今はもう秋2023-03-03



        九重法華院の秋 2003.10.24 (脊髄損傷前) 


  今はもう秋 誰もいない海
  知らん顔して 人がゆき過ぎても
  私は忘れない 海に約束したから
  つらくてもつらくても 死にはしないと

 秋になると上の唄が胸をよぎる。トワエモアの唄として有名だが、私世代ではなんといっても越路吹雪だ。あの独特の大人の女の雰囲気は彼女でないと出せない。唄の詩は山口洋子、曲は内藤法美つまり越路吹雪の夫君である。夏の賑わった後の静寂な誰もいない海、波の音しか聞こえない、そう今はもう秋なのだ。想像の秋は現実の秋より深く秋を感じさせてくれる。

 「愛の詩集」(1956年の出版 角川新書)という古い本をアマゾンで手に入れた。私が小学校6年生の時父に頼んで買ってもらった本だが、どこかで紛失したのだろう今になってまた欲しくなった。6年生の時早熟気味の友達のF君がもっていたので私も欲しくなったのだ。父が子供の私にはまだ少し難しい本ではないのかと言ったことを思い出す。中原中也の「曇天」という詩が載っていた。

 ”ある朝 僕は 空の 中に 黒い旗が はためくを 見た。” で始まるこの詩の書き出しは私の頭に妙に染み付いた。「黒い旗」が何なのか当時の私には分からなかったが、「黒い旗」は何故か呪文のようにしつこくつきまとってくる。成長するにつれその正体が何なのか理解した。空の中に「黒い旗」がはためいている、中原中也と同じようにあるとき私もそれを見たのだ‥‥‥‥青春という一種暗い時代の始まりであった。私の精神史で記念すべき一冊である。

 福岡市の油山に紅葉を見に出かけた。私は脊髄損傷で歩けなくなる前は「あだると山の会」のメンバーとして登山に熱中していた。私にとって幸福な時間だった。その時の仲間が誘ってくれた。私と妻を含め15名程集まった。あの時から10年以上経つのでお互いに髪は白くなっているが山が好きだという気持は変わらないままだ。かっての山仲間との10年ぶりの紅葉(もみじ)狩り、車椅子でも山の秋は楽しめた。

 メールで青木繁光君が亡くなったと知った。彼とは中学、高校、大学と同じでお互いにその存在を認め合った仲だった。深い意味で彼とは親友でありまたライバルでもあった。だから、彼とはベタベタしたつきあいはしなかった。年賀状のやりとりもしなかった。30歳になっても40歳になってもそして76歳のこの歳になっても私の心の中で彼はずっと生きていた。彼にだけはBUZAMAな姿は見せられない、落ち込んだ時の心の歯止めとでもいう形で、彼はいつも凛として私の前に立っていた。

 数年前福岡の私の会計事務所に訪ねて会いに来てくれた。50年ぶりの再会だった。中学から大学までの10年間の彼が私の心の中で生ている。それ以外の彼のことは知らない。伝え聞くところによると、彼は風力発電の権威であったそうだ。社会人の合唱団でも中心的に活躍されたらしい。勤めていた会社では一度も残業をしなかったという噂を聞いたこともあった。

 彼のようなエリートエンジニアが一度も残業をしないなどということがあり得るの
だろうか。今度会ったときに確かめてみようと思っているやさきに亡くなってしまった。彼ならばやりかねない。そのことがどれ位ものすごいことか、彼はその重圧に耐えて会社勤めをしたのだろうか。彼は曖昧なことを許さない一種完成した超一級の辛口の人間であった。会社勤めの人生を彼にとってもっと大事な事(おそらく社会人の合唱団)のために捨てたのだと理解した。

 秋の日の ヴィオロンの ためいきの 身にしみて ひたぶるに うら悲し

 ヴェルネールの「落葉」という詩を上田敏が訳したものであるが、若かりし頃先ほどの「愛の詩集」で読んだことを印象深く憶えている。この詩が第二次世界大戦の時のノルマンジー上陸作戦の開始を報せる暗号として使われたことは後日知った。

 例によって連想ゲームよろしくネットで調べていると、森瑤子の「秋の日の ヴィオロンの ため息の」というタイトルの小説に出会った。普段はこういう類の小説を読むことはないが之も何かの縁というノリで読んでいると、長田弘(おさだひろし)という詩人に出会った。読んでみると長田弘に親近感を感じた、ここからまたまた私の好奇心ワールドは広がりそうな感じがする。こんな感じで生きていると時間が足りない。


76歳になった。2022-09-04




        2003年7月6日(脊髄損傷前)   斜里岳(北海道)



「……市井に漂いて商買知らず、隠に似て隠にあらず、賢に似て賢ならず、物知りに似て何も知らず、世のまがい者、唐の大和の数ある道々、技能、雑芸、滑稽の類まで知らぬ事なげに、口にまかせ筆に走らせ一生を囀(さえず)り散らし、今わの際に言うべく思うべき真の一生事は一字半言もなき倒惑」
 
 近松門左衛門の辞世の筆であるという。この見事なまでの自虐的な逆説を読んだだけで近松門左衛門なる者がただ者でないことが分かる。これが何故に逆説であるのか。長年にわたり私が経験したことであるが、物事のなんたるかを知らない者は一般に傲慢であり、逆によく知る者は一般に謙虚である。学べば学ぶほど人は自分がいかに何も知らないかをそしていかに愚かであるかを自覚する。

 ところでこの身の表し方あるいは隠し方のなんとカッコイイことか、これだけで近松門左衛門のファンになってしまう。私も76歳を過ぎ「今わの際」もそう遠くもない身の上のはずであるが、その切実感も無いまま「言うべく思うべき真の一生事」など皆目頭に浮かばずまた考えようともせず、相変わらずの読書と囲碁と映画の好き勝手な日々を送っている。万事にわたり独りよがりであることはじゅうじゅう自覚しているつもりだが、死なるものはまだまだずっと先の話と内心思っているということであろう。

 とはいうものの私のこれまでの人生って何だったんだろうと人並みに思わないことはない。物心ついてから(幼稚園の頃か)今日に至るまで、様々な出来事や出会った人々また読んだ本の事などを思い出し、必ずしも世間並みではなかったこれまでの自分の来し方をどんな気持で思い返せばいいのだろうか。自分の人生が甲だったのだ乙だったのだと、肯定でも否定でもなく反省でも自画自賛でもなく、何の内省も交えず事実通り思い返すことはまだ少しつらい感じがする。なぜならそれはまだこれからの人生がわずかだが私には残っているという意味は大きいからだと付け加えざるをえない。

 「人は様々な可能性を抱いてこの世に生まれて来る。彼は科学者にもなれたろう、軍人にもなれたろう、小説家にもなれたろう、然し彼は彼以外の者にはなれなかった。これは驚く可き事実である。」 (様々なる意匠 小林秀雄)

 有名な「様々なる意匠」に出てくるこの文章はどう読めばいいのか。すごいことをいっているのだろうか、読み進めていくと小林秀雄は「宿命」なるものを云おうとしているようだが。

 「然し彼は彼以外の者にはなれなかった。」 確かに然り、私は私以外の者にはなれなかった。この事は単なる結果論ではない。私以外の者にならないために悪戦苦闘して生きるのが私が世を渡る流儀だった。これ以外にどんな生き方があったろうか、そしてその喜怒哀楽の内実を誰が知ろうか。私以外の者になるということはほとんど死を意味する。

 この小林秀雄の同義反復のような表現をもう少し正しく分析するならば、人は身体を同一物として死ぬまで継続して生きているが故に、この内心の自分を修復しつつも同じ者として継続しているとついつい錯覚してしまう。この錯覚が物象化した観念の産物が「私」にほかならない。万物が生々流転の相にあるが如く、自分も日々変化し10年前20年前の自分とは同じではないはずだ。かかる変化変貌の契機こそが第一義に語られるべきことであり聞くに値することである。

 さらに正確にいえば小林秀雄のいうようには人は様々な可能性を抱いてこの世に生まれて来る訳ではない。そんな「この世」などこの世のどこにも無い。「様々なる意匠」が書かれた1929年は2年後に満州事変が勃発した時代だったことを想起してみればよい。もっとはっきり例を挙げれば、アメリカで黒人の奴隷として生まれた人間にはどんな可能性があったというのか、悲惨な人生を送るという一つの可能性しか残されていなかったのではないか。
 
 「仏道を習うということは、自己を習うのである。自己を習うというのは、自己を忘れるのである。自己を忘れるというのは、万法に証(さと)らされるのである。万法に証らされるというのは、自己の身(からだ)と心、そして他人の身と心がなくなってしまうのである。」 (正法眼蔵・現成公案 道元)

 「仏法を求めるとは、自己とは何かを問うことである。自己とは何かを問うのは、自己を忘れることである。答えを自己のなかに求めないことだ。すべての現象のなかに自己を証(あか)すのだ。自己とはもろもろの事物のなかに在ってはじめてその存在を知るものである。覚りとは、自己および自己を認識する己れをも脱落させて真の無辺際な真理のなかに証すことである。こうしたことから、覚りの姿は自らには覚られないままに現われてゆくものだ。」(正法眼蔵現代文訳 石井恭二 河出文庫)

 つくづく自己なるものに捕らわれ迷い続けた人生だったと思う。連想ゲーム的な読書をしていると何の因果か道元に出会った。道元は言う、「みづからをしらんことをもとむるは、いけるもののさだまれる心なり。」(正法眼蔵) 之を読んで私は私が考え続けたことの大筋は間違っていなかったと安堵した。私は”廣松渉”を理解したいと思い廣松渉の本を読んでいるが、認識論の世界で”道元”となんと似通っていることか。

 マハトマ・ガンジーの言葉「明日死ぬと思って生きなさい。永遠に生きると思って学びなさい。」

 明日死ぬと思っては生きることなどできっこない、そう思っただけで気が狂ってしまう。永遠に生きると思った途端に全身脱力して立ち上がれなくなる。そんな極端で無茶なことを言われても困るし実行できない。ガンジーはそれぞれの決意の高まりを求めたのだろう。‥‥76歳になっても学ぶべきことはまだまだ多いはずではないのか、ガンジーの声が聞こえそうである。


五味川純平「戦争と人間」、 船戸与一「満州国演義」 を読む。2021-10-20

 
  劔岳北方稜線より早暁の鹿島槍(双耳峰)を遠望(2006.08.27 脊髄損傷前)



 50年以上前のことだが受験勉強中心の生活から解放されて大学1年生の時、かっての超ベストセラー 五味川純平の「人間の条件」を読んだ。このたびかねてから読みたいと思っていた五味川純平の「戦争と人間」と船戸与一の「満州国演義」を読んだ。2冊ともに長い小説である。長編小説としてよく読まれているドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」と比べると、二つとも2倍以上の長さである。

 これまで昭和史の本を読んできたが、1930年前後に国内の世論は満州事変支持へと大きく傾いた。政府・軍部による世論操作にもより、日本国内の中国に対する侮蔑的なナショナリズムは大衆的レベルにまで沸騰し、更に経済が最悪の状態にまで逼迫したことにより、日本は満州国を建国し戦争必至への道へと大きく旋回してしまった。

 日露戦争(1904~1905)、辛亥革命(1911~1912)、第一次世界大戦(1914~1918)、ロシア革命(1917)に続いて、1930年前後の国内の主な動きは以下の通りである。

 1927(昭和2)金融恐慌 第1次山東出兵 東方会議   第一回普通選挙
 1928(昭和3)3.15事件 済南事件 張作霖爆殺事件 改正治安維持法
 1929(昭和4)田中義一内閣→浜口雄幸内閣  軍縮財政 世界恐慌 
 1930(昭和5)ロンドン軍縮会議→統帥権干犯問題 台湾霧社事件 
        浜口首相狙撃 農業恐慌 間島朝鮮人武装蜂起
 1931(昭和6)3月事件 中村大尉事件 万宝山事件 満州事変 10月事件
 1932(昭和7)犬養毅内閣 第1次上海事変 満州国建国 血盟団事件 
        5.15事件 リットン調査団報告
 1933(昭和8)ヒットラードイツ首相に 国際連盟脱退 滝川事件 神兵隊事件

 その後、2.26事件(1936)から 日中事変(1937)、ノモンハン事件(1939)、日独伊三国同盟(1940)、太平洋戦争(1941~1945)、ポツダム宣言受諾(1945)へと奈落の底にまっしぐらに突き進んでしまう。

 <大きく旋回した>という上の理解はとりあえず間違ってはいないと思うがもう少し大局的に見ると、清がアヘン戦争(1840年)でイギリスに敗北し、ペリーの黒船が日本に来航(1853年)した頃から東アジアの大きな激動が始まった。幕末・明治維新から太平洋戦争敗北(1945年)に至るまでの約100年間の急激な日本の動きも、<欧米列強の植民地主義と東アジアの近代化とナショナリズム>という大きな歴史のうねりの一部として理解する方が分かりやすいと思う。

 さらに歴史を大きく俯瞰すると<欧米列強の植民地主義>の傷痕は今なお世界の到る所で生々しい現実を晒しており、<近代化とナショナリズム>の内容は複雑で時代とともに変化して一様ではなく批判的に検討しなければならない面もあるが、世界を見渡すと今もって貧しい民衆の群が社会の底辺でうごめき、民族間の戦争・紛争は止むこと無く何処かで勃発している。その一方で欧米の飽食している人間が飽くことなく世界の富を支配し続けている。

 戦前のこの波乱に富んだ激動の時代(1931年の満州事変~1945年の敗戦)はすでに過去のものであるが、その時代に生きていたならばどんな気持ちで生きていただろうかと考えられずにはいられない。時間が濃密に凝縮した<侵略と自衛>というこの戦争の時代に私は心を奪われて久しい。

 日本の歴史の中で方向を誤った変調な時代であったという評価が支配的であるが、当時を軍国主義だといえばそれで全てが解決されたような気分になることこそが問題である。戦前と戦後の間にアメリカ・GHQが支配する占領の時代(1945~1952)があったが、戦前は知れば知るほど今生きている現在と深い所で通底していると感じてしまう。一言で云えば品のないいい方だが、相も変わらず小賢しい薄っぺらな人間が制度や組織の悪しき惰性に乗っかってこの日本社会を牛耳っている。

 もっと具体的に云うと、責任をとらず自己の保身と利益を第一に考える政治家と官僚、威勢がよく耳ざわりのいい主張になびく素朴だが無力な大衆、中国・朝鮮に対する侮蔑的な歪んだナショナリズム、見識も知性も教養も恥ずかしいほどに貧弱な政権のトップ、政党政治の機能不全等々、ひどく酷似性を感じてしまう。

 しかしよくよく考えてみると酷似性を感じるのは当前のことだといってよい。原爆を投下され空襲で焦土と化し300万人以上の同胞が死んだ悲惨な戦争ではあったが、たかだか15年間くらいの戦争が終わっただけで上記のような人間の思考や行動が変わると考える方が、楽観的で滑稽だというものかもしれない。

 戦後の歴史もすでに70年以上経つが、"反戦" ”平和” ”民主主義” ”自由” ”平等” 等々の、250年前のフランス革命と似たようなお題目を唱えているだけでは、霞ヶ関・永田町一帯に生息する政治家と官僚の本質を何も変えることはできなかった。何が根本的に間違っていたのか、我々はどこからどのような思考を出発させなければならないのだろうか。

 五味川純平、船戸与一の小説は戦前のこの時代を扱ったものである。作家も小説も通俗的すぎると思っている方がおられるかもしれないが、小説の巻末の膨大な(注)と参考文献の一覧を見れば、二人の作家がかなりの分量の資料を漁ったことがお分かりになると思う。「戦争と人間」の(注)は澤地久枝氏が書いているが、これを読むだけでもかなりの根気とエネルギーが要求される。船戸与一はガンを病みながらも執念で「満州国演義」を書きあげこれが遺作となった。私より2歳年上の作家である。

 これらの小説を読みたい方は、日本の現代史をある程度調べてから読まれる方が分かりやすいと思う。標準的な所で半道一利氏の「昭和史1926~1945」(平凡社ライブラリー)、保阪正康氏の「あの戦争は何だったのか」(新潮新書)、山室信一氏の「キメラ 満州国の肖像」(中公新書)、安富歩氏の「満洲暴走 隠された構造」(角川新書)、戸部良一他「失敗の本質 日本軍の組織論的研究」(ダイアモンド社)などを参考にしてはいかがであろうか。変わったところで、佐野眞一の「阿片王」(新潮文庫) は歴史書ではなくノンフィクションであるが、歴史を表層ではなく現在に通じた厚みをもって理解するのに役立つ。

 日本学術会議の会員候補として推薦されながら、管政権により否認されたことで話題になった東大教授加藤陽子氏の諸著作も傾聴に値すると思う。小説では、安部公房「けものたちは故郷をめざす」、吉村昭「殉国 陸軍二等兵比嘉真一」、大岡昇平「野火」などは読んで損はない。

 歴史の本で100%お薦めできる決定版はなかなかない。歴史の不明な点を調べていくとますます分からないことが増えていく。これまで歴史の教科書に書いてあったことに疑問を感じるようになる。現代史においてさえ新たな史料が見つかりこれまでの通説的な解釈が覆ることも多い。難しいことだが偏らないで広範囲に読むとしか言い様がない。

 小説はフィクションであることには違いないが、その土台となる歴史の個々の事実は時間の経過の通りで曲がってはいけない、その上での人間のドラマである。似たようなことを船戸与一は次のように述べている。”小説は歴史の奴隷ではないが、歴史もまた小説の玩具ではない。” 我々読者は小説のストーリーを楽しみながら同時に歴史のディテイルを学ぶことができる。
 
 私は更に興味に任せて戦前の昭和史の本数十冊を読んだ。興味深い本もあったがそれらの本等については長くなるのでここでは触れない、又いつかこのブログに感想を書きたいと思う。映画では、「人間の条件」、「戦争と人間」、「野火」(新旧)、「セデックバレ」、「南京南京」、「226」、「ラスト・エムペラー」、「硫黄島からの手紙」、等々を観た。

 <私事で恐縮だが> 私の祖父の成瀬八郎は戸籍謄本によると昭和21年8月(日にちの記載はない)長崎市で死亡している。なんと私が生まれた翌月である。満州の北東(現在の黒竜江省)の牡丹江で憲兵をしていたという、当時牡丹江付近では地下資源採掘他に多数の日本人が住みつき関東軍が駐屯していた(昭和20年8月 牡丹江事件あり)。憲兵だったという祖父の死は日にちの記載がないことで、自然な死にかたでないことは明らかであろう。BC級戦犯として処刑されたのであろうか。

 私の父は今から数年前93歳で亡くなった。父は佐賀県鹿島市と嬉野市の中程にある山あいのさびれた農村に林田姓で生まれ、幼い時に親戚の成瀬八郎の養子になった。林田家は農家で貧しかったのだろう、憲兵をしていた成瀬八郎に養子に出したのである。林田家の長女が成瀬八郎に嫁いでいた、従って父の義母は実の姉ということになる。成瀬八郎夫婦には子供が生まれたが生後すぐ亡くなったという。義父が満州で憲兵をしている中、父は独り生活費の仕送りを頼りにして長崎市で学生生活を送っていた。

 従って私は林田姓だったかもしれないし、あるいは本来ならば成瀬姓を名のるところであったのかもしれない、故あって母方の養子となり松崎姓で生きてきた。つまり私は血筋正しき由緒ある家柄の人間ではない。私の妻も似たようなものである。従って私達の子供達も言わばどこの馬の骨とも分からないということになろうか。

 どこの馬の骨とも分からない………なんと素晴らしいルーツではないか、 ”雑草のごとくたくましく生きていく” という心の 源泉がここにあると私は誇らしく思っている。雑草は踏まれても強い。自慢できる祖先探しをするNHKの「ファミリーヒストリー」という番組などは、わが家族には全く関係ない。

 例えば天皇家のように万世一系と云うような祖先のフィクションに心の拠り所を求めるというような生き方は、どこかいかがわしく嘘っぽいと思う。人は自分のDNAを生まれたときのまま死ぬまで変えることができない。だからどのようなDNAを持っているかを思考の出発点にするわけにはいかない。

 同じことだが人間は誰しも自分から願い出てこの世に生まれてきたわけではない。ある日あるとき物心がついたとき、自分がこの世に存在していることを知るだけである。自分が社会に放り込まれ独りで生きることを余儀なくされていることを知るだけである、つまりそこからすべてが始まる。従ってそれより前の出自を問題にすることは、ひとりの人間の人生を考えるときには原理的に間違いである。

 私がまだ小学生の低学年の頃(昭和30年代のはじめ)のことであるが、私の祖母(父の義母)が佐賀の片田舎から私らの長崎の家に来て一日泊まっていったことを 思いだす。祖母は子供の目から見ても貧しい身なりをしていた。山で拾ってきたという椎の実をお土産に持ってきた。どことなく遠慮がちであった。私は孫(または甥)になるわけであるが、祖母は私にどう対応したのいいのか分からない風だった。祖母との出会いはこれだけである。

 父は学徒動員で出征し陸軍少尉として朝鮮の釜山で終戦を迎え、原爆投下直後の長崎市に戻ってきた。父は生まれたばかりの私を抱え、義父の普通ではない死をどんな気持ちで迎えたのだろうか。その父が従軍し軍隊生活を体験したためであろうか、私がまだ小学生の時だったが五味川純平の「人間の条件」を貪るように読んでいたことを思い出す。

 少し話は飛んで私が30代半ばの頃(その頃、私は公認会計士としてある監査法人に勤めていた)のことになるが、ある日父は私に対し反省的に詫びる口調で ”お前の考えが正しかった。自分の考えが間違いだった。” と話し出したことを思い出す。

 大学生の時私はヘルメットをかぶり学生運動(全共闘)にのめり込んだ、そして大学4年生(工学部)の時父にはなんの相談もしないで退学届を出した。履歴書を出してどこかの会社に就職して生きていくなどという選択肢は、当時の私の頭の中にはこれっぽっちもなかった。わずかな一歩ではあったが私は初めて独りで自分の人生の決断をした。”たいていのことはどうでもいい、たくましく生きていくのだ。” 私は自然に決意していた。

 思えば父には心配のかけ通しで、親不孝な20代の10年間だったと思う。その20代の時私は定職にも就かず住所も転々とし、しかし人並みに結婚と離婚の悲喜劇だけは演じさせてもらった。ほかの人とはかなり違った私のオリジナルな20代、特別に苦労したなどと云うつもりは全くない、普通ではない私だけのいとおしい日々であった。

 私と父とは政治的主張で真っ向から対立していた、父とは和解しないままの10年間だった。父はその事を言っているのだ。それからというものあれだけ右寄りだった父が自民党政治を批判し徐々に左傾化していった。私には父が変わっていく様子が手に取るようによく分かった。

 昭和天皇が亡くなった時、父は ”あの男はとうとう死ぬまであの戦争についての自分の責任について何も謝まらなかった。” と私にはっきり聞こえる声で怒気を満杯に含ませて言った。腹立たしい悔しさというか、あの戦争に従軍した人間にしかわからない筆舌に尽くしがたい重い感情、身中に沈殿していたもって行き場のない感情を父は腹の底から発射したのだ。一瞬だったがあの時父は紛れもなく戦中派の確信犯の姿を見せた。

 その後長崎市の市長選挙がある度に、昭和天皇の戦争責任について肯定的な発言をしていた本島等氏(1922~2014 市長4期)を支持し、推薦人名簿を集めるなど応援活動をしていた。父と本島等氏は大正11年の同年の生まれである。 <私事終わり>

 「戦友」という軍歌がある。日露戦争の時の軍歌であるがその後も広く兵隊ソングとして謳われた。歌詞は次の通り。
ここは御国の何百里/離れて遠き満州の/赤い夕陽に照らされて/友は野末の石の下
(以下14番まで続く) なるべくゆっくり謳うことが情感を増し、全部謳い終わるのに30分以上かかるという。そのメロディーが郷愁を感じさせ厭戦的だという理由で、東条英機により謳うことが禁じられた。

 私は上の小説を読み進める時、舞台が満州の場面では<赤い夕陽に照らされた満州の荒野>なるものをイメージしてしまう。それは、冬の季節では<白一色の雪原>に変わり、春夏では一面<コーリャンの緑野>に変わる。「戦友」のメロディーと映画「戦争と人間」のテーマソングも胸中時として流れる。

 私は中国の東北地方(満州)に行ったことはないし、高梁(コーリャン)の畑を見たこともない。通奏低音というか絵画的音楽的で一種詩的世界と言ってしまっては、戦争で死んでいった幾百万の人達に対し不謹慎の誹りと非難されてしまうかもしれないが、そういう気分に我が身を浸しながら本を読んだ。(かかる心情については安富歩氏が満州の成り立ちから深い検討をされている。) 

 戦争を扱った小説の読み方は人それぞれであろう。私は一つには自分に似た登場人物(主人公とは限らない)の戦争の中での生き方に注目して読む。そうすることで読み方にメリハリがつく。二つには、歴史の中の個々の事件の襞にできるだけ肉薄したいと思って読む。従って時々寄り道をせざるを得ない。

 例えば2.26事件では、「二・二六事件」中村正衛(中公新書)、「妻たちの二・二六事件」澤地久枝(中公文庫)、「獄中手記」磯部浅一(中公文庫)、「私の昭和史」末松太平(中公文庫)、「国体論及び純正社会主義」「日本改造法案大綱」北一輝、「北一輝論」松本清張(講談社文庫)、「北一輝」渡辺京二(朝日選書)、「革命家・北一輝「日本改造法案大綱」と昭和維新」豊田穣(講談社文庫)、「再発見 日本の哲学 北一輝ーー国家と進化」嘉戸一将(講談社学術文庫)、「昭和維新試論」橋川文三(講談社学術文庫)などを読んで私なりの理解を深めることになる。

 当然のことだが<北一輝>に関する本は膨大にある。あの時代に生きていたならばと考え、2.26事件に決起した若き青年将校達に我が身を重ね合わせ思わず背筋がぞっとしてしまう。遠い昔の話ではない、私が生まれるわずか10年前の日本の歴史の方向を決定づけた事件である。学者に成るわけでないが歴史をそれなりに我がものにしたいと思う。私はかかる歴史の流れの中に生まれそして生きている。”私という人間は誰であるか” という謎解きを考えるためには現代史の理解は避けて通れない。



 ………私は時々思うのだが、これまでたいして勉強らしきものをしてこなかったこの75歳の高齢者の男が、今さらそもそもそんな願望(私という人間は誰であるかという謎解き)を満たすことにはたしてどんな意味とか価値とかがあるのだろうか? その読書の成果らしきものを社会に還元しにくい高齢者が、自分一人心の中だけで満足することとははたしてどういう営為と名付ければいいのだろうか? その営為に何らかの普遍性はあるのだろうか?
 
 意味とか価値とか普遍性とかにどうして私はこだわってしまうのか? よくよく考えるとそんなものは内面的な上昇志向、承認欲求、自己満足の別名ではないのか? そんなものは全く無くても一向にかまわないのではないか。この疑問と伴走しながらの私の読書である。
 
 重度身体障害者になって10年目を迎えるが、私の興味は経済学から歴史へと移ってきた。そしてなるべく早く歴史からカンジンカナメの哲学の気になっているところに読書の軸足を移したい思っている、そうしないとそのうちボケてしまうか寿命が尽きてしまう。
 
 ………ところで何故に私はこんなにちょっと焦った風にそして自分を急かせるように考えてしまうだろうか。この事は前にもこのブログで何度も書いたことで、又蒸しかえすようだがまた同じように考えてしまう。晴耕雨読の境地に到達しえないまま、未熟にもこの高齢者の男は死ぬまでこんな感じで生きていくのだろうか。


 さて、元に戻って結論風に言うと二つの小説の主人公は誰かはっきりしない。濃淡はあるが主人公は人間ではなく「満州国」と考えたほうがよさそうである。「王道楽土」と「五族協和」を理想として唱えた戦前に現れた一種の壮大な幻想であり、しかし現実に存在したその「国家」の誕生から消滅までの歴史を作者は語りたいのだと思う。なぜなら「満州国」なくして日本の現代史はないからだ。

 五味川純平は「戦争と人間」で新興財閥五代一族とそれに関係する関東軍将校や満州人を配置して語り部とした。船戸与一は「満州国演義」で敷島四兄弟(一郎、次郎、三郎、四郎)を外交官、馬賊頭目、関東軍将校、元無政府主義者とし、かつ関東軍特務機関に所属する間垣徳蔵というミステリアスな人物を配置して語り部とした。

 登場人物はそれぞれの歴史の領域を語るために配置されたのであり、冒険物語ではないので読者が期待するような自主性や心の春秋には少し乏しいかもしれない。日中戦争・日米戦争の15年間の歴史を教科書的な歴史としてではなく、そこに生身の人間の生き死にを伴って情感豊かにその歴史の細部を理解することがかかる小説を読む醍醐味であろう。


 ところで思うに、戦前も現在もなんと情けない程愚かな時代であることか。そして浅薄な批判を踏みこえて、賢い道を切り開くことがなんと難しいことか。自分をそして自分を含めたこの社会をどうとらえるかは本当に困難を極める。歴史を知ることがその一助になればよいがそう簡単なことではない。人は本を読み呻吟し考える、その果てに何があるか、何かを獲得するか。私はその時間が徒労に終わるとは思わない、少なくとも人は思索する自分を発見する、そして ”自分の人生” を歩み始めた!と感じる。
この感動は大きい。



                                            

天拝山のあの道この道………養精術(2)2019-10-01


       オンネトー(雌阿寒岳の麓)  2003.07.05(脊髄損傷前)




 3年前のブログ「身体障害者となり落ち込んだか。」で、ほとんど落ち込まなかったと書いた。それは怪我して当座のことだったが、それから7年半が経った。7年半といえばそこそこいろんな事があってもおかしくない年月だが、私は同じ仲間の脊髄損傷者と比べると、併発する病気(肺炎、腸閉塞、褥瘡、尿路感染など)の発症も少なく、割と規則的で平穏無事な生活を送っきたといえる。従って心の持ちようも安定して推移したと思う。

 自慢するわけではないが、また自慢できるようなものでもないが、ここまでに至る心の持ちようを振り返って、ここに書き留めておきたいと思う。同じような障害者の目にとまって参考になれば幸いであり、また書き留めることでこれからの私自身の生き方の道しるべとして役立てるためでもある。

 そうは思ったものの、実は恥ずかしい気持が強い。裏にしまっている心の内を人様の目に晒すことは、普通はやらないことである。自分の心の内をやたらさらけ出す人は ”つまらない人間” だと、何かの本に書いてあった。やはり心の内は伏せておくのが常識というものだろうと思う。

 だが、私は私自身のためにあえて書き残しておきたいと思う。自分は ”つまらない人間” だと宣伝しているようなものかもしれないが、まあそれでもいい。思い起こしてみれば、このブログを書くということは自分の存在証明書の発行作業であり、それを自分が読んで「嗚呼!まだ俺は生きている」と確認するという繰り返しのためでもあった。だから私は自分の心の内もこのブログに書き、そして自分で読み返すのだ。

 私が自分自身にこの7年半でつぶやいた言葉を思い出して列挙してみる。




[大学病院の救急に運ばれた。5時間位の意識不明から覚めた。大怪我をして運ばれたようだ。とにかく首が猛烈に痛い。躰は全く動かない。頭は大混乱、何をどう考えたらいいのか皆目わからない。]

 ”この私が大怪我をしたなんて何かの間違いではないか、この私の身に限ってそんなことが起るなんてあり得ない。夢に違いない。目が覚めたらまたいつもの日常が始まっているだろう。夢であって欲しい。”  (しかし、そのいつもの日常は始まらなかった。)

 ” 大変な怪我をしたようだが、果たしてどの程度の怪我だろうか。まあ、今は手術が済むまで色々心配してもしょうがない、なるようにしかならない。大怪我だったとしても、自分の運命を引き受けるしかない。静かに明日を待とう。”

 ” 死ぬわけではない。どんなになろうが生きていければそれでいい。そう思おう。”

[1週間位経った。]

 ” 両手両足が完全麻痺でほとんど動かない。寝返りもできない。電動車椅子にはなんとか乗れるそうだ。ベッドに24時間寝たきりにならなくてよかった。しゃべることには不自由はなさそうだ。だが、一体これからどうなるのだろうか?”
                                        
[2週間位経った。]

  ” 若い頃からの私の今までを考えれば、この程度で落ち込むようには私の心は出来ていないはずだ。これまで心がつぶれそうになったことは何度もあった。しかしその都度、時間はかかったがなんとか克服してきた。だからたいていの逆境には耐えることができるようになっている。そのたくましさを求めての今までの人生だったではないか。大したことはない、なんとかなる。”

[せき損センターに移り、リハビリに励む。しかし、腕は10㎝位しか動かない。怪我して半年位経った頃。]

 ” うつしよの はかなしごとに ほれぼれと
              遊びしことも 過ぎにけらしも (古泉千樫作)
この短歌に刺激され対抗上、入院中の病院のベッドの上で次の短歌を作った。作り終えた時、何か憑きものが落ちた気がした。
 胸の上 リハビリ重ね 右の手で
             いとし左手 撫でさすりけり  ”

[1年後、退院してから]

 ” 今までは健常者、これからは障害者、二つの違った人生を体験できる。健常者だったら気付かない考え方ができるかもしれないし、障害者だから味わえる喜びがあるかもしれない。いや、きっとあるだろう。貴重な体験ができる人生だ。”                                                
  
 ” 怪我する前のことだが、私は中高年の山の会(あだると山の会)で登山を楽しんだ。麓から一歩一歩フーフー言いながら登り、疲れたら休憩して吹き出た汗を拭き、喉を水で潤す。それを何回も繰り返しやっと山頂に達する。だからこそ、登頂した喜びを感じられたのだ。ヘリコプターで連れて来られたら、こういう喜びは味わえないだろう。
 足が動かない、残念だがもうこの喜びは味わえない。この喜びと似た喜びはないものだろうか?。
 目的を持って読書をする、何冊も何冊も読書をする。すると山を登っている感じがしないだろうか。小さなピークが見えないだろうか。稜線とそれに連なる主峰を仰ぎ見ることはできないだろうか。人間が築き上げた叡智がどういう山河なのか、踏破できなくてもせめて展望できる所まで歩けないだろうか。よし、目的を持って読書をしよう。

[怪我して2年後位]

 ” 人生の後半で障害者になった、そんな私だからこそ世の中に何か発信できることがあると思う。じっくり考えてブログで発信しよう。”

[怪我して4~5年後位]

 ” これまでは人との会話が苦手だった。相手の話をじっくり聞くのも苦手だったし、その話を引き取って自分の感想や考えを述べ、話を続けることも下手だった。努力して上手な聞き手&上手な話し手になろう。そのためには会話の内容が問題だ、読書の量を増やそう。”

 ” 障害者になって人と会う回数がめっきり減った。入ってくる情報も少なくなった。知的興奮の機会もほとんどない。放送大学の大学生になり、広範囲に学び直そう。そこから連想ゲーム的に自分の知的世界を広げよう。”
 
 
 ”天拝山に登る。トレーニングを兼ねてザックは20キロにする。コンビニでおにぎりを二個買う。登山道は8本ある、私はそれらにそれぞれ勝手な名前をつけている。頭の中で今日のルートを確認する。何百回と登った山だ、知り尽くした道、眼を閉じても登ることができる。
 天神さまの径(気分によっては、石楠花谷コース)から主稜線上の最高点(295メートル、地図を見ての私の判断)を越え、竹林コースを往復し地蔵川源流コースを下る。九州自然歩道をまた登り返し主稜線と出会い、向きを変えて天拝山の山頂に戻る。眼下に広がる福岡の街を展望し、正面登山道を下りる。
 足は動かない、そんなことは大したことではない。私は明日も天拝山に登る。”  (天拝山のあの道この道)




 上に書いた青字の部分は読み返してみると、意識的にそうしたわけではないが幸いにもポジティブでプラス志向が強い。私の周りにいた脊髄損傷者を思い返してみると、私のように恵まれている人ばかりではなかった。肺炎を併発し亡くなった人がいた。別の施設に移ったが、リハビリがうまくいかないで躰が固まったままになり、ベッドに寝たきりになった人がいた。

 また、経済的に困窮し同じ脊髄損傷の仲間からお金を借りて返済できず、人間関係も破綻しとうとうリハビリにも来なくなった人がいた。私は続けられる仕事(公認会計士・税理士)があって経済的には助かった。経済的に困窮し埋もれてしまう人は予想以上に多いと思う。ケアマネジャーの制度が障害者の隅々まで普及し十分に機能することを願う。

 私が知っている中で多いのが、離婚というかはっきりいえば配偶者(或いは恋人)から見放された人、配偶者が逃げ出してしまった人である。配偶者にも自分の人生がある。手足が動かずベッドに寝たきりになったような人間の面倒を、あなたが一生見なさいとは誰も言えない。逃げ出してしまう人の胸の内は分かりすぎる程分かる。去った人間がいて、残された人間がいた、両者ともにつらい。人生をこれきしであきらめてはいけないと傍ら願うばかりである。



 あらためて思うことはやはり言葉だと思う。その局面その局面での言葉の発見だと思う。しかしすぐには言葉は発見できない。言葉を発見することはそうたやすいことではない。落ち込みが深ければ深いほど、言葉の発見には長い時間がかかる。私の経験では落ち込んでから1年くらいかかることはざらであった。それ以上長いこともあった。

 言葉の発見という云い方がわかりにくければ、言葉を練り上げる、或いはストーリーを作ると云ってもよい。言葉が見つからない、その時間は本当につらい。その忍耐の果てに自分を元気づける言葉はあるだろうか、自分を救う言葉はあるだろうか、あって欲しい。その言葉を求める孤独な営為は報われるだろうか、報われて欲しい、たとえどれだけの時間がかかろうとも。

 練り上げる言葉はワンセンテンスの場合もあるし、一文章の場合もあるし、それ以上長い場合もある。ストーリーになることもある。私の経験上はあまり長くならず、そぎ落として簡潔に表現する方がよいと思う。
 
 例えば、私が40歳頃落ち込んだ時、練り上げた言葉は「人間は可変多面体」というものだった。ここでは意味は説明しない、他人のために作ったのではない。私一人が分かればいい、その言葉で私は救われ励まされたのだから。また、自分の人生になぞらえたあるストーリーを作り、自分が森繁久弥のような名優になったつもりで心の中で何度も演じ、そうしているうちに気分が変わり落ち込みから生還したこともあった。

 落ち込んだままで言葉が見つかりそうにない場合はどうするか。一人悪戦苦闘して再起不能で駄目になってしまうより、精神科か心療内科を受診することを勧める。睡眠をとり、少しでも気持が持ち上がるように向精神薬に頼る方がよい。私もうつ病の時はそうした。これまで書いてきたことと矛盾するようだが、融通のきかない頑固な精神主義はよくない。

 

 書きながらこのブログは少しづつ支離滅裂になってきているかもしれない。何回も書いたことだがここで私が書くということは、自分がこの世にこうして生きているという、自分自身に宛てた存在証明書の発行作業だ。一人で演じる一人作家の一人読者、この芝居を私は気に入っている。

73歳になった。2019-09-14


           黒部五郎岳 2006.08.08(脊髄損傷前)
  


一年前のブログ「70歳から生き方について考える。」の続編です。
四年前のブログ「国分功一郎「暇と退屈の倫理学」を読む」とも関係があります。

 73歳………私が子供の頃であったならば、まれにみる長生きで仙人みたいな想像もつかない年齢ということになるだろうか。まだ小さい子供の時のことだが、親戚のおばあちゃんが養老院に入るということで、風呂敷包みを手に提げて私の家のそばの道を歩いていく姿を見た時、見てはいけないものを見たような気がしたのを憶えている。養老院は私の家を通り過ぎたずっとずっと山の方にあった。今思えばあのおばあちゃんはまだ60歳前だったかもしれない。

 あの時私と目が合ってしまった、その場にたまたま出合わせたのがよくなかったのだ。この世の果てでひっそり死にに行くのだ、子供ながらにそんな気がした。その頃前後してだったが、深沢七郎作の「楢山節考」(木下恵介監督、田中絹代)の映画を祖母に連れられ見に行った。養老院に行ったおばあちゃんは私の祖母の妹で、遠く離れた町に長く一人で住んでいた。なぜだかその時の私には養老院と映画で見た姥捨山が同じもののように重なって感じられた。

 時代は変わった。いつしか世の中は人生100年などと云われ、60歳定年後さらに40年間を生きることが珍しくなくなるという、とんでもなく恐ろしい時代が訪れようとしている。ちなみに私の父は90半ばまで生き、私の妻の母も100歳近くまで生きた。急激に日本の世の中は高齢化の社会になってしまった。私もその高齢者の入口付近にいる一人である。

 70歳頃から感じ始めている不安がある。長すぎる老後をどう生きたらいいのか? はて困ったぞ!どうしたらいいものか? 先人の適当な前例かモデルはないものか? なければ自分でなんとか考え出さなけれならないのか? この不安はすぐには答が出そうにない。”人生暇つぶし” と言うには、あまりにも長すぎる人生である。

 60歳頃まで働いてその後は老後を適当に楽しんで人生を全うするなどという、一昔前までの人生モデルはもはや参考にならない。そんなモデルで生きていると、つぶしてもつぶしきれない暇がありすぎて、その老後の途中で 退屈のあまり ”私の一生って一体何?” と悲鳴を上げてしまう。その時、しっぺ返し的残酷な後悔が間違いなく待ち受けているのではないかと思う。

 私は老後の生き方というテーマを自覚しないままに、60歳からもう13年間も生きてしまった。まだ先は長そうだ、暇つぶしではない老後を考える必要がある。

 長寿はめでたい事ではあるが、高齢者にとっては困った事が四つある。一つは経済的な問題である。大半の高齢者は年金中心で生活している。この長すぎる老後を支えるために日本の年金制度は本当に大丈夫だろうかと考えてしまう。

 ①少子高齢化と人口減少、➁低成長の経済、③1,000兆円の国債残高、④増税を嫌う国民体質、⑤非正規労働者の増大、⑥経済のグローバル化による貧富の格差と貧困層の増大等、年金制度の将来にとっては不安材料ばかりである。

 年金制度に依拠した老後をイメージするより、生活保護の老後を設計する方が現実的ではないのか、認めたくはないがそんな感じさえしてくる。経済的に貧しい老後では悲しすぎる。この年金問題は何はともあれ日本の最重要な課題の一つである。私も日本人の成員の一人として、考えているところをこのブログでいつか書きたいと思っている。

 二つは、将来のことは分からないということである。100歳まで生きるつもりでいたのに70歳で死んでしまった。逆に、普通に生活していたら100歳まで生きてしまった。前者の場合には無念さが残り、後者の場合には持て余してしまう長すぎる老後が残る。

 何歳まで生きるか分からないのに、100歳までの人生プランを考えても仕方ないのではないか、途中で死んだらどうする。とりあえず日本人の平均寿命の80歳位まで生きると考えて、後は成り行きでいいのではないか、そのうちに頭もだんだんボケてくるだろうからと考えたくもなる。先ほど書いた私の不安はこの二つ目の困った事、いつ死ぬか分からない=いつまで生きるか分からない、と直結している。

 ところで、こんな問題でグズグズ&グダグダしている私を一撃で吹き飛ばすような名言がある。 「明日死ぬと思って生きなさい。永遠に生きると思って学びなさい。」(マハトマ・ガンジー)

 三つは、老後の時間はそれまでの若い頃の時間とは質的に違うということである。個人差はあるが、<集中力>も<持続力>も<記憶力>も<思考力>も、そし て<感受性>も<好奇心>も劣ってくる、もちろん<体力>も<健康>もそうである。総じていえば、<気力>の衰えである。

 私は近頃特に記憶力の著しい衰えを何かにつけ体験している。それを赤瀬川原平氏流に「老人力」と肯定的にとらえてもいいが、実際には仕事上も日常生活上も困ることはなはだしい。個々人の習慣と努力でその劣化を食い止めるしか方法はないのではないかと思っている。

 そしてこの事は更に考えを押し進めるとそこには、その人なりの人生観や哲学とも関係する難しい問題が秘そんでいる、つまり老いと死の受容」という問題である。今の私にはこの問題は全くの手付ずである。

 ” 形見とて 何か残さむ 春は花 山ほととぎす 秋はもみぢ葉”(良寛) 
 ”全身を埋めて、ただ土を覆うて去れ。経を読むことなかれ。………”(沢庵) 
この三つ目は私の不安と深く関係していることは云うまでない。

 四つは、家族による介護の問題である。高齢者になると身体的・精神的な疾患がどうしても目立ってくる。特に認知症と脳梗塞であるが、医療保険・介護保険があるので病院への入院、デイサービスや老人福祉施設等への通所や入所、ホームヘルパーのサービス等によりその一家族の介護の負担はかなり軽減される、しかしそれでもその家族に残る負担はまだまだ大きい。

 私は介護保険で要介護度5の重度身体障害者であるので、デイサービスやショートステイでの認知症の高齢者の姿をよく知っており、その介護の大変さを実感せざるを得ない。そもそも私自身が24時間要介護の高齢者の身であり、私の妻は老々介護で毎日孤軍奮闘中で疲労の連続の中にある。これらの事に向けての医療保険と介護保険さらに社会福祉の行政の充実を待ち望む次第である。

 老後の生き方についてヒントを得ようと啓発本を数冊読んでみたが、期待しているような内容の本はなかった、更に調べてみたがやはり低レベルのものばかりだった。世間一般では老後の生き方の問題は健康と経済の実用的な問題に偏っており、それ以外の内面的なことはお粗末にしか扱われていない。

 書かれていることは煎じ詰めれば、老後に向けて若い頃から計画していろいろと準備をしなさい(そんなことは老人に言わないで若い人に言え、余計なお世話だと言い返されるのがオチだろうが)、そして老人になったならば自信を持って独創的に生きなさいとは言ってはいるが、結局は常識と通俗的道徳に従って生きていきなさいという域を出ていない。

 そこで「老後」から「隠居」と視点を移して考えてみることにした。言葉や語感が変わると気分が変わることがある。隠居に関する本や高齢者になって書かれた本などをいくつか読んだ。本に書かれている先人達の悠々自適な隠居生活を読んでいくうちに、霧が晴れたようにフウーとある閃きが興った。

 創造的活動」というキーワードの発見である。そうだ! これのあるなしが全てを決するのだ。これがなければ老後(隠居)の生活をいかにイメージしようともむなしい。老後あるいは隠居を考えるということは、創造的活動をするかしないかを考えることと同じことではないのか。

 悠々自適な隠居生活とは恵まれた一部の老人の話ではないのか。確かに全ての人が理想的な状態で老後(隠居)を迎えられるわけではない。誰もが経済的に裕福とは限らない、従って老後も働かざるをえない人は多い。家族に恵まれない人もいるし、健康に恵まれない人もいる、人生様々である。正義が勝つとは限らないこの世をとにかく生き抜き、そうして晴れて老後を迎えた。その老後ははたしてどうなるのだろうか。

 私も迷いの渦中にあり、「創造的活動」と発声してみたに過ぎない。すると曇っていた目の前が晴れてきたような気がするだけである。まだ形もなければ内容もない、「創造的活動」という言葉があるだけである。この言葉を手がかりに前進して見よう、私は意識的にその立場に立った訳である。私の勝手な解釈であるが、” はじめに言葉ありき ” である。

 四肢麻痺で寝返りもできず24時間要介護で、しかも73歳という年齢の私にとって、これからの創造的活動ってそもそも何だろうか? 創造的という言葉の字面にあまりとらわれる必要はないと思う。自分が面白いと感じ自分のペースで持続できれば、それが私にとって創造的ということにほかならない、今はその程度に考えている。重点は ”活動” の方にある。

 創造的活動の内容は人様々であろうと思う。その人なりの持味で創造的活動を行う、それが私が望む老後(隠居)の姿である。それはこんなことだとかあんなことだとか私が例示できるものではない、何でもいい。私もこの年齢になればやりたいと思っていたことや、まだやり残したことの二つや三つはありそうだ、始めてみようかと思う。

 一回ポッキリでは創造的活動とはいえない。もしうまくいかなかったならば別のことをすればよい。やってみようと思う気持が大切だ。若い頃からしている事の継続だってかまわない。この世に自分が生きたという証(あかし)を遺すくらいの気持で心を傾けられればオンノジである。

 眠ったように生きて老け込んでいくだけが人生ではない、せっかく生まれのだ、何かを始めるのに遅すぎるという言葉はこの世にはない。そう思って何かしら活動している自分がいればそれでいいと思う。


 
 良寛さんの生涯をイメージしてみる、すると私がいう「創造的活動」が色褪せて見えてきた。日がな一日縁側に座って日なたぼっこしながら猫を抱いている翁は、私の老後の理想の姿ではなかったか。そこには時間を持て余して退屈している姿など微塵もない。モノクロニックな世界を乗り越え、しがらみと煩わしさをも消化して楽しみと感じとり、春夏秋冬の自然の一部に化している翁に対して、創造的活動をなどと言うことは場違い、身の程を知らないと云うほかはない。

 そもそもの話だが、私は自分が73歳であるということに実はピンと来ていない。まだ自分は50歳代ではないかという感覚が、正直なところ躰の何処かに残っている。老いとか死とかはずーっと先の事だと何処かで思っている。今まで書いてきた事と矛盾するようだが、本当のところ老後の生き方をきちんと考えようという身の構えがまだできていない。真面目なふりをして上の黒字の文章を書いてしまった、このままにしておく。

 人間の死ぬ記録を寝ころんで読む人間(山田風太郎)

(中途半端だが、このブログはこれで終わる。)




私って誰? ………養精術(1)2019-08-18


           トリカブトの群落(裏剱、池の平小屋付近)
                   2006.08.26(脊髄損傷前)



 人は生きていくため様々な局面で色々と考えごとをする。その数多の考えごとを収斂すると、共通に一つのことが浮かび上がってくる。考えごとをしているのは誰であるか? 逆照射すると ”考える私” が浮かび上がってくる。この ”私” は全ての局面に主体として共通に存在している。さて、このような ”私” とは何者であるか? どのようにとらえたらいいのか?

 問う主体は問われる客体でもある。問われる客体はこの世で何かを考え何かをしようとしている。そして遂にはその射程に問う主体をとらえる。蛇が己の尾を飲み込もうとしている。その奇っ怪な姿が人間である。この人間の理解が物事を考える出発点である。ここには主体を客体として問う構図がある。しかし種々の物事の解答があるわけではない、問いをどのように発したらいいのかについての示唆を与えるだけである。この示唆は極めて重要である。

 前にも書いたが、アダム・スミスの「道徳感情論」はこの主体と客体の関係を詳述している。この本の副題は次の通り、「人間がまず隣人の、そして次に自分自身の行為や特徴を、自然に判断する際の原動力を分析するための論考」である。 あるいはその解説書、堂目卓生著「アダム・スミス「道徳感情論」と「国富論」の世界」(中公新書)でもよい。精読すると頭が整理される。

 この世で何を考え何をしようとしているのか。誰が?…………この私がである。この私が何かを考え何かをしようとしている、それ以外に私はない。そういうことをしようとしているのがこの私にほかならない。当たり前のことをいっているようであるが、私が20歳代で獲得した ”私とは何者であるか” を定義した貴重な哲学である。

 当時の学生の常識的な風潮であった「戦後民主主義」と「教養主義」にひれ伏していた私は、「何故そう考えるのか?」というO先輩の問いかけに曖昧な返答しかできなかった。そのことを正面から受け止めた私は、真剣に考えていくうちに分からなくなり徐々に脆くも崩れ落ちた。そしてその果てに別の自分を発見した。

 具体的に何かを考え何かをしようとしている私は、無色透明な抽象的な私ではなく、これまでの世の中の歴史に色付けされた私、歴史を纏っている私である。これが新たな私の発見であり、歴史というものと私との最初の出会いでもあった。私が学生であった1960年代後半とは、そういうことを問題として問うことが普通の時代であった。

 一般に人は我が身が歴史を纏っているということを自覚していない。魚が水の中で生きているのが不思議でも何でもないことと似ている。私の場合は、「戦後民主主義」と「教養主義」の怪しさを感じとり、幾分か批判的に対象化できたと思っている。それ以来この纏っているものから脱げ出したいと思っているが、なかなか容易には脱皮できないでいる。私にとって歴史とはそういうものである、従って私が問題にする歴史は常に現代史である。

 どんな時でも「何故そうするのか?」と問うことが常態化している私は、例えば「それは私の趣味です」というようないい方には敏感に反応して納得しない。そこには趣味という客体だけが強調されていて、あなたという主体との関係が見えてこないからである。

 趣味という一見誰にでも分かりやすい、しかしその実よく考えると何を言っているのかよく分からない単語に逃げ込んで、無意識に思考停止になっているように見えてしまう。「何故それはあなたの趣味なのか?」と重ねて問うことはしない。しつこいと嫌われるからだが、実はその答えがほとんど用意されていないからでもある。

 それは趣味を道楽と言い換えて同じ事である。そのような多元的で固定観念の固まりのような単語を言い放って物事を終わりにしてはいけない。禅問答的というか、堂々巡りというか、同義反復というか、肝腎なことが何も伝わってこない。

 そのことがあなたを捕らえて放さない魅力を、きっかけから思い出しては反芻しアレコレと考え、整理されないままでいいから別の言葉で別の言い方で、とつとつと語ろうとすることである。そこにはおそらくあなただけのストーリーがあるのだと思う。そういうストーリーを語る以外に、「何故そうするのか?」という問いに対するまともな答え方があるだろうか。人が自分の何かを他人に伝えることとはそういうことだと思う。

 「何故あなたは現代史を問題にするのか?」という問いを予想してあらかじめ答えておいた。単に歴史が好きだからというような答え方が、私にはありっこないというのがお分かりいただけた思う。私にも私なりのストーリーがあるのだ。

 主体と乖離した(主体とのストーリーがない)客体を問題にしても、そこにあるのは空虚な言葉しか発しえない主体である。悲しいかな!そこには救い難い退廃しかない。そして実はよく観察すると、努力、勤勉、実直などのかなりの部分が、残念ながら無意識にとはいうもののこの退廃の入口にあるか退廃そのものである。「何故そうなのか?」の問い直しがなされていないためである。

 自分の人生を粗末に扱ってはいけない。もしかするとあなたは、あなたの中の他人という別の人間の人生を儀式として代行しているに過ぎないかもしれない。その他人とはこの世の種々の固定観念が凝縮し人格化した化け物で、あなたに成りすましている。「何故そう考えるのか? 何故そうなのか?」と問えば、その他人は溶解するか逃げ出してしまう。こうしてあなたは本当のあなたの人生を生きることができる。そしてあなたを今までとは違う新たな世界に案内すること必定である。

佐藤賢一「オクシタ二ア」 他を読む。(2)2019-05-11



   犬が岳~求菩提山(福岡)の林間の登山道   2005.05.08(脊髄損傷前)



(1)から続く。

 <問2>は、<問1>の影に隠れて見えないように思わえる。しかし、眼をじっと凝らして見ようとすると見える。物事を皮相的にしか見ない人には見えない、物事を根源的に見ようとする人には見える。<問2>は、種明かしされるとなんだそんな事かということになる。

 ドミニコ会の修道士たちは、異端審問官として長きにわたり異端派の人々に残酷な拷問を加え、嘘であってもでっちあげて自白とし火刑に処していった。魔女裁判でも然りである。正統派のキリスト教を守り、その道から外れた異端派を正しい教えなるものに改宗させることは、全く正しいこととして信じて疑わない。その己の傲慢さにも微塵も気づかない。そのための嘘も拷問も殺人も許されて正しい行為と信じる。本人は正しいことをし正しい生き方をしていると胸を張る…………神に仕える者として。

 ドミニコ会の修道士達はどうして自らの過ちに気がつかなかったのだろうか、これが<問2>である。自らの心の中からそして同じ主義主張を抱く同じ仲間の中から、その異端審問の行き過ぎを指摘し是正しようという動きが全く見られない。その契機が現われる気配さえも感じられない、恐ろしい限りである。このことはカタリ派を弾圧したドミニコ会に限ったことではない、ローマ教皇然り、ローマ教会然りである。権力を持つ側の弾圧は是正されることなく、正しいこととして無自覚のままに延々と長期間続く。人類の歴史で洋の東西を問わず、何度も何度も繰り返された人間の最も愚かな面である。

 西暦2,000年つまり紀元後二千年紀の最後の年、ローマ教皇ヨハネ・パウロ二世はローマ教会がこれまでの歴史で次の罪を犯してきたとして神に懺悔した。ユダヤ人に対する迫害の容認、十字軍遠征と異端審問、アフリカ・アメリカ大陸での布教で原住民に対する差別と権利の侵害、がそれである。今までローマ教皇は誰一人としてかかる過ち(罪)を分からなかったとでもいうのだろうか。迫害を受け不幸のうちに死んでいった幾千万幾億の人間の無念さは、数百年後に一教皇に謝られても無くなるはずもなく、その怨念は未来永劫この世に漂い続ける。懺悔し謝罪すべき内容は犯した過ちの数々のみならず、いやそれよりはるかに重大に、それを許してしまったローマ教会のかかる組織の在り方そのものであったはずである。

 主義主張は主義主張でいい。人が百人いれば百人の主義主張があるのはそれはそれで自然なことであると思う。問題はその次にある。自らの主義主張に従ってまっしぐらに走る人(集団)は、往々にして反対意見・少数意見に耳をふさぐ。己がしていることに自己満足し省みることがない。それ故に起こった歴史の悲劇を我々人類は数多く経験してきた。何故そうなってしまうのか?
 
 <問2>を普遍化したこの問は、いつも私の頭を離れないテーマである。このブログでも取り上げて考える所をこれまでも書いたことがある。<管賀江留郎「道徳感情はなぜ人を誤らせるのか」を読む。>  その時は、進化生物学とアダム・スミスの「道徳感情論」に依拠し情報の問題にも言及した。リベラル・アーツの問題もあり、道徳観・倫理観の問題もあると思う。組織の在り方まで範囲を拡げると、国家・地方政府の組織、法体系、民主主義と三権分立等、複雑かつ多岐にわたる。私一人でどうこうできる問題ではない。

 私が希うことは、己の主義主張の内部に己のそれを客観視する心の仕組を組み込むことはできないのであろうか一つの思想を抱く集団の内部にそれを客観視する組織を仕組として組み込むことはできないのであろうか、ということである。
 
 先の四冊の小説を読み、刺激され連想して次の本を読みたく思う。
(1)13世紀という同じ時代を生きた人間として、イタリア・アッシジの聖フランチェスコ(1182~1226)も気になる一人だが、中世のヨーロッパで抜きん出てそびえ立っている男がいる、神聖ローマ帝国皇帝フリードリッヒ二世(1194~1250)である。塩野七生氏著の彼の伝記。ダンテ(1265~1321)は彼の死後15年後の生まれである。

(2)中世のヨーロッパではローマ教会は聖職者以外には聖書を読むことを許さなかった。民衆が聖書を読んで勝手なことを言い出すことを恐れたためであると思う。かかる時代にカタリ派はいかにして人々の心をつかんでいったのであろうか。カタリ派の聖職者は民衆一人一人に直接に語り教えを説いていった、しかも自らは清貧で禁欲的な生活を貫いた。これは、ローマ教会側ではできないことであった。人々は自然とカタリ派に惹かれていった。…………歴史では似たようなことが繰り返される、連想して場所も時代もはるかに飛躍するが、毛沢東の軍隊は蒋介石の国民党軍にどうして勝利することができたのであろうか。人口の大部分を占める農民をどうして味方につけることができたのであろうか、ここには中国革命の核心が潜んでいる。毛沢東の著作または中国人民解放軍の歴史(創設~1949)。

(3)ウンベルト・エーコ 「薔薇の名前」。 14世紀初め、北イタリアのベネディクト会の修道院で起こった連続怪死事件…………異端は作られるのか、キリストは笑ったか、アリストテレスの詩学…………そして知の迷宮へ。



佐藤賢一「オクシタニア」 他を読む。(1)2019-05-06


          近い所から 北鎌尾根、硫黄尾根、裏銀座の北アルプスの稜線
            2004.8.04(脊髄損傷前)



 次の小説を読んだ。
A オクシタニア 佐藤賢一 集英社文庫
B 旅涯ての地 板東眞砂子 角川文庫
C 聖灰の暗号 帚木蓬生 新潮社
D 路上の人 堀田善衛 新潮社

 歴史の本を読んでいて  ”異端” ”秘密結社”  ”○○の乱” などの文字があると、それはどんな集団でどんな教えを信じてどんな事と対決していたのかと、興味をそそられテンションが上がる。歴史のうねりとともにそこに民衆の反乱というか、やむにやまれぬ庶民の渇望の呻きのようなものが聞こえるような気がするからである。読んだ四冊の小説はいずれも、中世ヨーロッパでローマ教皇から異端とされた ”カタリ派” を題材とした小説である。内容が深く濃密で、久しぶりに小説を読む醍醐味を味わい堪能した。

 カタリ派弾圧の歴史を、上の四冊の範囲で大まかになぞると次のようになる。
① 1209年、ローマ教皇インノケンティウス3世はフランス王フィリップ2世と協議して十字軍を召集し、総指揮を北フランスの小領主シモン・ド・モンフォールとして、異端派根絶を目指しオクシタニア(ピレネー山脈でカタロニアと国境を接する南フランス一帯)を攻撃し住民を虐殺した。それまで異教徒に向けられていた十字軍遠征が、異端とはいえ同じキリスト教徒に向けられ、カタリ派を保護したとしてトゥールーズ伯のレモン7世をはじめオクシタニアの諸侯を弾圧した、所謂アルビジョア十字軍(1209~1229)である。カタリ派 は、トゥールーズを中心にオクシタニアで勢力を誇っていた。トゥールーズは気候が温暖で経済的に豊かなオクシタニアの中心で、当時ヨーロッパで有数の都市の一つであり、曲がりなりにも市民による自治が行われていた(コミューン)。

② 1232年、ローマ教皇グレゴリウス9世はそれまでの異端派弾圧の仕組をを改めて異端審問制度(異端裁判所)を作った。開明的な神聖ローマ帝国(ドイツ)皇帝フリードリッヒ二世による「メルフィ憲章」の公表(1231、法治国家の宣言)に対抗する必要上余儀なくなされたものであった。ドミニコ会の修道士を異端審問官として各地に派遣して、しらみつぶしに異端派を摘発し改宗しない場合には火刑に処した。カタリ派はその教義で嘘をつくことを禁じていたので、帰依者(信者)や完徳者(聖職者)は審問されると正直に答え、芋づる式に逮捕されてしまった。

③ 1244年、追いつめられたカタリ派はピレネー山中のモンセギュールの山城に集結し、そこを最期の砦として信仰を守っていたが、フランス王ルイ9世の軍隊に包囲攻撃され陥落した。カタリ派の信仰を捨てることを拒否した200人以上の帰依者と完徳者は、死ぬと天国にいけるという教えに殉じ火刑に処せられていった。

④ 14世紀に入ってもさらにその後も、ガリレオ裁判(1633)が示すように異端審問制度は執拗に続いた、そして内容は少し変わったが現在でも続いている。 1321年、カタリ派は最後の完徳者が捕えられ衰退していった。

 A~Dの四冊の歴史的・地理的な舞台は次の通りである。

 Aは、オクシタニアを舞台にアルビジョア十字軍の遠征からピレネー山中のモンセギュール城陥落までを、カタリ派(異端)とドミニコ会(正統)の双方の立場で、人の心に深く分け入りそのディテイルを濃密に描いている。内容は深く、正統派と異端派の論争のさわりが分かったような気がする。ヨーロッパの中世は古代ギリシャ・ローマの科学的水準が大きく後退したキリスト教一辺倒の時代であり、神学論争は切実な問題だったと思われる。干からびたドグマ(教義)の話ではなく、人が生きることを深く問う内容である。読んで損はない、いや読まないと損する一冊である。

 Bは、地理的には博多の中国(宋)人街~元の大都(現在の北京)~コンスタンティノポリス(現在のイスタンブール)~ヴェネツィア~南フランス山中の廃墟の山城 と当時の世界の東の涯てから西の涯てまでに及んでいる。元寇(弘安の役 1281)、マルコ・ポーロ(東方見聞録 1300頃?)、聖杯伝説、マグダラのマリアの福音書などをストーリーに織り込み、主人公(父が中国人、母が日本人の博多生まれの男)の13世紀末から14世紀始めにかけての数奇で波乱に富んだ物語である。内容は深い。作品中、ヴェネツィアの一ラテン語教師が述べる次の言葉は示唆的である。「誰が東を決め、西を決めたのだ。誰が正統を決め、異端を決めたのだ。西もさらに西の国にいけば、東といわれる。正統もやがて異端といわれる。」 小説の後段から終わりにかけては感動的である。

 Cはミステリー仕立てで、異端審問制度がまだ苛酷に続いていた14世紀始めのオクシタニアが舞台である。ドミニコ会の若き僧が書き残した次の詩が、本文中何度もリフレインされる。

  空は青く大地は緑。
  それなのに私は悲しい。
  鳥が飛び兎が跳ねる。
  それなのに私は悲しい。

  生きた人が焼かれるのを見たからだ。
  焼かれる人の祈りを聞いたからだ。
  煙として立ち昇る人の匂いをかいだからだ。
  灰の上をかすめる風の温もりを感じたからだ。

  この悲しみは僧衣のように、いつまでも私を包む。
  私がいつかどこかで、道のかたわらで斃(たお)れるまで。

 Dは、スペインのトレド(当時、ヨーロッパの文化の中心地の一つ)~オクシタ二ア~北イタリアを舞台に、13世紀初め頃からピレネー山中のモンセギュール城陥落までを描いている。A~Cの三冊は近頃書かれた作品であるが、堀田善衛のこの小説は1985年の出版で比較的古い。カタリ派について私が疑問に感じていることを、作者が代弁して述べているのではないのかと思われる所が多々あり、カタリ派がどんな宗教かがよく分かる。例えば、次のような場面がある。カタリ派を好意的に思っているある騎士(本小説の主人公の一人)が、カタリ派の完徳者にピレネーの山中で出逢い質問する。(私の言葉で書くと) 主よ、ピレネーの山並は雪をいただき、渓流はゆったりと谷を流れている。緑の野には花々が咲き乱れ風に揺れている。あなた方はこの世を否定的に捉えられているとしても、目の前のこの自然を見て心を動かされ美しいとはお思いになりませんか? 完徳者がなんと答えたかは小説に譲ろう。

 さて、上の四冊の小説を読んで<二つの問>が根源的に惹起する。<第一の問> カタリ派は何故異端として弾圧されたのか。これは上の四冊の小説のテーマそのものでもある。歴史の上では一般に弾圧された側の文書が残ることは少ない。焚書で根絶されてしまうからである。カタリ派は何を民衆に語ったのか、今でもよく分かっていない。ローマ教皇側の資料は残っている、カタリ派側から書かれた資料の発見を今後に期待し、歴史家の実証的研究に待ちたい。その上で、小説を読んだ私の感想を独善的にかつ軽々に述べさせてもらうと次の通りである。

 中世のヨーロッパではローマ教会とその教皇・司教らの聖職者が宗教世界の唯一の権威であった。しかし、司教らは贅沢三昧の生活をし実質上妻帯することも普通で、ローマ教会の堕落は甚だしかった。カタリ派の聖職者は禁欲的で清貧に甘んじた生活をし、ローマ教会とは雲泥の違いがあり人々はカタリ派に惹かれていった。その意味でカタリ派への信仰の傾斜はローマ教会を批判する民衆の運動であったとも言える。カタリ派にとっては少し辛口な見方になるかもしれないが、以下その教義について考えてみたい。

(これから上の小説を読もうと思っている方は、以下の青字の部分は読まない方がいいかもしれない。以下を読んでしまうと、ネタバレのマジックを見るようで小説の興味が半減するかもしれない。)

 カタリ派はキリスト教の衣を纏っているが、似て非なる別の宗教ではないのか。異端などではなく異教ではないのか。ヨーロッパの地であるからキリスト教の衣を纏うのは仕方がない。しかしその教義は徹底した二元論である。現世は悪魔が作った世界であり、この世では努力することも成功することも財産を貯めることも意味がない、悪魔の世界での出来事だからである。この世では生きること自体に意味がない、信じ難い程のニヒリズムであるが、これがカタリ派のこの世の理解である。
 
 この世の苦楽を味わい、意味があるかないか判らないがそこで悪戦苦闘することをもって、人が生きることだと了解している私のような世俗的人間には、到底理解できない境地である。おそらく科学的知識が乏しく、キリスト教の権威だけが高かった時代であったが故であると思う。

 カタリ派では人は死ぬに際して、完徳者(聖職者)によるコンソレメントウム(額の上に手をかざすような儀式、救慰礼)を受けることにより、肉体は朽ちても精神は天上界に行ける。さもなくば精神はこの世に再び舞い戻り、別の肉体を借りて精神の袋としこの地上界に留まり続ける、肉体が死ぬとまたこれを繰り返す、つまりこの世(地獄)で輪廻する。私如きにはその方が永遠の命をもらったようでいいと思うのだが、この世は悪魔が作った世界つまり地獄であるから、そこから脱出して天国へと救われなければならないというのがカタリ派の教えである。従って、キリストがゴルゴダの丘で磔刑に処され、その後この世に復活したという新約聖書の四つの福音書の記述は、それが肉体を伴ってのこの世での再現とするならば、カタリ派にとってはとんでもない話ということになる。(ご存じのように”復活”については様々な説がある。)

 キリストの理解、洗礼の仕方、教会のあり方、聖職者の生き方、などなどカタリ派の教義は正統派の教義とことごとく対立し相容れない。翻って考えてみると、カタリ派の二元論はゾロアスター教→マニ教の系譜に近似し、ユダヤ教→キリスト教→イスラム教の一神教の系譜からはかけ離れていると思う。
 
 神がいるならば、なにゆえ災害があり病がありもろもろの苦しみがあるのか、太古の昔から人間は考えた。中央アジアの地でかのゾロアスターはそれまでの土俗的地域的宗教を超えて、善神(アフラ・マズダ)と悪神(アーリマン)の二元論の宇宙の普遍的体系を作り上げた。この世(現世)は二つの神の闘争の場で、アフラ・マズダが勝利し正義が実現するように務めるのが人間の生きる道であると教えた。この世は永遠には続かずいつか終末が訪れ、最後の審判が行われる。その時アフラ・マズダに味方した者は天国へと救済され、アーリマンに味方した者は地獄に落ちる。
 
 カタリ派はゾロアスター教の二元論の系譜にあるとはいえ根本的に違う点がある。この世(現世)の捉え方と天国への救済のされ方が全く違う。精神と肉体、天国(天上界)と地獄(地上界)、神と悪魔を極限までに峻別し、そしてその枠組みで人間の生死を二分して理解する。見事なまでの割り切り方である。人はこの世でどのように努力し生きたのかということとは関係なく、死に際してコンソレメントウムさえ受ければそれだけでいともたやすく天国へ行ける。この突き抜けた無邪気なまでのオプティミズムは、現世で生きることを悲しいまでにペシミズム的に考える救い難い厭世思想と対をなしている。マニ教と酷似している。

 災害があり病がありもろもろの苦しみがある。ユダヤ教から始まる一神教は二元論のようにそれは悪神の仕業とは考えない。神の沈黙、神がこの世に全面的に動いていないからである、何故神は動かないのか、その事を前にして人間はどうしたらいいのか、御利益宗教を超えた本格化な一神教はここから生まれる。

 キリスト教の歴史は、曖昧な解釈を許してしまう教義の多義性との闘いであったと思う。キリスト教に限らず一般に宗教の歴史は、その中で勝利した教義が正統派として残っていった。歴史とそれを示す書類は勝ち残った正統派に都合のいいように作られる。そうして教義は精緻化され純化され、敗者ははじめから存在しなかったかのように歴史から抹殺される。
 
 カタリ派は正統派にとっては教義が少しだけ違うというレベルではなく、この世を根底的に否定するがゆえに、邪宗・邪教の類と考えられた。たとえそういう教えであったとしても、民衆の支持を得て生き残る道はなかったのか、期待したい気持ちも少なからずあるが、事実は徹底的に弾圧根絶され、歴史はルネサンス、宗教改革の時代へとつながっていく。

 (2)へ続く。



私は毎日12時間眠っている。2019-03-21



             阿蘇山  2005.11.20(脊髄損傷前)



 私って何者?

 誰もが長い人生の過程で一度や二度は抱いたことがあるこの疑問、私は近頃妙に現実味をもってこう呟くことが多くなってきたように感じる。おそらく今の生活の有り様がそういう疑問を惹起させているのであろう。今の日々の生活がこれまでのそれとは比べようもなく違いすぎているからである。

 私は毎日12時間眠っている。原因は薬の副作用の為である。65歳の時に脊髄を損傷したが、それから丸7年が経ってしまった。1年間病院に入院していたので、退院してから6年間が経過したがほぼ同じようなパターンの生活をしている。薬は1日6回、合計10数種類を40~50錠程毎日飲んできた。多すぎるので減らそうとしたがなかなか減らない。眠たくなるのは特に鎮痛薬の副作用の為である。

 眠気を催す薬は多いが、鎮痛薬はその副作用の程度が甚だしい。一般に痛みには2つの種類があるといわれている。一つはナイフで腕を切った時のような患部から来る痛みで、人体の防御機能のためなくてはならない痛みである。もう一つ神経の誤作動から来る痛みで、神経障害性疼痛といわれるものである。足を切断した人が、あるはずのない足の親指が痛いと感ずるのがその例である。私が感じている痛みもこの後者で両腕が痛い。特に右腕が痛く、比喩的に言えばナイフで切り裂かれているようで、痛みが発作的に襲って来たときには思わず声を出してしまう。両腕には特に外傷は何もない。

 麻酔科(ペインクリニック)で鎮痛薬の処方を受けるようになってから痛みはかなり緩和されたが、今度は眠気との闘いが始まった。今は3つの鎮痛薬(リリカ、カロナール、トリプタノールorノリトレン)を使っているが、その服用の量により催眠効果が違ってくる。量を多くすれば鎮痛の効果は大きくなるが、それだけ催眠効果も大きくなる、痛し痒しである。その結果、ここ3年間は毎日コンスタントに12時間は眠ってしまう生活を続けている。

 夜から朝にかけて8時間眠る。これはほぼ誰でも同じであろう。私の場合はさらに午前中に1~1.5時間、午後1~1.5時間、夕方1~1.5時間眠ってしまう。日によっては1.5時間が2時間になることもある。いくら我慢してみても駄目である。いつの間にか眠ってしまっている。近頃は無駄な努力は止めて、寝覚めた時にスッキリすればそれでいいと割り切って眠たくなったら眠ることにしている。

 こういう生活をしていると、一日の活動時間が極めて少なくなる。リハビリだの、病院通いだの、ヘルパーさんによる衣服の着替えだのとそれでなくとも重度障害者であるがゆえの必須の時間をかなり割かねばならない。透析患者が生きていくために透析のため病院通いの時間を割かねばならないのと同じである。つまり私に固有に属している時間が短いと嘆いているのである。

 もし脊髄を損傷しなかったならば私は今どんな生活をしているだろう、などとは私は考えない。そんな考えが頭をよぎったことは本当にないのかと問われれば、そんな問いがあることは知っているし、その問いに絡め取られて愚痴しか言わなくなった人も知っている、「もし」と考えてハッピーになるならば何度でも「もし」と夢想しよう、私が言えるのはここまでである。重度障害者であることから逃れられないのだから、重度障害者として楽しく生きる、ただそれだけのことである。それ以外の道があるとは思われない。

 7年前から私は重度障害者(障害者1級、介護保険要介護度5)として生きている。そんな人生がよりによってこの私に訪れようとは勿論夢想だにしていなかった。今までと同じような平凡な人生が続くものと思っていた。しかしある日何の因果かこうなってしまった。運良くか運悪くか、こうなってしまった私はこの世で二つの人生を送っているような感じがするのである。

 普通では味わえない二つの人生を味わっている私は、前も後もおそらく同じ私であろうと思う。仮に「前の私」と「後の私」と名付けてみると、「前の私」は7年前に終わっている。今の私は大怪我をして重度障害者になった「後の私」である。 そこで最初の問である、私って何者? この生すぎる問いはどんな答えを期待しているのであろうか。

 私が生きてきた時代とはどんな時代だったか。そこで、私はどんな主義主張に影響されて自分の哲学を作ってきたか。その哲学とはどんなものか。それを体現しているのがこの私である。真正面から真正直に考えるとそういうことかとは思う。

 少し違った風に考えて、「後の私」は「前の私」とどういう関係にあるのかという問いを立ててみよう。「前の私」の時間的な延長上に「後の私」があるのは事実の問題である。「後の私」を生きている私は「前の私」にどう向き合えばいいのか。「後の私」は「前の私」の単純な延長ではないはずである。

 「後の私」は「前の私」が徐々に結晶化する過程ではないのか、近頃このイメージに到達した、そしてこのイメージが私の頭の中でだんだん強くなりつつある。鉱物はある極限的状態が続くと結晶体になる。私にとって重度障害者であるというこの身体的状況は十分に極限的状態である。食塩だって炭素だって結晶化する。人間も結晶化して何の不思議があろうか。このブログの冒頭で “近頃妙に現実味をもって” と書いたのは私がこのイメージに生々しくとらわれてきているという意味である。

 ”自分らしく生きる” といってもいいのかもしれないが、あまりにも俗ないい方であるし、「自分らしく」とはどういうことかと堂々めぐりのような説明をしなければならない。そもそもアプリオリに自分が存在しているような言い方にも違和感がある。もともと自分というものが厳と固定的に存在しているわけではないと思う。結晶化するといういい方のほうがが私にはピンと来るし、何しろカッコいい感じもする。希ば、結晶化しようという自発的意欲と行動に充ち満ちている「後の私」でありたい、せっかく重度障害者になったのだ、そう考えてもよかろう。

 この結晶化のイメージを持てるようになってから、「後の私」つまり重度障害者として生きなければならない私にとって、自分の生き方がすこし鮮明になってきたような気がする。矛盾するようであるが、結果として結晶体にならなくてもいっこうにかまわない。結晶化という言葉がこれからのプロセスで私を元気づける魔法の言葉であればそれでいい。

 ここまで書いたが読み直してみると、極めて私的な内容で独りよがりの考えであり、書いてあることは他人にはほとんどその意味が通じないだろう。大体、人間が結晶化するはずがないし、そもそもその考え方が分かりにくい。
 「後の私」も日々の生活ではそこそこ世俗的であろうから、そこから物事を考えないといけないのではないか。結晶化のイメージは一旦封印して、「後の私」は現実の今の私であるから、そこで出会う諸々の事柄とどう向き合っていくのかを主軸に据えて考え生きていくべきではないか。
 その時「前の私」が持っていた主義主張が色々と試され鍛えられるだろうから、そういう過程を結晶化と呼んでもいいかとは思う。あえて「前の私」「後の私」と分けて考えてしまうのは、その日常生活があまりにも変わり過ぎたからであるが、私の内面はほとんど変わらず連続している。断絶しなかったのだから内面については「前の私」「後の私」と分けて考える必要はない。
 しかし敢えてそうするのは、私の考えや行動にメリハリを付け元気づけをしているような効果があるからである、そのことを結晶化という言葉で呼んでみた。言い訳が長くなってしまった、自分の気分を伝えることは難しい。
 

孫崎享氏の本を読み日米関係について考える。2019-01-04


                
           津波戸山(大分県)   2005.11.23(脊髄損傷前)                 



(前半)

孫崎享(うける)氏の次の本を読んだ。
  戦後史の正体         2015年 創元社 
  カナダの教訓         1992年 PHP研究所
  不愉快な現実         2012年 講談社
  日米同盟の正体        2009年 講談社
  アメリカに潰された政治家達  2012年 小学館
  21世紀の戦争と平和               2016年 徳間書店
  小説 外務省           2014年 現代書館
  小説 外務省 Ⅱ       2016年 現代書館
  日米開戦の正体        2015年 祥伝社

 読もうと思ったきっかけは、放送大学で面白そうな講義をチョイスして聴講していると、ある講義(国際問題)で孫崎氏の本を参考図書として推薦していたためである。興味深い内容を平易に読みやすく書いてあり何冊も読んでしまった。その関連で次の本も読んだ。

  「日米合同委員会」の研究    2017年 創元社
  誰がこの国を動かしているのか  2016年 詩想社

 これらの本は”日本の戦後の歴史の捉え方”、”これからの日本の外交のあり方”というようなことがテーマであるから、当然ながら特定の政治的な内容を主張している。孫崎氏は要約すると次の二つのことを主張していると思う。一つは"脱米"、つまりこれまで日米同盟=日米安保条約の下で「対米従属路線」を歩んできたが、その従属の程度が甚だしく国民主権は侵害されている。そこから脱却して「対米自主路線」の道を模索してみようとの主張である。現在問題になっている「辺野古基地建設」「横田空域」「オスプレイ配備」等々、米軍に特権的地位を与えているこれらの事柄は「日米地位協定」「日米合同委員会」をその根拠としているが、これに批判的立場をとっている。二つ目は官僚の志の欠如、質の低下、劣化に警鐘を鳴らしそのことを克服して欲しいとの主張である。

 事を大きくして言うと、一つ目は単に反米、嫌米ということではなく、米ソの冷戦時代が終わりヨーロッパにはEUが出現して久しくそれに中国が大国として登場し、世界の力関係が大きく変わりアメリカは唯一の超大国とはいえなくなった。これまで通り対米一辺倒でいいかどうか、日本という国家の基本的なあり方を”東アジア共同体”の視点で考えようという提起である。そのためにも現在の日米関係とはどういうものであるのかを分析し直す必要がある。

 二つ目は財務省の森友問題に関する文書改ざん事件などが示すように、官僚の側が出世(猟官)と自己保身を期待して、権力(官邸)の側に平身低頭して身をすり寄せ、人間としての誠実さも無ければ官僚としての志のかけらも無い、実に見苦しく卑しい性癖が官僚の世界全体に蔓延し亡国的状態を呈している。この克服のため歴史を研究することの重要性を指摘している。

 具体例を挙げると、戦前中国の奉天(現在の瀋陽)総領事だったあの吉田茂は、満州での日本の権益を強力に主張して田中義一(陸軍大将)内閣に自分を売り込み、1928年外務次官のポストを獲得した。このこともあって以後外務省は陸軍の張作霖爆殺(1929年)、満州事変(1931年)、満州国建国(1932年)から日中事変(1937年)、日中戦争への流れを有効にくい止めることができなくなってしまった。このような歴史で中国を侮蔑的に見ていた吉田茂が果たした役割は決して小さくない。

 そしてこの流れから真珠湾攻撃(1941年)から第二次世界大戦へと、戦略なき絶望の道に突き進むことになる。官僚が自らの利益を得る(つまり出世する、利権を獲得する、自己保身を図る)ために短絡的に判断し、結果として国を滅ぼすに等しいことをしてしまうのは嘆かわしい限りである。そして相も変わらず現在もまた今までと同じようにこのことが繰り返されている。

 私は日本の政治権力の実体は人事権だと思っている。日本の官僚と司法の人事権を誰が握ってきたのかを歴史的に検証することは重要である。人事院人事官と最高裁判所判事の人事が官邸主導になっていないか、三権分立が有名無実にならないように注視し続けなければならない。上に述べた人事が特にニュースにならないからといって問題がないということにはならない。(検察は法務省の行政機関である。)

 こういう類のことをこのブログで書くと何かと誤解される元になるので、ここでとり上げるのを止めようかとも思ったが、孫崎氏の本は客観的なデータと参照した文献を示して自らの見解を述べ、筋道立っておりとり上げるのに値すると思った。勿論、右からも左からも氏を批判する人達がいることも十分承知した上での判断である。氏の本でとりあえず一冊選んで読むとしたら、ベストセラーの「戦後史の正体」がいいと思う。

 孫崎氏の主張はよく理解できるがこれまでの世界の歴史の流れを見ると、世界の覇者は大航海時代のスペイン・ポルトガル(重商主義)からオランダ、さらに産業革命を経たイギリスそしてアメリカへと移りそれが現在まで続いている。第一次世界大戦、第二次世界大戦の結果を見れば分かるように、いい悪いは別にしてここ2~3世紀の世界はアングロサクソンを中心に動いてきた。従ってアングロサクソンに同調していけば日本の外交は大筋間違ったことにはならない。

 下手に「対米自主路線」をとってアメリカから警戒視されて薄氷を踏む危険を冒すより、米軍へ基地を提供するなどのコストは少々かかるが、「対米従属路線」をとる方が賢いのではないか。その方が日本という国が世界の難しい力関係の中で、安全で大過なく生きていくための外交の本筋ではないか。アメリカと共に歩むことが日本が栄える道……… これがもう一方の見解である。

 この見解は戦後すぐに吉田茂が敷いた路線であり、説得力があり日本人の中でけっこう根深い考え方とも思える。しかしそれは現実には憲法と三権分立の上に米軍が君臨することであり、そうなってはもはや日本は独立した国家の名には値せず、国民の主権が侵害され国益が損なわれること甚だしい。

 孫崎氏の略歴は本の巻末によると次の通りである。
1943年、旧満州国鞍山生まれ。66年、東京大学法学部を中退し外務省に入省。英国、米国、ソ連、イラク、カナダ駐在を経て、情報調査局分析課長、駐ウズベキスタン大使、国際情報局長、駐イラン大使を歴任。2002年から防衛大学校教授に就き、09年に退官。

 右派か左派か、保守か革新かという色分けは現実的解決が要請される外交問題に関してはあまり有効だとは思わない。外交は相手国と交渉して自国のために具体的な成果を出すことである。そして、偏狭なナショナリズム(例えば、極端な自国第一主義、ISのイスラム原理主義、難民に対する排斥運動、ネオナチズム、ヘイトスピーチ、軍国主義的言動など)に陥ることを避け、第一次世界大戦、第二次世界大戦のような時代の再来を防がなければならない。

 孫崎氏は経歴を見れば分かるように、氏はキャリアの外務官僚でいわゆる”情報屋“であり、左派・革新に分類されるような人ではない。しかし集団的自衛権や特定秘密保護法などの安倍政権の時代錯誤的な動きに対しては、戦前の真珠湾攻撃に至る史上最大の愚策の歴史に酷似しているとして反対の立場を表明している。

 孫崎氏は言う。外交はきれい事ではなくスパイや不審死をも厭わず謀略をも駆使する。しかもこの謀略は決して表立って明らかにされることはない。これは世の中の出来事をマスコミが報道する通りに理解するのではなく、テレビや新聞等のメディアもまた謀略の対象であり、時として権力の側に立って謀略に加担するメディアもあり、ことの真相は別の所にあるかもしれないと疑った方がいいことを意味する。

 具体例を挙げると、日米開戦の真相、吉田茂の評価、60年安保闘争と岸信介の評価、田中角栄とロッキード事件、小沢一郎の政治資金規正法問題、東京地検特捜部、北方領土や尖閣諸島問題等々、いずれもアメリカとの関係をぬきには考えられない事柄であり、それぞれマスコミ主導の定着した評価があるようだが、ことの真相は普通に考えられている所とは別の所にあると孫崎氏は示唆している。

 私も思い出してみると、例えば40年以上前のことだがテレビのニュースでロッキード事件の報道を見て、田中角栄の金脈問題は実にケシカラン話だ、政治家はもっと襟を正して清潔であって欲しいと単純に憤慨したことを覚えている。大衆の素朴な倫理観や正義感は社会を根底から支えるインフラであり、従ってそれを否定的にいうつもりはないが、謀略はそういうものをも巧みに利用し煽動して目的を遂げる。田中角栄はアメリカの謀略で潰された、これが孫崎氏の見解である。

 孫崎氏の歴史の見方はいわば一種の謀略史観であると思う。戦後の日米関係は日本人の文化や生活様式の隅々にまで広範囲かつ全面的に影響を及ぼし、一方で米軍基地もあれば他方でディズニーランドもあるというような状況が複雑に錯綜している。従って謀略史観だけで日米関係を正しく理解できるとは思わないが、私にとっては目から鱗が落ちるような視点であり大いに役に立った。

 謀略により恐怖感を植え付けられた日本の高級官僚達は、心理的にアメリカに対する隷属状況から抜け出すことができない。反米的言動をとると自分の官僚としての将来がないことをよく知っている。その見せしめ的な先例もたくさんある。国益よりも自己保身を優先させる志を忘れた見識なき日本の高級官僚達と、アメリカとの秘密合意と密約による政治が横行している。

 例えば先ほど述べた「横田空域」は航空法などの国内法にも「日米地位協定」にもその根拠がない。「日米合同委員会」で合意したというだけであり、その内容は立法の府である国会にも明らかにされてはいない。1都8県にまたがるその広大な空域から日本の民間飛行機は締め出されている。首都の空が治外法権で他国に支配されているというのは先進国では日本だけである。何のことはない、戦後すぐの米軍の占領政策の継続を日本の高級官僚が今もなおそのまま認めているだけの話である。米軍の占領はサンフランシスコ平和条約(1952年)で終わったはずだ。「日米地位協定」と「日米合同委員会」のカラクリを我々は知らなければならない。

 日本統治の法体系が憲法体系と安保法体系(憲法と国内法の中に治外法権ゾーンを作り出している種々の特別法・特例法、例えば航空法に対する航空法特例法や土地収用法に対する土地等使用特別措置法など)という二重構造になっており、その矛盾を明らかにすることが日本の戦後史と現在の日本社会を解明することにつながる。
 
(後半)
 少し話の視点は変わるが、”似改善策”を示して幻想を振りまく勢力に人びとがいともたやすく騙された歴史を我々は知っている。第一次世界大戦の敗戦で巨額の賠償金に苦しんでいたドイツは、領土拡張と反ユダヤ主義という擬似改善策を掲げたナチス(国家社会主義ドイツ労働者党)にまんまと引っかかってしまった。その後の歴史は知っての通りである。擬似改善策は素朴なナショナリズムに善人面をして囁きかけ、短期間で物事が改善されるような一見威勢のいい幻想を振りまき、人びとを悪魔のような暴力的な世界へと引きずり込んでしまう。

 1929年から始まった世界恐慌には日本も苦しんだ。今思うとあの満州進出というのは擬似にすぎなかったのだが、日本人はそこに当時の経済的困窮の改善策を、そして日本の未来がバラ色に輝いているような幻想を見てしまった。関東軍の満州侵略はその擬似改善策の実行(「満蒙は日本の生命線!」)だったが、大多数の日本人は幻想に迷わされそれが本当の改善策のように見えてしまい、似て非なる擬似であるということを見破る力をもたなかった。

 そしてあの敗戦という悲惨な結末に終わってしまった。悪いのは当時の政府と官僚と軍部の上層部とマスコミ(新聞とラジオ)であって、我々庶民は戦争の被害者だという言い方がよくなされる。それは確かに事実である。しかし被害者意識から一歩も抜け出ようとせず、ただ糾弾するだけという居心地のいい立場に安住するという姿勢には私は少し疑問を感じる。言っていることは間違いではないが、ずっとその姿勢のままでいいのだろうか。擬似改善策に惑わされた歴史を見直し、なぜそうなってしまったのかと自責と自戒の念を込めて粘り強く問い直すという次の作業が必要であると思う。

 軍部独裁の恐怖政治の下で、人びとの政治的な選択の自由はほとんどなかった。しかしどんな政権であっても人間の心の奥まで究極に支配することはできない。内心はその人に属する最後の固有なものである。他者がその人の命を奪うことはあっても、その人の内心を奪うことはできない。

 庶民一人ひとりは心の中でどう考えたのだろうか。戦争へと突き進んで行く流れに何も考えずただ流されただけなのか、知らず知らずのうちにラジオと新聞の報道に騙されてしまったのか、自己保身と役得から自ら望んで騙されたいと思ったのか、仕方なく騙されたふりをしただけなのか。少し言い方を変えると内心と実際の行動との間に乖離はなかったのか、あったとすればその内心とはどういう内容だったのか。もう少し平たく言うと、日本が他国である満州に侵略することに心の中で何かしら引っかかるものを感じなかったか、感じたとすれば………………。

 戦前の1930~40年代の日本に私が生きていたとしたらどんな生き方ができたであろうか。私は満州侵略にはおそらく心の中で何かしら引っかかるものを感じたのでないかと思う。そして軍部独裁の日本の政治はどこかおかしいのではないかとも思ったのではないか。日米開戦では国力が圧倒的に大きいアメリカと戦争しても、勝つ見込みはないと常識的に判断したと思う。しかしそのことを声高に主張して憲兵や特高ににらまれ、一人犬死にするような道は選ばなかったと思う。死んでしまったらそれで終わりだ、とにかく生き延びることだ、戦争が終わるのを待とう、普通にそう考えたと思う。そしてそのために「面従腹背」という処世術を選択したと思う。

 世の中に対する認識のレベルは色々あったと思うが、結構多くの日本人が「面従腹背」して生き延び敗戦を迎えたのではないだろうか。卑怯で後ろめたい響きのある「面従腹背」であるが、次の時代に向けてエネルギーを貯めているのだという決意表明のような感じもする。その「面従腹背」は戦時中は組織化されることはなかったが、私はそれが日本の戦後を深層で本質的に準備したのではないかと思う。しかし、ともかくも歴史は擬似改善策に流れていった。

 戦後70年以上経ち、あの戦争はずっと前の世代のことで我々戦後世代には関係ないという空気があるが(日本が戦争をしたということを知らない世代も出てきている)、はたしてそれでいいのだろうか。同じ日本人として少なくともあの戦争からは何かを学び取らなければならない、そうでないと我々戦後世代は浮ついて"平和と民主主義"と唱えるだけで、確固とした考え方をいつまでも持ち得ず、大国の動きに右往左往するだけの軽薄な民に成り下がってしまう。擬似改善策なるものは幻想を振りまき、さもまっとうであるという顔をして今も飛び回っている。それはおかしいときちんと見破り、付和雷同して追従してはいけない。戦前も戦後もそして現在も日本人がそれに騙されるレベルの人間達であるならば、結局そのレベルの世の中しか訪れない。

 当時(戦前の1920年代~1940年代)の真正の改善策は、石橋湛山が一貫して主張していた「小日本主義」(朝鮮、台湾、満州、樺太の植民地を放棄して軍備の負担を軽減し、英米とも友好関係を維持して貿易を盛んにし加工貿易による通商国家として生きるという道)であったと私は考えている。植民地経営はコストがかかりすぎて経済的に割に合わない、貿易立国の方がはるかに豊かになれる。石橋湛山はそのことを論理的に説明し、「大日本主義」ではなく「小日本主義」こそが日本が進むべき道であると説得し続けた。石橋湛山はもっと評価されて然るべきジャーナリストであり政治家(鳩山一郎のあと1956年総理大臣になるが、アメリカとの確執もあり65日の短命内閣に終わる)であると思う。歴史に対する無知を克服してもっと賢くならなければ何も始まらない。

 アメリカの圧力にどう対処していけばいいのか、三国同盟を結んでいた同じ第二次世界大戦の敗戦国であるドイツ、イタリアもNATO軍(アメリカ軍)基地を抱えて戦後苦慮したが、住民も官僚も政治家も粘り強く交渉して、アメリカとの一方的な不平等関係(治外法権など)を克服してきた。

 カナダは地理的・経済的関係から建国以来ずっとアメリカの一つの州として併呑されてもおかしくなかったけれども、毅然として自主外交の姿勢を貫き通してきた。イラク戦争ではサダムフセインのイラクには大量破壊兵器があるというアメリカの主張に対して疑問を投げかけ、国連決議がないと動けないとしてイラク派兵を拒否した。アメリカとの関係も大事であるが、国連決議等の合法性の方ががより重要であるというカナダ外交の一貫性を示した。(フランスもドイツも同じく派兵を拒否した。)

 日本では小泉純一郎が唯々諾々とブッシュの言いなりになってイラク特措法を成立させ、陸上自衛隊をイラクに派遣したのとは好対照である。結局、大量破壊兵器は発見されなかった。どちらの立場の国が国際社会で信頼されるかは明らかである。アメリカの圧力を克服してきた諸外国の例を、日本の政治家と官僚は事なかれ主義から脱してもっと真剣に研究し見習うべきである、勿論我々一人一人も、と孫崎氏は主張している。

 私は孫崎氏の本を読み、1973年9月11日南アメリカのチリで起こった軍事クーデターのことを思い出す(「9.11」)………チリでは世界で初めて選挙で合法的に社会主義政権が誕生していた。それに反発していたアメリカ(ニクソン=キッシンジャー)はCIAの謀略により軍事クーデターを起こして、アジェンデ社会主義政権を倒してしまった。その後は虐殺・拷問・監禁というピノチェト軍事政権による反動の嵐が吹き荒れ多くの血が流された。理不尽極まる話である。1972年の沖縄返還(佐藤政権)と日中国交回復(田中政権)の後で、私がまだ20代の頃のことだった。

 ニクソン=キッシンジャーはベトナム戦争の終結に動いている一方で、南米では非人道的なことをしていた。アメリカから嫌われると、たとえ選挙で勝って成立した合法的な政権であろうとも、謀略によりいともたやすく倒される。認めたくはないがそれが歴史の現実であるといやが上にも知らされた。戦後の歴史を検証すると日本もこの例外ではなかったことがよく分かる、そして21世紀の現在の日本もまた同じである。

 アメリカは自由と民主主義の国ではないのか、という反論がありそうだ。私はアングロサクソンの近代国家つまりイギリスとアメリカは双頭の動物ではないかと思うことがある。一つの頭は確かに自由と民主主義であるが、もう一つの頭は謀略と覇権である。一つが実の顔で、もう一つは仮面であるというのではない、二つとも実の顔である。自由と民主主義の国は謀略を駆使しないし覇権を求めないというのはただの願望に過ぎない。自由と民主主義の国は歴史的に見て紛れもなく戦争国家であったし、現在でも間違いなくそうである。あの野蛮な阿片戦争をしかけたのはどこの国であったか、何の罪もない人びとの上に原爆を落としたのはどこの国であったか、そして今も中近東のイスラム社会で戦争をしているのはどこの国であるか。

 翻って、そもそも自由と民主主義の国は自国の中に謀略と覇権を禁止する(少なくともコントロールする)仕組みを作ることができるのであろうか。一つは自衛権の問題であるのだが、自衛のための戦争を認めてしまうと自衛のための謀略を認めざるを得ない。二つは国際的な経済競争の問題である。情報戦争に勝利した国が国際的な経済競争を有利に展開できる、その情報戦争には謀略は不可欠であろう。謀略と覇権のコントロールは一国だけでは難しい問題であると思う。ASEAN(東南アジア諸国連合)のこれからの動きが解決の糸口を示すかもしれない、注目して見てみよう。

 アメリカとの関係だけでなく、近隣諸国との外交問題もほぼ毎日のようにマスコミで報道されている。近頃では、ロシアとの北方領土返還問題、北朝鮮との拉致問題、韓国との慰安婦・元徴用工問題と竹島問題、中国との尖閣諸島問題などであるが、マスコミの論調を無批判に受け入れて感情が先に立ち、相手国が一方的に悪いと憤慨しているだけに終わってはいないか自省する必要がある。

 うっぷんを晴らすとその時はすっきりした感じになるが、相手国との間では何もいいことを生み出さない、いや相手国の政府と国民に反感を植え付けるだけである。数年前日系のデパートを荒すなどの中国での反日暴動を見て、大半の日本人がそう思ったはずだ。攻守立場を入れ替えて同じことがいえる。例えば、韓国の元徴用工問題で相手国に非があるように感じてその非を声高に非難していると、知らず知らずのうちにこちら側が偏狭なナショナリズムに落ち込んでしまう、そしてそれが憎悪に変わっていく。このことに無自覚でいることが恐ろしい。元徴用工問題はそんなに簡単に片付く問題とは思えない、自分がその立場だったらと考えてみるとすぐ分かることだ。嫌われる日本、嫌われる日本人になってはいけない、こちらの視点の方が重要だ。近隣諸国に嫌われるというつけがどれ程高くつくか、我々日本人は敗戦から今までいやというほど知らされてきたはずだ。近頃のニュース報道を見ていてつくづく思う。

  少し本題から離れるが、古い本だが五木寛之の「戒厳令の夜」が面白い。チリのクーデターのことを書いたので思い出した。その本の中で出てくる、パブロ・カザルスの「鳥の歌」(スペインのカタロニア民謡)がいい。