への入院、デイサービスや老人福祉施設等への通所や入所、ホームヘルパーのサービス等によりその一家族の介護の負担はかなり軽減される、しかしそれでもその家族に残る負担はまだまだ大きい。

 私は介護保険で要介護度5の重度身体障害者であるので、デイサービスやショートステイでの認知症の高齢者の姿をよく知っており、その介護の大変さを実感せざるを得ない。そもそも私自身が24時間要介護の高齢者の身であり、私の妻は老々介護で毎日孤軍奮闘中で疲労の連続の中にある。これらの事に向けての医療保険と介護保険さらに社会福祉の行政の充実を待ち望む次第である。

 老後の生き方についてヒントを得ようと啓発本を数冊読んでみたが、期待しているような内容の本はなかった、更に調べてみたがやはり低レベルのものばかりだった。世間一般では老後の生き方の問題は健康と経済の実用的な問題に偏っており、それ以外の内面的なことはお粗末にしか扱われていない。

 書かれていることは煎じ詰めれば、老後に向けて若い頃から計画していろいろと準備をしなさい(そんなことは老人に言わないで若い人に言え、余計なお世話だと言い返されるのがオチだろうが)、そして老人になったならば自信を持って独創的に生きなさいとは言ってはいるが、結局は常識と通俗的道徳に従って生きていきなさいという域を出ていない。

 そこで「老後」から「隠居」と視点を移して考えてみることにした。言葉や語感が変わると気分が変わることがある。隠居に関する本や高齢者になって書かれた本などをいくつか読んだ。本に書かれている先人達の悠々自適な隠居生活を読んでいくうちに、霧が晴れたようにフウーとある閃きが興った。

 創造的活動」というキーワードの発見である。そうだ! これのあるなしが全てを決するのだ。これがなければ老後(隠居)の生活をいかにイメージしようともむなしい。老後あるいは隠居を考えるということは、創造的活動をするかしないかを考えることと同じことではないのか。

 悠々自適な隠居生活とは恵まれた一部の老人の話ではないのか。確かに全ての人が理想的な状態で老後(隠居)を迎えられるわけではない。誰もが経済的に裕福とは限らない、従って老後も働かざるをえない人は多い。家族に恵まれない人もいるし、健康に恵まれない人もいる、人生様々である。正義が勝つとは限らないこの世をとにかく生き抜き、そうして晴れて老後を迎えた。その老後ははたしてどうなるのだろうか。

 私も迷いの渦中にあり、「創造的活動」と発声してみたに過ぎない。すると曇っていた目の前が晴れてきたような気がするだけである。まだ形もなければ内容もない、「創造的活動」という言葉があるだけである。この言葉を手がかりに前進して見よう、私は意識的にその立場に立った訳である。私の勝手な解釈であるが、” はじめに言葉ありき ” である。

 四肢麻痺で寝返りもできず24時間要介護で、しかも73歳という年齢の私にとって、これからの創造的活動ってそもそも何だろうか? 創造的という言葉の字面にあまりとらわれる必要はないと思う。自分が面白いと感じ自分のペースで持続できれば、それが私にとって創造的ということにほかならない、今はその程度に考えている。重点は ”活動” の方にある。

 創造的活動の内容は人様々であろうと思う。その人なりの持味で創造的活動を行う、それが私が望む老後(隠居)の姿である。それはこんなことだとかあんなことだとか私が例示できるものではない、何でもいい。私もこの年齢になればやりたいと思っていたことや、まだやり残したことの二つや三つはありそうだ、始めてみようかと思う。

 一回ポッキリでは創造的活動とはいえない。もしうまくいかなかったならば別のことをすればよい。やってみようと思う気持が大切だ。若い頃からしている事の継続だってかまわない。この世に自分が生きたという証(あかし)を遺すくらいの気持で心を傾けられればオンノジである。

 眠ったように生きて老け込んでいくだけが人生ではない、せっかく生まれのだ、何かを始めるのに遅すぎるという言葉はこの世にはない。そう思って何かしら活動している自分がいればそれでいいと思う。


 
 良寛さんの生涯をイメージしてみる、すると私がいう「創造的活動」が色褪せて見えてきた。日がな一日縁側に座って日なたぼっこしながら猫を抱いている翁は、私の老後の理想の姿ではなかったか。そこには時間を持て余して退屈している姿など微塵もない。モノクロニックな世界を乗り越え、しがらみと煩わしさをも消化して楽しみと感じとり、春夏秋冬の自然の一部に化している翁に対して、創造的活動をなどと言うことは場違い、身の程を知らないと云うほかはない。

 そもそもの話だが、私は自分が73歳であるということに実はピンと来ていない。まだ自分は50歳代ではないかという感覚が、正直なところ躰の何処かに残っている。老いとか死とかはずーっと先の事だと何処かで思っている。今まで書いてきた事と矛盾するようだが、本当のところ老後の生き方をきちんと考えようという身の構えがまだできていない。真面目なふりをして上の黒字の文章を書いてしまった、このままにしておく。

 人間の死ぬ記録を寝ころんで読む人間(山田風太郎)

(中途半端だが、このブログはこれで終わる。)




私って誰? ………養精術(1)2019-08-18


           トリカブトの群落(裏剱、池の平小屋付近)
                   2006.08.26(脊髄損傷前)



 人は生きていくため様々な局面で色々と考えごとをする。その数多の考えごとを収斂すると、共通に一つのことが浮かび上がってくる。考えごとをしているのは誰であるか? 逆照射すると ”考える私” が浮かび上がってくる。この ”私” は全ての局面に主体として共通に存在している。さて、このような ”私” とは何者であるか? どのようにとらえたらいいのか?

 問う主体は問われる客体でもある。問われる客体はこの世で何かを考え何かをしようとしている。そして遂にはその射程に問う主体をとらえる。蛇が己の尾を飲み込もうとしている。その奇っ怪な姿が人間である。この人間の理解が物事を考える出発点である。ここには主体を客体として問う構図がある。しかし種々の物事の解答があるわけではない、問いをどのように発したらいいのかについての示唆を与えるだけである。この示唆は極めて重要である。

 前にも書いたが、アダム・スミスの「道徳感情論」はこの主体と客体の関係を詳述している。この本の副題は次の通り、「人間がまず隣人の、そして次に自分自身の行為や特徴を、自然に判断する際の原動力を分析するための論考」である。 あるいはその解説書、堂目卓生著「アダム・スミス「道徳感情論」と「国富論」の世界」(中公新書)でもよい。精読すると頭が整理される。

 この世で何を考え何をしようとしているのか。誰が?…………この私がである。この私が何かを考え何かをしようとしている、それ以外に私はない。そういうことをしようとしているのがこの私にほかならない。当たり前のことをいっているようであるが、私が20歳代で獲得した ”私とは何者であるか” を定義した貴重な哲学である。

 当時の学生の常識的な風潮であった「戦後民主主義」と「教養主義」にひれ伏していた私は、「何故そう考えるのか?」というO先輩の問いかけに曖昧な返答しかできなかった。そのことを正面から受け止めた私は、真剣に考えていくうちに分からなくなり徐々に脆くも崩れ落ちた。そしてその果てに別の自分を発見した。

 具体的に何かを考え何かをしようとしている私は、無色透明な抽象的な私ではなく、これまでの世の中の歴史に色付けされた私、歴史を纏っている私である。これが新たな私の発見であり、歴史というものと私との最初の出会いでもあった。私が学生であった1960年代後半とは、そういうことを問題として問うことが普通の時代であった。

 一般に人は我が身が歴史を纏っているということを自覚していない。魚が水の中で生きているのが不思議でも何でもないことと似ている。私の場合は、「戦後民主主義」と「教養主義」の怪しさを感じとり、幾分か批判的に対象化できたと思っている。それ以来この纏っているものから脱げ出したいと思っているが、なかなか容易には脱皮できないでいる。私にとって歴史とはそういうものである、従って私が問題にする歴史は常に現代史である。

 どんな時でも「何故そうするのか?」と問うことが常態化している私は、例えば「それは私の趣味です」というようないい方には敏感に反応して納得しない。そこには趣味という客体だけが強調されていて、あなたという主体との関係が見えてこないからである。

 趣味という一見誰にでも分かりやすい、しかしその実よく考えると何を言っているのかよく分からない単語に逃げ込んで、無意識に思考停止になっているように見えてしまう。「何故それはあなたの趣味なのか?」と重ねて問うことはしない。しつこいと嫌われるからだが、実はその答えがほとんど用意されていないからでもある。

 それは趣味を道楽と言い換えて同じ事である。そのような多元的で固定観念の固まりのような単語を言い放って物事を終わりにしてはいけない。禅問答的というか、堂々巡りというか、同義反復というか、肝腎なことが何も伝わってこない。

 そのことがあなたを捕らえて放さない魅力を、きっかけから思い出しては反芻しアレコレと考え、整理されないままでいいから別の言葉で別の言い方で、とつとつと語ろうとすることである。そこにはおそらくあなただけのストーリーがあるのだと思う。そういうストーリーを語る以外に、「何故そうするのか?」という問いに対するまともな答え方があるだろうか。人が自分の何かを他人に伝えることとはそういうことだと思う。

 「何故あなたは現代史を問題にするのか?」という問いを予想してあらかじめ答えておいた。単に歴史が好きだからというような答え方が、私にはありっこないというのがお分かりいただけた思う。私にも私なりのストーリーがあるのだ。

 主体と乖離した(主体とのストーリーがない)客体を問題にしても、そこにあるのは空虚な言葉しか発しえない主体である。悲しいかな!そこには救い難い退廃しかない。そして実はよく観察すると、努力、勤勉、実直などのかなりの部分が、残念ながら無意識にとはいうもののこの退廃の入口にあるか退廃そのものである。「何故そうなのか?」の問い直しがなされていないためである。

 自分の人生を粗末に扱ってはいけない。もしかするとあなたは、あなたの中の他人という別の人間の人生を儀式として代行しているに過ぎないかもしれない。その他人とはこの世の種々の固定観念が凝縮し人格化した化け物で、あなたに成りすましている。「何故そう考えるのか? 何故そうなのか?」と問えば、その他人は溶解するか逃げ出してしまう。こうしてあなたは本当のあなたの人生を生きることができる。そしてあなたを今までとは違う新たな世界に案内すること必定である。

佐藤賢一「オクシタ二ア」 他を読む。(2)2019-05-11



   犬が岳~求菩提山(福岡)の林間の登山道   2005.05.08(脊髄損傷前)



(1)から続く。

 <問2>は、<問1>の影に隠れて見えないように思わえる。しかし、眼をじっと凝らして見ようとすると見える。物事を皮相的にしか見ない人には見えない、物事を根源的に見ようとする人には見える。<問2>は、種明かしされるとなんだそんな事かということになる。

 ドミニコ会の修道士たちは、異端審問官として長きにわたり異端派の人々に残酷な拷問を加え、嘘であってもでっちあげて自白とし火刑に処していった。魔女裁判でも然りである。正統派のキリスト教を守り、その道から外れた異端派を正しい教えなるものに改宗させることは、全く正しいこととして信じて疑わない。その己の傲慢さにも微塵も気づかない。そのための嘘も拷問も殺人も許されて正しい行為と信じる。本人は正しいことをし正しい生き方をしていると胸を張る…………神に仕える者として。

 ドミニコ会の修道士達はどうして自らの過ちに気がつかなかったのだろうか、これが<問2>である。自らの心の中からそして同じ主義主張を抱く同じ仲間の中から、その異端審問の行き過ぎを指摘し是正しようという動きが全く見られない。その契機が現われる気配さえも感じられない、恐ろしい限りである。このことはカタリ派を弾圧したドミニコ会に限ったことではない、ローマ教皇然り、ローマ教会然りである。権力を持つ側の弾圧は是正されることなく、正しいこととして無自覚のままに延々と長期間続く。人類の歴史で洋の東西を問わず、何度も何度も繰り返された人間の最も愚かな面である。

 西暦2,000年つまり紀元後二千年紀の最後の年、ローマ教皇ヨハネ・パウロ二世はローマ教会がこれまでの歴史で次の罪を犯してきたとして神に懺悔した。ユダヤ人に対する迫害の容認、十字軍遠征と異端審問、アフリカ・アメリカ大陸での布教で原住民に対する差別と権利の侵害、がそれである。今までローマ教皇は誰一人としてかかる過ち(罪)を分からなかったとでもいうのだろうか。迫害を受け不幸のうちに死んでいった幾千万幾億の人間の無念さは、数百年後に一教皇に謝られても無くなるはずもなく、その怨念は未来永劫この世に漂い続ける。懺悔し謝罪すべき内容は犯した過ちの数々のみならず、いやそれよりはるかに重大に、それを許してしまったローマ教会のかかる組織の在り方そのものであったはずである。

 主義主張は主義主張でいい。人が百人いれば百人の主義主張があるのはそれはそれで自然なことであると思う。問題はその次にある。自らの主義主張に従ってまっしぐらに走る人(集団)は、往々にして反対意見・少数意見に耳をふさぐ。己がしていることに自己満足し省みることがない。それ故に起こった歴史の悲劇を我々人類は数多く経験してきた。何故そうなってしまうのか?
 
 <問2>を普遍化したこの問は、いつも私の頭を離れないテーマである。このブログでも取り上げて考える所をこれまでも書いたことがある。<管賀江留郎「道徳感情はなぜ人を誤らせるのか」を読む。>  その時は、進化生物学とアダム・スミスの「道徳感情論」に依拠し情報の問題にも言及した。リベラル・アーツの問題もあり、道徳観・倫理観の問題もあると思う。組織の在り方まで範囲を拡げると、国家・地方政府の組織、法体系、民主主義と三権分立等、複雑かつ多岐にわたる。私一人でどうこうできる問題ではない。

 私が希うことは、己の主義主張の内部に己のそれを客観視する心の仕組を組み込むことはできないのであろうか一つの思想を抱く集団の内部にそれを客観視する組織を仕組として組み込むことはできないのであろうか、ということである。
 
 先の四冊の小説を読み、刺激され連想して次の本を読みたく思う。
(1)13世紀という同じ時代を生きた人間として、イタリア・アッシジの聖フランチェスコ(1182~1226)も気になる一人だが、中世のヨーロッパで抜きん出てそびえ立っている男がいる、神聖ローマ帝国皇帝フリードリッヒ二世(1194~1250)である。塩野七生氏著の彼の伝記。ダンテ(1265~1321)は彼の死後15年後の生まれである。

(2)中世のヨーロッパではローマ教会は聖職者以外には聖書を読むことを許さなかった。民衆が聖書を読んで勝手なことを言い出すことを恐れたためであると思う。かかる時代にカタリ派はいかにして人々の心をつかんでいったのであろうか。カタリ派の聖職者は民衆一人一人に直接に語り教えを説いていった、しかも自らは清貧で禁欲的な生活を貫いた。これは、ローマ教会側ではできないことであった。人々は自然とカタリ派に惹かれていった。…………歴史では似たようなことが繰り返される、連想して場所も時代もはるかに飛躍するが、毛沢東の軍隊は蒋介石の国民党軍にどうして勝利することができたのであろうか。人口の大部分を占める農民をどうして味方につけることができたのであろうか、ここには中国革命の核心が潜んでいる。毛沢東の著作または中国人民解放軍の歴史(創設~1949)。

(3)ウンベルト・エーコ 「薔薇の名前」。 14世紀初め、北イタリアのベネディクト会の修道院で起こった連続怪死事件…………異端は作られるのか、キリストは笑ったか、アリストテレスの詩学…………そして知の迷宮へ。



佐藤賢一「オクシタニア」 他を読む。(1)2019-05-06


          近い所から 北鎌尾根、硫黄尾根、裏銀座の北アルプスの稜線
            2004.8.04(脊髄損傷前)



 次の小説を読んだ。
A オクシタニア 佐藤賢一 集英社文庫
B 旅涯ての地 板東眞砂子 角川文庫
C 聖灰の暗号 帚木蓬生 新潮社
D 路上の人 堀田善衛 新潮社

 歴史の本を読んでいて  ”異端” ”秘密結社”  ”○○の乱” などの文字があると、それはどんな集団でどんな教えを信じてどんな事と対決していたのかと、興味をそそられテンションが上がる。歴史のうねりとともにそこに民衆の反乱というか、やむにやまれぬ庶民の渇望の呻きのようなものが聞こえるような気がするからである。読んだ四冊の小説はいずれも、中世ヨーロッパでローマ教皇から異端とされた ”カタリ派” を題材とした小説である。内容が深く濃密で、久しぶりに小説を読む醍醐味を味わい堪能した。

 カタリ派弾圧の歴史を、上の四冊の範囲で大まかになぞると次のようになる。
① 1209年、ローマ教皇インノケンティウス3世はフランス王フィリップ2世と協議して十字軍を召集し、総指揮を北フランスの小領主シモン・ド・モンフォールとして、異端派根絶を目指しオクシタニア(ピレネー山脈でカタロニアと国境を接する南フランス一帯)を攻撃し住民を虐殺した。それまで異教徒に向けられていた十字軍遠征が、異端とはいえ同じキリスト教徒に向けられ、カタリ派を保護したとしてトゥールーズ伯のレモン7世をはじめオクシタニアの諸侯を弾圧した、所謂アルビジョア十字軍(1209~1229)である。カタリ派 は、トゥールーズを中心にオクシタニアで勢力を誇っていた。トゥールーズは気候が温暖で経済的に豊かなオクシタニアの中心で、当時ヨーロッパで有数の都市の一つであり、曲がりなりにも市民による自治が行われていた(コミューン)。

② 1232年、ローマ教皇グレゴリウス9世はそれまでの異端派弾圧の仕組をを改めて異端審問制度(異端裁判所)を作った。開明的な神聖ローマ帝国(ドイツ)皇帝フリードリッヒ二世による「メルフィ憲章」の公表(1231、法治国家の宣言)に対抗する必要上余儀なくなされたものであった。ドミニコ会の修道士を異端審問官として各地に派遣して、しらみつぶしに異端派を摘発し改宗しない場合には火刑に処した。カタリ派はその教義で嘘をつくことを禁じていたので、帰依者(信者)や完徳者(聖職者)は審問されると正直に答え、芋づる式に逮捕されてしまった。

③ 1244年、追いつめられたカタリ派はピレネー山中のモンセギュールの山城に集結し、そこを最期の砦として信仰を守っていたが、フランス王ルイ9世の軍隊に包囲攻撃され陥落した。カタリ派の信仰を捨てることを拒否した200人以上の帰依者と完徳者は、死ぬと天国にいけるという教えに殉じ火刑に処せられていった。

④ 14世紀に入ってもさらにその後も、ガリレオ裁判(1633)が示すように異端審問制度は執拗に続いた、そして内容は少し変わったが現在でも続いている。 1321年、カタリ派は最後の完徳者が捕えられ衰退していった。

 A~Dの四冊の歴史的・地理的な舞台は次の通りである。

 Aは、オクシタニアを舞台にアルビジョア十字軍の遠征からピレネー山中のモンセギュール城陥落までを、カタリ派(異端)とドミニコ会(正統)の双方の立場で、人の心に深く分け入りそのディテイルを濃密に描いている。内容は深く、正統派と異端派の論争のさわりが分かったような気がする。ヨーロッパの中世は古代ギリシャ・ローマの科学的水準が大きく後退したキリスト教一辺倒の時代であり、神学論争は切実な問題だったと思われる。干からびたドグマ(教義)の話ではなく、人が生きることを深く問う内容である。読んで損はない、いや読まないと損する一冊である。

 Bは、地理的には博多の中国(宋)人街~元の大都(現在の北京)~コンスタンティノポリス(現在のイスタンブール)~ヴェネツィア~南フランス山中の廃墟の山城 と当時の世界の東の涯てから西の涯てまでに及んでいる。元寇(弘安の役 1281)、マルコ・ポーロ(東方見聞録 1300頃?)、聖杯伝説、マグダラのマリアの福音書などをストーリーに織り込み、主人公(父が中国人、母が日本人の博多生まれの男)の13世紀末から14世紀始めにかけての数奇で波乱に富んだ物語である。内容は深い。作品中、ヴェネツィアの一ラテン語教師が述べる次の言葉は示唆的である。「誰が東を決め、西を決めたのだ。誰が正統を決め、異端を決めたのだ。西もさらに西の国にいけば、東といわれる。正統もやがて異端といわれる。」 小説の後段から終わりにかけては感動的である。

 Cはミステリー仕立てで、異端審問制度がまだ苛酷に続いていた14世紀始めのオクシタニアが舞台である。ドミニコ会の若き僧が書き残した次の詩が、本文中何度もリフレインされる。

  空は青く大地は緑。
  それなのに私は悲しい。
  鳥が飛び兎が跳ねる。
  それなのに私は悲しい。

  生きた人が焼かれるのを見たからだ。
  焼かれる人の祈りを聞いたからだ。
  煙として立ち昇る人の匂いをかいだからだ。
  灰の上をかすめる風の温もりを感じたからだ。

  この悲しみは僧衣のように、いつまでも私を包む。
  私がいつかどこかで、道のかたわらで斃(たお)れるまで。

 Dは、スペインのトレド(当時、ヨーロッパの文化の中心地の一つ)~オクシタ二ア~北イタリアを舞台に、13世紀初め頃からピレネー山中のモンセギュール城陥落までを描いている。A~Cの三冊は近頃書かれた作品であるが、堀田善衛のこの小説は1985年の出版で比較的古い。カタリ派について私が疑問に感じていることを、作者が代弁して述べているのではないのかと思われる所が多々あり、カタリ派がどんな宗教かがよく分かる。例えば、次のような場面がある。カタリ派を好意的に思っているある騎士(本小説の主人公の一人)が、カタリ派の完徳者にピレネーの山中で出逢い質問する。(私の言葉で書くと) 主よ、ピレネーの山並は雪をいただき、渓流はゆったりと谷を流れている。緑の野には花々が咲き乱れ風に揺れている。あなた方はこの世を否定的に捉えられているとしても、目の前のこの自然を見て心を動かされ美しいとはお思いになりませんか? 完徳者がなんと答えたかは小説に譲ろう。

 さて、上の四冊の小説を読んで<二つの問>が根源的に惹起する。<第一の問> カタリ派は何故異端として弾圧されたのか。これは上の四冊の小説のテーマそのものでもある。歴史の上では一般に弾圧された側の文書が残ることは少ない。焚書で根絶されてしまうからである。カタリ派は何を民衆に語ったのか、今でもよく分かっていない。ローマ教皇側の資料は残っている、カタリ派側から書かれた資料の発見を今後に期待し、歴史家の実証的研究に待ちたい。その上で、小説を読んだ私の感想を独善的にかつ軽々に述べさせてもらうと次の通りである。

 中世のヨーロッパではローマ教会とその教皇・司教らの聖職者が宗教世界の唯一の権威であった。しかし、司教らは贅沢三昧の生活をし実質上妻帯することも普通で、ローマ教会の堕落は甚だしかった。カタリ派の聖職者は禁欲的で清貧に甘んじた生活をし、ローマ教会とは雲泥の違いがあり人々はカタリ派に惹かれていった。その意味でカタリ派への信仰の傾斜はローマ教会を批判する民衆の運動であったとも言える。カタリ派にとっては少し辛口な見方になるかもしれないが、以下その教義について考えてみたい。

(これから上の小説を読もうと思っている方は、以下の青字の部分は読まない方がいいかもしれない。以下を読んでしまうと、ネタバレのマジックを見るようで小説の興味が半減するかもしれない。)

 カタリ派はキリスト教の衣を纏っているが、似て非なる別の宗教ではないのか。異端などではなく異教ではないのか。ヨーロッパの地であるからキリスト教の衣を纏うのは仕方がない。しかしその教義は徹底した二元論である。現世は悪魔が作った世界であり、この世では努力することも成功することも財産を貯めることも意味がない、悪魔の世界での出来事だからである。この世では生きること自体に意味がない、信じ難い程のニヒリズムであるが、これがカタリ派のこの世の理解である。
 
 この世の苦楽を味わい、意味があるかないか判らないがそこで悪戦苦闘することをもって、人が生きることだと了解している私のような世俗的人間には、到底理解できない境地である。おそらく科学的知識が乏しく、キリスト教の権威だけが高かった時代であったが故であると思う。

 カタリ派では人は死ぬに際して、完徳者(聖職者)によるコンソレメントウム(額の上に手をかざすような儀式、救慰礼)を受けることにより、肉体は朽ちても精神は天上界に行ける。さもなくば精神はこの世に再び舞い戻り、別の肉体を借りて精神の袋としこの地上界に留まり続ける、肉体が死ぬとまたこれを繰り返す、つまりこの世(地獄)で輪廻する。私如きにはその方が永遠の命をもらったようでいいと思うのだが、この世は悪魔が作った世界つまり地獄であるから、そこから脱出して天国へと救われなければならないというのがカタリ派の教えである。従って、キリストがゴルゴダの丘で磔刑に処され、その後この世に復活したという新約聖書の四つの福音書の記述は、それが肉体を伴ってのこの世での再現とするならば、カタリ派にとってはとんでもない話ということになる。(ご存じのように”復活”については様々な説がある。)

 キリストの理解、洗礼の仕方、教会のあり方、聖職者の生き方、などなどカタリ派の教義は正統派の教義とことごとく対立し相容れない。翻って考えてみると、カタリ派の二元論はゾロアスター教→マニ教の系譜に近似し、ユダヤ教→キリスト教→イスラム教の一神教の系譜からはかけ離れていると思う。
 
 神がいるならば、なにゆえ災害があり病がありもろもろの苦しみがあるのか、太古の昔から人間は考えた。中央アジアの地でかのゾロアスターはそれまでの土俗的地域的宗教を超えて、善神(アフラ・マズダ)と悪神(アーリマン)の二元論の宇宙の普遍的体系を作り上げた。この世(現世)は二つの神の闘争の場で、アフラ・マズダが勝利し正義が実現するように務めるのが人間の生きる道であると教えた。この世は永遠には続かずいつか終末が訪れ、最後の審判が行われる。その時アフラ・マズダに味方した者は天国へと救済され、アーリマンに味方した者は地獄に落ちる。
 
 カタリ派はゾロアスター教の二元論の系譜にあるとはいえ根本的に違う点がある。この世(現世)の捉え方と天国への救済のされ方が全く違う。精神と肉体、天国(天上界)と地獄(地上界)、神と悪魔を極限までに峻別し、そしてその枠組みで人間の生死を二分して理解する。見事なまでの割り切り方である。人はこの世でどのように努力し生きたのかということとは関係なく、死に際してコンソレメントウムさえ受ければそれだけでいともたやすく天国へ行ける。この突き抜けた無邪気なまでのオプティミズムは、現世で生きることを悲しいまでにペシミズム的に考える救い難い厭世思想と対をなしている。マニ教と酷似している。

 災害があり病がありもろもろの苦しみがある。ユダヤ教から始まる一神教は二元論のようにそれは悪神の仕業とは考えない。神の沈黙、神がこの世に全面的に動いていないからである、何故神は動かないのか、その事を前にして人間はどうしたらいいのか、御利益宗教を超えた本格化な一神教はここから生まれる。

 キリスト教の歴史は、曖昧な解釈を許してしまう教義の多義性との闘いであったと思う。キリスト教に限らず一般に宗教の歴史は、その中で勝利した教義が正統派として残っていった。歴史とそれを示す書類は勝ち残った正統派に都合のいいように作られる。そうして教義は精緻化され純化され、敗者ははじめから存在しなかったかのように歴史から抹殺される。
 
 カタリ派は正統派にとっては教義が少しだけ違うというレベルではなく、この世を根底的に否定するがゆえに、邪宗・邪教の類と考えられた。たとえそういう教えであったとしても、民衆の支持を得て生き残る道はなかったのか、期待したい気持ちも少なからずあるが、事実は徹底的に弾圧根絶され、歴史はルネサンス、宗教改革の時代へとつながっていく。

 (2)へ続く。



私は毎日12時間眠っている。2019-03-21



             阿蘇山  2005.11.20(脊髄損傷前)



 私って何者?

 誰もが長い人生の過程で一度や二度は抱いたことがあるこの疑問、私は近頃妙に現実味をもってこう呟くことが多くなってきたように感じる。おそらく今の生活の有り様がそういう疑問を惹起させているのであろう。今の日々の生活がこれまでのそれとは比べようもなく違いすぎているからである。

 私は毎日12時間眠っている。原因は薬の副作用の為である。65歳の時に脊髄を損傷したが、それから丸7年が経ってしまった。1年間病院に入院していたので、退院してから6年間が経過したがほぼ同じようなパターンの生活をしている。薬は1日6回、合計10数種類を40~50錠程毎日飲んできた。多すぎるので減らそうとしたがなかなか減らない。眠たくなるのは特に鎮痛薬の副作用の為である。

 眠気を催す薬は多いが、鎮痛薬はその副作用の程度が甚だしい。一般に痛みには2つの種類があるといわれている。一つはナイフで腕を切った時のような患部から来る痛みで、人体の防御機能のためなくてはならない痛みである。もう一つ神経の誤作動から来る痛みで、神経障害性疼痛といわれるものである。足を切断した人が、あるはずのない足の親指が痛いと感ずるのがその例である。私が感じている痛みもこの後者で両腕が痛い。特に右腕が痛く、比喩的に言えばナイフで切り裂かれているようで、痛みが発作的に襲って来たときには思わず声を出してしまう。両腕には特に外傷は何もない。

 麻酔科(ペインクリニック)で鎮痛薬の処方を受けるようになってから痛みはかなり緩和されたが、今度は眠気との闘いが始まった。今は3つの鎮痛薬(リリカ、カロナール、トリプタノールorノリトレン)を使っているが、その服用の量により催眠効果が違ってくる。量を多くすれば鎮痛の効果は大きくなるが、それだけ催眠効果も大きくなる、痛し痒しである。その結果、ここ3年間は毎日コンスタントに12時間は眠ってしまう生活を続けている。

 夜から朝にかけて8時間眠る。これはほぼ誰でも同じであろう。私の場合はさらに午前中に1~1.5時間、午後1~1.5時間、夕方1~1.5時間眠ってしまう。日によっては1.5時間が2時間になることもある。いくら我慢してみても駄目である。いつの間にか眠ってしまっている。近頃は無駄な努力は止めて、寝覚めた時にスッキリすればそれでいいと割り切って眠たくなったら眠ることにしている。

 こういう生活をしていると、一日の活動時間が極めて少なくなる。リハビリだの、病院通いだの、ヘルパーさんによる衣服の着替えだのとそれでなくとも重度障害者であるがゆえの必須の時間をかなり割かねばならない。透析患者が生きていくために透析のため病院通いの時間を割かねばならないのと同じである。つまり私に固有に属している時間が短いと嘆いているのである。

 もし脊髄を損傷しなかったならば私は今どんな生活をしているだろう、などとは私は考えない。そんな考えが頭をよぎったことは本当にないのかと問われれば、そんな問いがあることは知っているし、その問いに絡め取られて愚痴しか言わなくなった人も知っている、「もし」と考えてハッピーになるならば何度でも「もし」と夢想しよう、私が言えるのはここまでである。重度障害者であることから逃れられないのだから、重度障害者として楽しく生きる、ただそれだけのことである。それ以外の道があるとは思われない。

 7年前から私は重度障害者(障害者1級、介護保険要介護度5)として生きている。そんな人生がよりによってこの私に訪れようとは勿論夢想だにしていなかった。今までと同じような平凡な人生が続くものと思っていた。しかしある日何の因果かこうなってしまった。運良くか運悪くか、こうなってしまった私はこの世で二つの人生を送っているような感じがするのである。

 普通では味わえない二つの人生を味わっている私は、前も後もおそらく同じ私であろうと思う。仮に「前の私」と「後の私」と名付けてみると、「前の私」は7年前に終わっている。今の私は大怪我をして重度障害者になった「後の私」である。 そこで最初の問である、私って何者? この生すぎる問いはどんな答えを期待しているのであろうか。

 私が生きてきた時代とはどんな時代だったか。そこで、私はどんな主義主張に影響されて自分の哲学を作ってきたか。その哲学とはどんなものか。それを体現しているのがこの私である。真正面から真正直に考えるとそういうことかとは思う。

 少し違った風に考えて、「後の私」は「前の私」とどういう関係にあるのかという問いを立ててみよう。「前の私」の時間的な延長上に「後の私」があるのは事実の問題である。「後の私」を生きている私は「前の私」にどう向き合えばいいのか。「後の私」は「前の私」の単純な延長ではないはずである。

 「後の私」は「前の私」が徐々に結晶化する過程ではないのか、近頃このイメージに到達した、そしてこのイメージが私の頭の中でだんだん強くなりつつある。鉱物はある極限的状態が続くと結晶体になる。私にとって重度障害者であるというこの身体的状況は十分に極限的状態である。食塩だって炭素だって結晶化する。人間も結晶化して何の不思議があろうか。このブログの冒頭で “近頃妙に現実味をもって” と書いたのは私がこのイメージに生々しくとらわれてきているという意味である。

 ”自分らしく生きる” といってもいいのかもしれないが、あまりにも俗ないい方であるし、「自分らしく」とはどういうことかと堂々めぐりのような説明をしなければならない。そもそもアプリオリに自分が存在しているような言い方にも違和感がある。もともと自分というものが厳と固定的に存在しているわけではないと思う。結晶化するといういい方のほうがが私にはピンと来るし、何しろカッコいい感じもする。希ば、結晶化しようという自発的意欲と行動に充ち満ちている「後の私」でありたい、せっかく重度障害者になったのだ、そう考えてもよかろう。

 この結晶化のイメージを持てるようになってから、「後の私」つまり重度障害者として生きなければならない私にとって、自分の生き方がすこし鮮明になってきたような気がする。矛盾するようであるが、結果として結晶体にならなくてもいっこうにかまわない。結晶化という言葉がこれからのプロセスで私を元気づける魔法の言葉であればそれでいい。

 ここまで書いたが読み直してみると、極めて私的な内容で独りよがりの考えであり、書いてあることは他人にはほとんどその意味が通じないだろう。大体、人間が結晶化するはずがないし、そもそもその考え方が分かりにくい。
 「後の私」も日々の生活ではそこそこ世俗的であろうから、そこから物事を考えないといけないのではないか。結晶化のイメージは一旦封印して、「後の私」は現実の今の私であるから、そこで出会う諸々の事柄とどう向き合っていくのかを主軸に据えて考え生きていくべきではないか。
 その時「前の私」が持っていた主義主張が色々と試され鍛えられるだろうから、そういう過程を結晶化と呼んでもいいかとは思う。あえて「前の私」「後の私」と分けて考えてしまうのは、その日常生活があまりにも変わり過ぎたからであるが、私の内面はほとんど変わらず連続している。断絶しなかったのだから内面については「前の私」「後の私」と分けて考える必要はない。
 しかし敢えてそうするのは、私の考えや行動にメリハリを付け元気づけをしているような効果があるからである、そのことを結晶化という言葉で呼んでみた。言い訳が長くなってしまった、自分の気分を伝えることは難しい。
 

孫崎享氏の本を読み日米関係について考える。2019-01-04


                
           津波戸山(大分県)   2005.11.23(脊髄損傷前)                 



(前半)

孫崎享(うける)氏の次の本を読んだ。
  戦後史の正体         2015年 創元社 
  カナダの教訓         1992年 PHP研究所
  不愉快な現実         2012年 講談社
  日米同盟の正体        2009年 講談社
  アメリカに潰された政治家達  2012年 小学館
  21世紀の戦争と平和               2016年 徳間書店
  小説 外務省           2014年 現代書館
  小説 外務省 Ⅱ       2016年 現代書館
  日米開戦の正体        2015年 祥伝社

 読もうと思ったきっかけは、放送大学で面白そうな講義をチョイスして聴講していると、ある講義(国際問題)で孫崎氏の本を参考図書として推薦していたためである。興味深い内容を平易に読みやすく書いてあり何冊も読んでしまった。その関連で次の本も読んだ。

  「日米合同委員会」の研究    2017年 創元社
  誰がこの国を動かしているのか  2016年 詩想社

 これらの本は”日本の戦後の歴史の捉え方”、”これからの日本の外交のあり方”というようなことがテーマであるから、当然ながら特定の政治的な内容を主張している。孫崎氏は要約すると次の二つのことを主張していると思う。一つは"脱米"、つまりこれまで日米同盟=日米安保条約の下で「対米従属路線」を歩んできたが、その従属の程度が甚だしく国民主権は侵害されている。そこから脱却して「対米自主路線」の道を模索してみようとの主張である。現在問題になっている「辺野古基地建設」「横田空域」「オスプレイ配備」等々、米軍に特権的地位を与えているこれらの事柄は「日米地位協定」「日米合同委員会」をその根拠としているが、これに批判的立場をとっている。二つ目は官僚の志の欠如、質の低下、劣化に警鐘を鳴らしそのことを克服して欲しいとの主張である。

 事を大きくして言うと、一つ目は単に反米、嫌米ということではなく、米ソの冷戦時代が終わりヨーロッパにはEUが出現して久しくそれに中国が大国として登場し、世界の力関係が大きく変わりアメリカは唯一の超大国とはいえなくなった。これまで通り対米一辺倒でいいかどうか、日本という国家の基本的なあり方を”東アジア共同体”の視点で考えようという提起である。そのためにも現在の日米関係とはどういうものであるのかを分析し直す必要がある。

 二つ目は財務省の森友問題に関する文書改ざん事件などが示すように、官僚の側が出世(猟官)と自己保身を期待して、権力(官邸)の側に平身低頭して身をすり寄せ、人間としての誠実さも無ければ官僚としての志のかけらも無い、実に見苦しく卑しい性癖が官僚の世界全体に蔓延し亡国的状態を呈している。この克服のため歴史を研究することの重要性を指摘している。

 具体例を挙げると、戦前中国の奉天(現在の瀋陽)総領事だったあの吉田茂は、満州での日本の権益を強力に主張して田中義一(陸軍大将)内閣に自分を売り込み、1928年外務次官のポストを獲得した。このこともあって以後外務省は陸軍の張作霖爆殺(1929年)、満州事変(1931年)、満州国建国(1932年)から日中事変(1937年)、日中戦争への流れを有効にくい止めることができなくなってしまった。このような歴史で中国を侮蔑的に見ていた吉田茂が果たした役割は決して小さくない。

 そしてこの流れから真珠湾攻撃(1941年)から第二次世界大戦へと、戦略なき絶望の道に突き進むことになる。官僚が自らの利益を得る(つまり出世する、利権を獲得する、自己保身を図る)ために短絡的に判断し、結果として国を滅ぼすに等しいことをしてしまうのは嘆かわしい限りである。そして相も変わらず現在もまた今までと同じようにこのことが繰り返されている。

 私は日本の政治権力の実体は人事権だと思っている。日本の官僚と司法の人事権を誰が握ってきたのかを歴史的に検証することは重要である。人事院人事官と最高裁判所判事の人事が官邸主導になっていないか、三権分立が有名無実にならないように注視し続けなければならない。上に述べた人事が特にニュースにならないからといって問題がないということにはならない。(検察は法務省の行政機関である。)

 こういう類のことをこのブログで書くと何かと誤解される元になるので、ここでとり上げるのを止めようかとも思ったが、孫崎氏の本は客観的なデータと参照した文献を示して自らの見解を述べ、筋道立っておりとり上げるのに値すると思った。勿論、右からも左からも氏を批判する人達がいることも十分承知した上での判断である。氏の本でとりあえず一冊選んで読むとしたら、ベストセラーの「戦後史の正体」がいいと思う。

 孫崎氏の主張はよく理解できるがこれまでの世界の歴史の流れを見ると、世界の覇者は大航海時代のスペイン・ポルトガル(重商主義)からオランダ、さらに産業革命を経たイギリスそしてアメリカへと移りそれが現在まで続いている。第一次世界大戦、第二次世界大戦の結果を見れば分かるように、いい悪いは別にしてここ2~3世紀の世界はアングロサクソンを中心に動いてきた。従ってアングロサクソンに同調していけば日本の外交は大筋間違ったことにはならない。

 下手に「対米自主路線」をとってアメリカから警戒視されて薄氷を踏む危険を冒すより、米軍へ基地を提供するなどのコストは少々かかるが、「対米従属路線」をとる方が賢いのではないか。その方が日本という国が世界の難しい力関係の中で、安全で大過なく生きていくための外交の本筋ではないか。アメリカと共に歩むことが日本が栄える道……… これがもう一方の見解である。

 この見解は戦後すぐに吉田茂が敷いた路線であり、説得力があり日本人の中でけっこう根深い考え方とも思える。しかしそれは現実には憲法と三権分立の上に米軍が君臨することであり、そうなってはもはや日本は独立した国家の名には値せず、国民の主権が侵害され国益が損なわれること甚だしい。

 孫崎氏の略歴は本の巻末によると次の通りである。
1943年、旧満州国鞍山生まれ。66年、東京大学法学部を中退し外務省に入省。英国、米国、ソ連、イラク、カナダ駐在を経て、情報調査局分析課長、駐ウズベキスタン大使、国際情報局長、駐イラン大使を歴任。2002年から防衛大学校教授に就き、09年に退官。

 右派か左派か、保守か革新かという色分けは現実的解決が要請される外交問題に関してはあまり有効だとは思わない。外交は相手国と交渉して自国のために具体的な成果を出すことである。そして、偏狭なナショナリズム(例えば、極端な自国第一主義、ISのイスラム原理主義、難民に対する排斥運動、ネオナチズム、ヘイトスピーチ、軍国主義的言動など)に陥ることを避け、第一次世界大戦、第二次世界大戦のような時代の再来を防がなければならない。

 孫崎氏は経歴を見れば分かるように、氏はキャリアの外務官僚でいわゆる”情報屋“であり、左派・革新に分類されるような人ではない。しかし集団的自衛権や特定秘密保護法などの安倍政権の時代錯誤的な動きに対しては、戦前の真珠湾攻撃に至る史上最大の愚策の歴史に酷似しているとして反対の立場を表明している。

 孫崎氏は言う。外交はきれい事ではなくスパイや不審死をも厭わず謀略をも駆使する。しかもこの謀略は決して表立って明らかにされることはない。これは世の中の出来事をマスコミが報道する通りに理解するのではなく、テレビや新聞等のメディアもまた謀略の対象であり、時として権力の側に立って謀略に加担するメディアもあり、ことの真相は別の所にあるかもしれないと疑った方がいいことを意味する。

 具体例を挙げると、日米開戦の真相、吉田茂の評価、60年安保闘争と岸信介の評価、田中角栄とロッキード事件、小沢一郎の政治資金規正法問題、東京地検特捜部、北方領土や尖閣諸島問題等々、いずれもアメリカとの関係をぬきには考えられない事柄であり、それぞれマスコミ主導の定着した評価があるようだが、ことの真相は普通に考えられている所とは別の所にあると孫崎氏は示唆している。

 私も思い出してみると、例えば40年以上前のことだがテレビのニュースでロッキード事件の報道を見て、田中角栄の金脈問題は実にケシカラン話だ、政治家はもっと襟を正して清潔であって欲しいと単純に憤慨したことを覚えている。大衆の素朴な倫理観や正義感は社会を根底から支えるインフラであり、従ってそれを否定的にいうつもりはないが、謀略はそういうものをも巧みに利用し煽動して目的を遂げる。田中角栄はアメリカの謀略で潰された、これが孫崎氏の見解である。

 孫崎氏の歴史の見方はいわば一種の謀略史観であると思う。戦後の日米関係は日本人の文化や生活様式の隅々にまで広範囲かつ全面的に影響を及ぼし、一方で米軍基地もあれば他方でディズニーランドもあるというような状況が複雑に錯綜している。従って謀略史観だけで日米関係を正しく理解できるとは思わないが、私にとっては目から鱗が落ちるような視点であり大いに役に立った。

 謀略により恐怖感を植え付けられた日本の高級官僚達は、心理的にアメリカに対する隷属状況から抜け出すことができない。反米的言動をとると自分の官僚としての将来がないことをよく知っている。その見せしめ的な先例もたくさんある。国益よりも自己保身を優先させる志を忘れた見識なき日本の高級官僚達と、アメリカとの秘密合意と密約による政治が横行している。

 例えば先ほど述べた「横田空域」は航空法などの国内法にも「日米地位協定」にもその根拠がない。「日米合同委員会」で合意したというだけであり、その内容は立法の府である国会にも明らかにされてはいない。1都8県にまたがるその広大な空域から日本の民間飛行機は締め出されている。首都の空が治外法権で他国に支配されているというのは先進国では日本だけである。何のことはない、戦後すぐの米軍の占領政策の継続を日本の高級官僚が今もなおそのまま認めているだけの話である。米軍の占領はサンフランシスコ平和条約(1952年)で終わったはずだ。「日米地位協定」と「日米合同委員会」のカラクリを我々は知らなければならない。

 日本統治の法体系が憲法体系と安保法体系(憲法と国内法の中に治外法権ゾーンを作り出している種々の特別法・特例法、例えば航空法に対する航空法特例法や土地収用法に対する土地等使用特別措置法など)という二重構造になっており、その矛盾を明らかにすることが日本の戦後史と現在の日本社会を解明することにつながる。
 
(後半)
 少し話の視点は変わるが、”似改善策”を示して幻想を振りまく勢力に人びとがいともたやすく騙された歴史を我々は知っている。第一次世界大戦の敗戦で巨額の賠償金に苦しんでいたドイツは、領土拡張と反ユダヤ主義という擬似改善策を掲げたナチス(国家社会主義ドイツ労働者党)にまんまと引っかかってしまった。その後の歴史は知っての通りである。擬似改善策は素朴なナショナリズムに善人面をして囁きかけ、短期間で物事が改善されるような一見威勢のいい幻想を振りまき、人びとを悪魔のような暴力的な世界へと引きずり込んでしまう。

 1929年から始まった世界恐慌には日本も苦しんだ。今思うとあの満州進出というのは擬似にすぎなかったのだが、日本人はそこに当時の経済的困窮の改善策を、そして日本の未来がバラ色に輝いているような幻想を見てしまった。関東軍の満州侵略はその擬似改善策の実行(「満蒙は日本の生命線!」)だったが、大多数の日本人は幻想に迷わされそれが本当の改善策のように見えてしまい、似て非なる擬似であるということを見破る力をもたなかった。

 そしてあの敗戦という悲惨な結末に終わってしまった。悪いのは当時の政府と官僚と軍部の上層部とマスコミ(新聞とラジオ)であって、我々庶民は戦争の被害者だという言い方がよくなされる。それは確かに事実である。しかし被害者意識から一歩も抜け出ようとせず、ただ糾弾するだけという居心地のいい立場に安住するという姿勢には私は少し疑問を感じる。言っていることは間違いではないが、ずっとその姿勢のままでいいのだろうか。擬似改善策に惑わされた歴史を見直し、なぜそうなってしまったのかと自責と自戒の念を込めて粘り強く問い直すという次の作業が必要であると思う。

 軍部独裁の恐怖政治の下で、人びとの政治的な選択の自由はほとんどなかった。しかしどんな政権であっても人間の心の奥まで究極に支配することはできない。内心はその人に属する最後の固有なものである。他者がその人の命を奪うことはあっても、その人の内心を奪うことはできない。

 庶民一人ひとりは心の中でどう考えたのだろうか。戦争へと突き進んで行く流れに何も考えずただ流されただけなのか、知らず知らずのうちにラジオと新聞の報道に騙されてしまったのか、自己保身と役得から自ら望んで騙されたいと思ったのか、仕方なく騙されたふりをしただけなのか。少し言い方を変えると内心と実際の行動との間に乖離はなかったのか、あったとすればその内心とはどういう内容だったのか。もう少し平たく言うと、日本が他国である満州に侵略することに心の中で何かしら引っかかるものを感じなかったか、感じたとすれば………………。

 戦前の1930~40年代の日本に私が生きていたとしたらどんな生き方ができたであろうか。私は満州侵略にはおそらく心の中で何かしら引っかかるものを感じたのでないかと思う。そして軍部独裁の日本の政治はどこかおかしいのではないかとも思ったのではないか。日米開戦では国力が圧倒的に大きいアメリカと戦争しても、勝つ見込みはないと常識的に判断したと思う。しかしそのことを声高に主張して憲兵や特高ににらまれ、一人犬死にするような道は選ばなかったと思う。死んでしまったらそれで終わりだ、とにかく生き延びることだ、戦争が終わるのを待とう、普通にそう考えたと思う。そしてそのために「面従腹背」という処世術を選択したと思う。

 世の中に対する認識のレベルは色々あったと思うが、結構多くの日本人が「面従腹背」して生き延び敗戦を迎えたのではないだろうか。卑怯で後ろめたい響きのある「面従腹背」であるが、次の時代に向けてエネルギーを貯めているのだという決意表明のような感じもする。その「面従腹背」は戦時中は組織化されることはなかったが、私はそれが日本の戦後を深層で本質的に準備したのではないかと思う。しかし、ともかくも歴史は擬似改善策に流れていった。

 戦後70年以上経ち、あの戦争はずっと前の世代のことで我々戦後世代には関係ないという空気があるが(日本が戦争をしたということを知らない世代も出てきている)、はたしてそれでいいのだろうか。同じ日本人として少なくともあの戦争からは何かを学び取らなければならない、そうでないと我々戦後世代は浮ついて"平和と民主主義"と唱えるだけで、確固とした考え方をいつまでも持ち得ず、大国の動きに右往左往するだけの軽薄な民に成り下がってしまう。擬似改善策なるものは幻想を振りまき、さもまっとうであるという顔をして今も飛び回っている。それはおかしいときちんと見破り、付和雷同して追従してはいけない。戦前も戦後もそして現在も日本人がそれに騙されるレベルの人間達であるならば、結局そのレベルの世の中しか訪れない。

 当時(戦前の1920年代~1940年代)の真正の改善策は、石橋湛山が一貫して主張していた「小日本主義」(朝鮮、台湾、満州、樺太の植民地を放棄して軍備の負担を軽減し、英米とも友好関係を維持して貿易を盛んにし加工貿易による通商国家として生きるという道)であったと私は考えている。植民地経営はコストがかかりすぎて経済的に割に合わない、貿易立国の方がはるかに豊かになれる。石橋湛山はそのことを論理的に説明し、「大日本主義」ではなく「小日本主義」こそが日本が進むべき道であると説得し続けた。石橋湛山はもっと評価されて然るべきジャーナリストであり政治家(鳩山一郎のあと1956年総理大臣になるが、アメリカとの確執もあり65日の短命内閣に終わる)であると思う。歴史に対する無知を克服してもっと賢くならなければ何も始まらない。

 アメリカの圧力にどう対処していけばいいのか、三国同盟を結んでいた同じ第二次世界大戦の敗戦国であるドイツ、イタリアもNATO軍(アメリカ軍)基地を抱えて戦後苦慮したが、住民も官僚も政治家も粘り強く交渉して、アメリカとの一方的な不平等関係(治外法権など)を克服してきた。

 カナダは地理的・経済的関係から建国以来ずっとアメリカの一つの州として併呑されてもおかしくなかったけれども、毅然として自主外交の姿勢を貫き通してきた。イラク戦争ではサダムフセインのイラクには大量破壊兵器があるというアメリカの主張に対して疑問を投げかけ、国連決議がないと動けないとしてイラク派兵を拒否した。アメリカとの関係も大事であるが、国連決議等の合法性の方ががより重要であるというカナダ外交の一貫性を示した。(フランスもドイツも同じく派兵を拒否した。)

 日本では小泉純一郎が唯々諾々とブッシュの言いなりになってイラク特措法を成立させ、陸上自衛隊をイラクに派遣したのとは好対照である。結局、大量破壊兵器は発見されなかった。どちらの立場の国が国際社会で信頼されるかは明らかである。アメリカの圧力を克服してきた諸外国の例を、日本の政治家と官僚は事なかれ主義から脱してもっと真剣に研究し見習うべきである、勿論我々一人一人も、と孫崎氏は主張している。

 私は孫崎氏の本を読み、1973年9月11日南アメリカのチリで起こった軍事クーデターのことを思い出す(「9.11」)………チリでは世界で初めて選挙で合法的に社会主義政権が誕生していた。それに反発していたアメリカ(ニクソン=キッシンジャー)はCIAの謀略により軍事クーデターを起こして、アジェンデ社会主義政権を倒してしまった。その後は虐殺・拷問・監禁というピノチェト軍事政権による反動の嵐が吹き荒れ多くの血が流された。理不尽極まる話である。1972年の沖縄返還(佐藤政権)と日中国交回復(田中政権)の後で、私がまだ20代の頃のことだった。

 ニクソン=キッシンジャーはベトナム戦争の終結に動いている一方で、南米では非人道的なことをしていた。アメリカから嫌われると、たとえ選挙で勝って成立した合法的な政権であろうとも、謀略によりいともたやすく倒される。認めたくはないがそれが歴史の現実であるといやが上にも知らされた。戦後の歴史を検証すると日本もこの例外ではなかったことがよく分かる、そして21世紀の現在の日本もまた同じである。

 アメリカは自由と民主主義の国ではないのか、という反論がありそうだ。私はアングロサクソンの近代国家つまりイギリスとアメリカは双頭の動物ではないかと思うことがある。一つの頭は確かに自由と民主主義であるが、もう一つの頭は謀略と覇権である。一つが実の顔で、もう一つは仮面であるというのではない、二つとも実の顔である。自由と民主主義の国は謀略を駆使しないし覇権を求めないというのはただの願望に過ぎない。自由と民主主義の国は歴史的に見て紛れもなく戦争国家であったし、現在でも間違いなくそうである。あの野蛮な阿片戦争をしかけたのはどこの国であったか、何の罪もない人びとの上に原爆を落としたのはどこの国であったか、そして今も中近東のイスラム社会で戦争をしているのはどこの国であるか。

 翻って、そもそも自由と民主主義の国は自国の中に謀略と覇権を禁止する(少なくともコントロールする)仕組みを作ることができるのであろうか。一つは自衛権の問題であるのだが、自衛のための戦争を認めてしまうと自衛のための謀略を認めざるを得ない。二つは国際的な経済競争の問題である。情報戦争に勝利した国が国際的な経済競争を有利に展開できる、その情報戦争には謀略は不可欠であろう。謀略と覇権のコントロールは一国だけでは難しい問題であると思う。ASEAN(東南アジア諸国連合)のこれからの動きが解決の糸口を示すかもしれない、注目して見てみよう。

 アメリカとの関係だけでなく、近隣諸国との外交問題もほぼ毎日のようにマスコミで報道されている。近頃では、ロシアとの北方領土返還問題、北朝鮮との拉致問題、韓国との慰安婦・元徴用工問題と竹島問題、中国との尖閣諸島問題などであるが、マスコミの論調を無批判に受け入れて感情が先に立ち、相手国が一方的に悪いと憤慨しているだけに終わってはいないか自省する必要がある。

 うっぷんを晴らすとその時はすっきりした感じになるが、相手国との間では何もいいことを生み出さない、いや相手国の政府と国民に反感を植え付けるだけである。数年前日系のデパートを荒すなどの中国での反日暴動を見て、大半の日本人がそう思ったはずだ。攻守立場を入れ替えて同じことがいえる。例えば、韓国の元徴用工問題で相手国に非があるように感じてその非を声高に非難していると、知らず知らずのうちにこちら側が偏狭なナショナリズムに落ち込んでしまう、そしてそれが憎悪に変わっていく。このことに無自覚でいることが恐ろしい。元徴用工問題はそんなに簡単に片付く問題とは思えない、自分がその立場だったらと考えてみるとすぐ分かることだ。嫌われる日本、嫌われる日本人になってはいけない、こちらの視点の方が重要だ。近隣諸国に嫌われるというつけがどれ程高くつくか、我々日本人は敗戦から今までいやというほど知らされてきたはずだ。近頃のニュース報道を見ていてつくづく思う。

  少し本題から離れるが、古い本だが五木寛之の「戒厳令の夜」が面白い。チリのクーデターのことを書いたので思い出した。その本の中で出てくる、パブロ・カザルスの「鳥の歌」(スペインのカタロニア民謡)がいい。


  


「また、桜の国で」(須賀しのぶ著 祥伝社)を読む。2018-07-20


        
          剣岳   2006.08.26(脊髄損傷前)


 1938年(昭和13年)秋、主人公・棚倉慎(まこと)はワルシャワの在ポーランド日本大使館の書記生として赴任するため、ベルリンからワルシャワまでの夜行列車に乗った。車中でユダヤ系ポーランド人の青年がドイツのSS(ナチス親衛隊)に痛めつけられている場面に出会い、正義感から中に入ってその青年を救出する………壮大な物語はここから始まる。慎は満州にある外務省の哈爾浜(ハルピン)学院で、ロシア語、ドイツ語、ポーランド語を学び外交官になっていた。日本に亡命した植物学者のロシア人の父と日本人の母との間に生まれたハーフで、顔かたちは父方のスラブ系の血を引いた27歳の青年である。

 ナチスによるチェコスロヴァキアのズデーテンの割譲(1938年)から始まり、独ソ不可侵条約とポーランド侵攻分割(1939年)、アウシュビッツ収容所(1940年~1945年)、カティンの森事件(1940年)、リトアニア領事杉原千畝のユダヤ人救出(1940年)、ワルシャワのユダヤ人ゲットーの蜂起(1943年)等を織り交ぜてワルシャワ蜂起(1944年)に至るまでがこの小説で綴られている、いわば凝縮された東ヨーロッパにおける第二次世界大戦史である。

 慎は9歳の時、東京の自宅で偶然ポーランド人のシベリア孤児カミル(10歳)と出会う。18年後、慎が在ポーランドの日本大使館勤務となった時にこのポーランド孤児達も同じ年頃の青年となっていてワルシャワでの交流が始まる。この部分は作者のフィクションの感じもするが似たような歴史上のモデルがあるのかもしれない。この青年達の友情と交流は重い歴史の中で抒情的な旋律を奏でていて感動的である。

 この小説を読んでいる時、サッカーワールドカップで日本対ポーランドの試合が行なわれていた。テレビでは対戦相手のポーランドが大の親日国であり、そうなった歴史的経緯を紹介していた。私はこの小説を読むまでその歴史を知らなかった。

 ポーランドという国は世界地図から二度消滅した歴史をもっている。二度目はよく知られているように、第二次世界大戦中のナチスドイツ(ヒトラー)とソ連(スターリン)による侵攻分割で、この時代がこの小説の歴史的舞台である。最初の消滅は、18世紀末ロシア、プロイセン(ドイツ)、オーストリアの三国による分割で、それから第一次世界大戦が終結するまで100年以上にわたり隣国の強国に蹂躙されてきた。帝政ロシアに支配された地域ではポーランド語を使うことが禁止され、徹底的に反ロシア活動が封じ込められた。自国の独立のために戦った多くのポーランド人が逮捕され極寒のシベリアに抑留されて強制労働に従事させられた。1918年のロシア革命で帝政ロシアは消滅しソ連が生まれたが国内は内戦状態に陥ってしまった。当時シベリアには10万人以上のポーランド人が生活していたが、深刻な飢餓状況に陥り疾病が蔓延し生活は凄惨を極めた。特に親を失った孤児達は悲惨な境遇になりその救出は火急を要する人道上の問題になっていた。しかし、アメリカ、イギリスをはじめ欧米諸国は要請されたがこの救出には動こうとはしなかった。

 唯一日本だけが手を挙げ、1920年(大正9年)から1922年(大正11年)にかけてウラジオストックから敦賀港経由で765人のシベリア孤児達を受け入れた。原敬内閣の時である。当時日本はお世辞にも経済的に豊かな国とはいえなかったが、官民一体となって孤児達を救出し東京と大阪の快適な施設に迎え入れて生活させた。孤児達はシベリア生まれでまだ母国を見たこともなかった。中にはポーランド語を話せない子供もいた。このためポーランド人の大人60数名が呼び寄せられ、また多くの日本人の看護婦は献身的なお世話をした。若き看護婦が腸チフスに感染し殉職している。着る服も無く栄養失調で腸チフスが蔓延していたが、孤児達は徐々に栄養をつけ健康状態は改善していった。そして独立間もないポーランドへと無事送り届けられた。

 この事について平成5年から4年間ポーランド大使を務めた兵藤長雄氏は回顧して次のように述べている。https://shuchi.php.co.jp/article/1812 https://shuchi.php.co.jp/article/1812?p=1

 シベリア孤児達はポーランドに帰ると孤児院で生活を始めた。その中の一人、イエジはやがてワルシャワ大学を卒業し、自らの子供時代と重ね合わせるように孤児院を経営し、また、かってのシベリア孤児達600人以上を組織して極東青年会という団体を作り親日の友好活動を展開していく。さらにワルシャワ蜂起までの対ナチスのレジスタンスを闘い抜いた、そのイエジの活躍はこの小説でも詳しく取り上げられている。 

 戦況の悪化でポーランドの日本大使館は閉鎖を余儀なくされ、慎はソフィアの在ブルガリアの日本大使館勤務となった。日本はドイツ、イタリアと三国同盟を結んでいたが、慎は再度ポーランドへ行きイエジの指揮下に入り対ナチスのワルシャワ蜂起に参戦する。ドイツ軍はスターリングラードの攻防などでソ連の赤軍から攻め立てられ敗走を余儀なくされていたが、態勢を立て直してワルシャワ蜂起を鎮圧する。ソ連の赤軍はワルシャワを南北に流れるヴィスワ川の東岸まで迫っていたが、なぜかドイツ軍と戦おうせず、ワルシャワ蜂起に立ち上がったポーランド国内軍と市民を援助せず見殺しにしてしまった。戦後のポーランドの政治的支配を狙ってドイツ軍とポーランド国内軍が消耗して共倒れするのを待っていたとも云われるが、ソ連(ロシア)側の資料が公開されておらず真相は現在までよく分かっていない。ワルシャワ蜂起でのポーランド人の死者は軍民合わせて20万人、第二次世界大戦での死者は600万人と云われている。

 終章。1956年(戦後11年)ポーランド系アメリカ人となっていたカミルは東京にいる慎の父を訪ね、ワルシャワ蜂起で勇敢に戦った慎の最期を報告した。それを聞いて胸の奥深く詰まっていたものが腑に落ちたのだろうか、慎の父はレコードをかけた………ショパンの「革命のエチュード」である。まだ子供だった36年前、カミルと慎が秘密の約束をしたあの時もこのピアノ曲が流れていた。

 私は何度もこのピアノ曲を聴きながら、この小説を読み進めた。1830年、ウィーンにいた20歳のショパンは、祖国の独立に蜂起したポーランド人がロシアから攻撃されワルシャワが陥落したという報せを受け失望し落胆した。その時のほとばしる熱情を叩きつけるようにこの「革命のエチュード」に込めたと云われているが真偽の程は明らかでない。
 
 (追記) 連想ゲーム的に次の本を読み映画を見た。
「夜と霧」 V.E.フランクル著 みすず書房
「アウシュヴィッツを志願した男」 小林公二著 講談社
「灰とダイアモンド」 アンジェイ・ワイダ監督
「カティンの森」 アンジェイ・ワイダ監督



K君の言葉(50年前の話)2018-06-25


              塩見岳から南アルプスの稜線を望む  2003.09.09(脊髄損傷前)



 18から20歳頃までの多感な青春時代の2年間を私は三鷹市にあった大学の男子寮で過ごした。当時300人程の寮生が生活していて、それから50年以上経つが今でもつきあっている友人が多い。K君とは2年生の時同じ寮委員をして何かと話す機会が多かった。K君は熊本出身で同じ九州だということもあって身近に感じた。私は20歳の時K君から人生を決定づけるような影響を受けた。K君は今東京で弁護士をしている。

 K君は自分は臆病だと言った。その上優柔不断だからぐずぐずして眼の前のやるべき課題に取り組もうとしない、実行すると決めたのにもっともな理由をつけて先に引き延ばそうとするというのだ。K君は自分をそう分析したうえで、だから考えて、「 ”No” でなければ ”Yes” 」つまり躊躇しないで実行すると決めたんだと言った。私も自分自身を臆病で優柔不断な人間だと思っていたので、K君の言うことに引きつけられた。

 誰でもそうだが物事はどのように考えなければならないか、そして自分はどのように行動しなければならないかという課題を抱えている。そのことが生きている証でもある。はいこれは右これは左とすぐに結論がでる問題は少ない。考えれば迷ってしまう、それが普通だ。粗雑に結論を出す必要はない、じっくり熟慮して結論を出す、そして実行する。K君の言うことに奇異はない、至極当たり前のことを言っているように感じられた。K君の ”Yes” は考え抜かれた末に導き出された究極の行動規範、人生哲学だが、その真髄はどこにあるのかもう少し検討してみよう。

 世の中には立場や思想信条の違いで ”Yes” ”No” が相反することが多い。原発問題然り、移民問題然り、憲法改正然り………。しっかり考えて判断する場合もあれば、習慣や惰性で簡単に処理している場合もある。この世ではしてはいけないことがありそれは ”No” で、反対にしなければならないことは ”Yes” であると思っている人がいる。一方、いやこの世にはしてはいけないことなど何もないし、しなければならないことなども特に何もないと考えている人もいる。 ”Yes” か ”No” かを問うとすれば、抽象的議論をせず個別具体的に検討するしかない。

 こういうシビアな事柄のほかに、世の中にはまあしてもしなくてもどっちでもいい、 ”Yes” か ”No” かどっちでもいいという事柄もある。数的にはこっちの方が多いかもしれない、そして人生はこのどうでもいいようなことの連続で充満しているといってもいい。このどっちつかずはけっこう我々の頭を悩ませる。ここで、K君の「 ”No” でなければ ”Yes” 」の出番となりその本領を発揮することになる。

 例えば、友人からあるイベントに誘われたとしよう。”Yes” か ”No” かはっきりしない、まあどっちでもいいかという場合がけっこうあるのではないか。せっかく誘われたのだ、特に断る理由がなければ参加してみようというのが、「 ”No” でなければ ”Yes” 」の意味するところである。面白くなかったならば次から参加しなければいいだけの話である。 

 私はK君の真似をすることした。実践的で有力な行動の基準であると思ったからだ。以来50年以上経つが、仕事の場面で、家庭の場面で、様々な人間関係の場面で私はこの ”Yes” のお世話になってきた。元来私は何事にも引っ込み思案な性格だったのだが、周りの方が私のことを曲がりなりにも積極的な人間だと思っているとしたら、それはこの基準の賜物である。30半ばで知り合いが一人もいなかった福岡に東京から移り住んでこれまでやってこれたのも、この ”Yes” のお陰である。そしてそれは間違いなく私の人生を面白くしてくれた。

 私は人生は ”邂逅” だと思っていた。自分一人の独創的な創意工夫で道を切り拓くということもまれにないではないが、私のこれまでを振り返ってみると人との出会い、本との出会いの影響が大きかったと思う。少し考えればお分かりのように、この ”Yes” は継続すると次第に人の性格を変え行動を変えそして人生を一変させる力をもっている。20歳の時、私の ”邂逅” はK君の ”Yes” と合体し、相乗効果で私の生き方を根こそぎ変えてしまった。

 さてこの基準を適用して生きていくと、することが多くなりすぎて頭が混乱し収拾つかなくなることにはならないか。また予期せぬ不測の事態に陥る危険が多発することにはならないか。確かにこのような疑問が生じるが、実際にはそういうことにはならない。なぜならもともと ”No” の場合には行動しないという歯止めがあるからである。反社会的である、違法である、危険度が高い、他人に迷惑をかける場合などは当たり前だがしてはいけないかしない方がいい場合であり ”No” となる。好きになれない、なんとなく気分が乗らない、時間的制約があってできない、経済的負担が大きい、などの主観的・個人的理由で ”No” となる場合もある。  

 ところで多くの人はなぜいろんな場面で臆病で優柔不断になるのだろうか。いったん決めたことを色々理由をつけて躊躇し先に引き延ばそうとするが、怠惰であるためにそうするのだろうか。それは多くの人とっては自分と家族の生活を維持継続することが何よりも大切だからだと思う。そのことを否定的に自己保身といってもいいが、普通の人がこの自己保身を捨てさることは至難の業である。臆病風が吹いて次の一歩がなかなか踏み出せない、そのことを非難してもいいがその踏み出せない内実は自分と家族の今の生活を壊したくないという本能的な生存の欲求である。従って手強い相手だといえる。

 K君はこのことにほとほと手を焼いたのだと思う。他人の心の領域にはなかなか踏み込めないが、せめて自分は自己保身を克服して生きようと決意したのだ。”君子危うきに近寄らず” ではなく、”義を見てせざるは勇なきなり” である。自己保身を理由に ”No” と言うことを自らに禁じ、意識して退路を断って次の一歩を踏み出すと決めたのだ。ちょっと考えると立身出世主義のようでもあるが似て非なるものである。立身出世主義はあくまで計算ずくめの上昇志向である。K君はとうの昔そういうレベルの生き方には決着をつけ、最後に残った手強い自己保身を 「 ”No” でなければ ”Yes” 」で克服し、場合によっては自己犠牲をもいとわないという生き方を選んだのである。   

 近頃国会を舞台に森友・加計問題で、何かを隠すために嘘をついるのではないかと疑いたくなるような、政治家や官僚達の人間性や誠実さなど無きに等しい言動を頻繁に見せつけられた。その度に私は次のイメージにとらわれしまう………人の体から口が遊離して宙に浮かび、その口先が元の人間とは無関係にパクパクと開閉して声を発し、そこから空虚な言葉がへらへらと漏れ出ているというイメージである。そんな言葉ともいえないような言葉には人を説得する力もなければ感動させる力もない。私は見たくないものを見せつけられ、体が震えるような生理的な嫌悪感を抱いてしまう。K君の言葉とはその真摯さにおいて雲泥の差がある、真心から絞り出すように生み出される言葉の復権を希う。
 

70歳から生き方について考える。2018-06-08


      
     九重(三俣山)のミヤマキリシマ  2003.06.08(脊髄損傷前)


 いつの間にか70歳になった。70歳からの生き方はこれまでの生き方とは違うのだろうか、などと考えているうちに来月には72歳になってしまう。少し焦る気持ちが沸き起こってきた。これではあっという間に80歳になってしまう。日本人男性の平均寿命は80歳、私の寿命は85歳位と考えていたので、これでは何もしないで私の人生は終ってしまうではないか………そんな気持ちになってしまった。さて、どう考えたらいいものだろうか。

 物事には準備期間とか助走期間というのがある。突然70歳になったりはしない。普通はその前に少しずつ将来の生き方の準備をしていくのではないのか。ところが私の60歳代の10年間はさんざんなものだった。60~65歳の5年間はうつ病に打ちのめされた日々で、もう2度と味わいたくない辛い時間だった。睡眠導入剤と向精神薬で何とかその日その日をつないでいたようなものだった。65歳の時、駅の階段で転倒し頸椎を骨折した。四肢麻痺で寝返りもできなくなり24時間介護が必要な体になってしまった。それから今日まで障害者としての生活に順応することに精一杯だった。重度の障害者として第二の人生が突然始まり、それから老いるという必然が追いかけてきているという感じである。
 
 「君たちはどう生きるか」(吉野源三郎著 岩波文庫)という本が売れているという。1937年(盧溝橋事件と同じ年)に出版されたずいぶん古い本だ。私も中学2年生の時中学校の図書館で読んだ。覚醒されたというか啓発されたというか、読んだ後で自分がこれまでとは違った人間になったような感じがしたことをはっきりと覚えている。拙いながら私が人生というものを考え始めた時である。

 それから今日までの60年もの間様々なことがあった。そしてそのときどきで私なりに真剣に考えて自分の人生を継続させてきた。30歳の時私は落ち込んでいた。世の中には自分を元気づける妖しげなる術があるのではないか。その術を発見し体得できればたくましくかっこよく生きることができるのではないか、と思った。私は自分の心を支える言葉を探した。人生論というか哲学というかその付近の領域のことを私は「養精術」と名づけた。そして副題を「たくましさの哲学」「かっこよさの哲学」とした。今日まで生きてきたということは、そのときどきで「養精術」の各論をつけ加えてきたことだと言ってもいい。その「養精術」を振り返ってみることでこれからの生き方の一助にしてみよう。未来とは白紙に好き勝手に絵を書くようにはやって来ない。現状の克服の中にしか現実の未来はない。

 いわゆる教養主義なるものを20歳頃までは信じて疑わなかった。しかし徐々におかしいのではないかと考え始めたが、72歳の今となっても本当のところ克服できていない。教養を積むことは良いことだという生き方や考え方を一般に教養主義というが、検討していくと問題点が多い。自分では気づいていないが様々な固定観念が私の思考をいびつにしている、その代表格が教養主義である。それらは束になって私を縛りあげ骨抜きにしているような気がする。それらを克服することをしないでどうしてこれからの自分の未来を考えることができるだろうか。どうすれば様々な固定観念の呪縛から解放されるのだろうか。

 もう一方で私の頭の片隅をチラチラするのは、「悟る」というか「枯れる」というか全く別次元の老後の生き方である。若い頃からずーっと心の深いところで、縁側に座って日がな一日を日なたぼっこしながら猫を膝に抱いて過ごしている年老いた自分を想像してはそうなればいいなあと思っていた。ところがその憧れていた生き方とは正反対に、私はいい年をして教養主義に囚われたまま青臭く生きようとしている。

 私は昨年71歳で放送大学(4年制大学)に入学し大学1年生になった。九州大学もある春日キャンパスでの入学式に行くと社会人らしき人が100人程来ていた。60の手習いならぬ70の手習いである。10年間在籍するコースを選んだ。10年間で社会科学、自然科学を問わず200科目程度勉強するつもりでいる(1科目は45分×15回)。50歳の頃に60歳(還暦)になったら仕事の時間を減らして夜間大学に通おう、そして経済学を学び直そうと思っていた。10年遅れたが、障害者になったのでインターネットで学べる大学を探し放送大学にたどり着いた。私は今まで歩いてきたのと同じく青臭く生きる道を選んだようだ。

 デイサービス(週2日)での午後、私はパソコンのインターネットでその放送大学の講義を受講している。するとデイサービスのスタッフの方から「松崎さんもたまには皆さんと一緒にカラオケでもしませんか。」と声をかけられる。皆さんとは80~90歳代の認知症の方々である。カラオケはあまり好きではないのでと言い訳をしながら放送大学の講義を視聴する。するともう一人の私が現れてきて言う。「君も悟ってないなあ、何故認知症の皆さんと一緒にカラオケができないのだ。」 確かにここには好き嫌いだけでは済ませられない重大な問題が潜んでいる。

 ” 霞立つ ながき春日に 子供らと 手鞠つきつつ この日暮らしつ "………良寛さんは遥かに遠い。

 学びたいことは山積している。読みたい本もたくさんリストアップしている。しかし私には限られた時間しか残されていない。だからついつい勤勉でかつ効率よく時間を使わなければならないなどと考えてしまう。こんな風に考えてしまうところが私の駄目なところである。やはり私は堂々巡りというか出口のない固定観念の地獄に落ち込んでいると言わざる得ない。時間という固定観念だ。時間は眼に見えない、だからあれこれイメージすることになるが、その時間を過去から未来への一本の直線のようにイメージしそれを横軸にしてその上に人生というものを載っけて物事を考える思考法だ。あたかも時間を物差しのようにイメージしている、そしてそこから勤勉でとか効率よくとかいう考え方が生まれるのだ。

 明日、交通事故で死ぬかもしれないではないか。その時こんなに早く死ぬとは思わなかったとでもいうのか。何故自分には少しの時間しか残されておらず、その時間ではやりたいことのほんの少ししかできないなどと悲観的に考えてしまうのだ。いつ死んでもいい、いやどう考えようといつかは死ぬ。学び残しや読み残しがあってもいいではないか、それが普通で自然だ。そのことが分かったうえで、勤勉で効率よくなどという矮小で硬直した世界から抜け出して、今という学びの時間をゆったりと楽しむという生き方を求めてはどうか。時間一般などというものはない、私の時間があるだけだ。否、そもそも時間などというものはないのだ。人生は楽しむためにある、とは50歳の頃「養精術」に書いた言葉ではなかった。72歳にもなって私はこんな簡単な理屈も分かっていないのだ。

 生きているというならばナメクジだって生きている。しかしナメクジは自分の生涯の短さを嘆いたりはしない。