「また、桜の国で」(須賀しのぶ著 祥伝社)を読む。2018-07-20


        
          剣岳   2006.08.26(脊髄損傷前)


 1938年(昭和13年)秋、主人公・棚倉慎(まこと)はワルシャワの在ポーランド日本大使館の書記生として赴任するため、ベルリンからワルシャワまでの夜行列車に乗った。車中でユダヤ系ポーランド人の青年がドイツのSS(ナチス親衛隊)に痛めつけられている場面に出会い、正義感から中に入ってその青年を救出する………壮大な物語はここから始まる。慎は満州にある外務省の哈爾浜(ハルピン)学院で、ロシア語、ドイツ語、ポーランド語を学び外交官になっていた。日本に亡命した植物学者のロシア人の父と日本人の母との間に生まれたハーフで、顔かたちは父方のスラブ系の血を引いた27歳の青年である。

 ナチスによるチェコスロヴァキアのズデーテンの割譲(1938年)から始まり、独ソ不可侵条約とポーランド侵攻分割(1939年)、アウシュビッツ収容所(1940年~1945年)、カティンの森事件(1940年)、リトアニア領事杉原千畝のユダヤ人救出(1940年)、ワルシャワのユダヤ人ゲットーの蜂起(1943年)等を織り交ぜてワルシャワ蜂起(1944年)に至るまでがこの小説で綴られている、いわば凝縮された東ヨーロッパにおける第二次世界大戦史である。

 慎は9歳の時、東京の自宅で偶然ポーランド人のシベリア孤児カミル(10歳)と出会う。18年後、慎が在ポーランドの日本大使館勤務となった時にこのポーランド孤児達も同じ年頃の青年となっていてワルシャワでの交流が始まる。この部分は作者のフィクションの感じもするが似たような歴史上のモデルがあるのかもしれない。この青年達の友情と交流は重い歴史の中で抒情的な旋律を奏でていて感動的である。

 この小説を読んでいる時、サッカーワールドカップで日本対ポーランドの試合が行なわれていた。テレビでは対戦相手のポーランドが大の親日国であり、そうなった歴史的経緯を紹介していた。私はこの小説を読むまでその歴史を知らなかった。

 ポーランドという国は世界地図から二度消滅した歴史をもっている。二度目はよく知られているように、第二次世界大戦中のナチスドイツ(ヒトラー)とソ連(スターリン)による侵攻分割で、この時代がこの小説の歴史的舞台である。最初の消滅は、18世紀末ロシア、プロイセン(ドイツ)、オーストリアの三国による分割で、それから第一次世界大戦が終結するまで100年以上にわたり隣国の強国に蹂躙されてきた。帝政ロシアに支配された地域ではポーランド語を使うことが禁止され、徹底的に反ロシア活動が封じ込められた。自国の独立のために戦った多くのポーランド人が逮捕され極寒のシベリアに抑留されて強制労働に従事させられた。1918年のロシア革命で帝政ロシアは消滅しソ連が生まれたが国内は内戦状態に陥ってしまった。当時シベリアには10万人以上のポーランド人が生活していたが、深刻な飢餓状況に陥り疾病が蔓延し生活は凄惨を極めた。特に親を失った孤児達は悲惨な境遇になりその救出は火急を要する人道上の問題になっていた。しかし、アメリカ、イギリスをはじめ欧米諸国は要請されたがこの救出には動こうとはしなかった。

 唯一日本だけが手を挙げ、1920年(大正9年)から1922年(大正11年)にかけてウラジオストックから敦賀港経由で765人のシベリア孤児達を受け入れた。原敬内閣の時である。当時日本はお世辞にも経済的に豊かな国とはいえなかったが、官民一体となって孤児達を救出し東京と大阪の快適な施設に迎え入れて生活させた。孤児達はシベリア生まれでまだ母国を見たこともなかった。中にはポーランド語を話せない子供もいた。このためポーランド人の大人60数名が呼び寄せられ、また多くの日本人の看護婦は献身的なお世話をした。若き看護婦が腸チフスに感染し殉職している。着る服も無く栄養失調で腸チフスが蔓延していたが、孤児達は徐々に栄養をつけ健康状態は改善していった。そして独立間もないポーランドへと無事送り届けられた。

 この事について平成5年から4年間ポーランド大使を務めた兵藤長雄氏は回顧して次のように述べている。https://shuchi.php.co.jp/article/1812 https://shuchi.php.co.jp/article/1812?p=1

 シベリア孤児達はポーランドに帰ると孤児院で生活を始めた。その中の一人、イエジはやがてワルシャワ大学を卒業し、自らの子供時代と重ね合わせるように孤児院を経営し、また、かってのシベリア孤児達600人以上を組織して極東青年会という団体を作り親日の友好活動を展開していく。さらにワルシャワ蜂起までの対ナチスのレジスタンスを闘い抜いた、そのイエジの活躍はこの小説でも詳しく取り上げられている。 

 戦況の悪化でポーランドの日本大使館は閉鎖を余儀なくされ、慎はソフィアの在ブルガリアの日本大使館勤務となった。日本はドイツ、イタリアと三国同盟を結んでいたが、慎は再度ポーランドへ行きイエジの指揮下に入り対ナチスのワルシャワ蜂起に参戦する。ドイツ軍はスターリングラードの攻防などでソ連の赤軍から攻め立てられ敗走を余儀なくされていたが、態勢を立て直してワルシャワ蜂起を鎮圧する。ソ連の赤軍はワルシャワを南北に流れるヴィスワ川の東岸まで迫っていたが、なぜかドイツ軍と戦おうせず、ワルシャワ蜂起に立ち上がったポーランド国内軍と市民を援助せず見殺しにしてしまった。戦後のポーランドの政治的支配を狙ってドイツ軍とポーランド国内軍が消耗して共倒れするのを待っていたとも云われるが、ソ連(ロシア)側の資料が公開されておらず真相は現在までよく分かっていない。ワルシャワ蜂起でのポーランド人の死者は軍民合わせて20万人、第二次世界大戦での死者は600万人と云われている。

 終章。1956年(戦後11年)ポーランド系アメリカ人となっていたカミルは東京にいる慎の父を訪ね、ワルシャワ蜂起で勇敢に戦った慎の最期を報告した。それを聞いて胸の奥深く詰まっていたものが腑に落ちたのだろうか、慎の父はレコードをかけた………ショパンの「革命のエチュード」である。まだ子供だった36年前、カミルと慎が秘密の約束をしたあの時もこのピアノ曲が流れていた。

 私は何度もこのピアノ曲を聴きながら、この小説を読み進めた。1830年、ウィーンにいた20歳のショパンは、祖国の独立に蜂起したポーランド人がロシアから攻撃されワルシャワが陥落したという報せを受け失望し落胆した。その時のほとばしる熱情を叩きつけるようにこの「革命のエチュード」に込めたと云われているが真偽の程は明らかでない。
 
 (追記) 連想ゲーム的に次の本を読み映画を見た。
「夜と霧」 V.E.フランクル著 みすず書房
「アウシュヴィッツを志願した男」 小林公二著 講談社
「灰とダイアモンド」 アンジェイ・ワイダ監督
「カティンの森」 アンジェイ・ワイダ監督



K君の言葉(50年前の話)2018-06-25


              塩見岳から南アルプスの稜線を望む  2003.09.09(脊髄損傷前)



 18から20歳頃までの多感な青春時代の2年間を私は三鷹市にあった大学の男子寮で過ごした。当時300人程の寮生が生活していて、それから50年以上経つが今でもつきあっている友人が多い。K君とは2年生の時同じ寮委員をして何かと話す機会が多かった。K君は熊本出身で同じ九州だということもあって身近に感じた。私は20歳の時K君から人生を決定づけるような影響を受けた。K君は今東京で弁護士をしている。

 K君は自分は臆病だと言った。その上優柔不断だからぐずぐずして眼の前のやるべき課題に取り組もうとしない、実行すると決めたのにもっともな理由をつけて先に引き延ばそうとするというのだ。K君は自分をそう分析したうえで、だから考えて、「 ”No” でなければ ”Yes” 」つまり躊躇しないで実行すると決めたんだと言った。私も自分自身を臆病で優柔不断な人間だと思っていたので、K君の言うことに引きつけられた。

 誰でもそうだが物事はどのように考えなければならないか、そして自分はどのように行動しなければならないかという課題を抱えている。そのことが生きている証でもある。はいこれは右これは左とすぐに結論がでる問題は少ない。考えれば迷ってしまう、それが普通だ。粗雑に結論を出す必要はない、じっくり熟慮して結論を出す、そして実行する。K君の言うことに奇異はない、至極当たり前のことを言っているように感じられた。K君の ”Yes” は考え抜かれた末に導き出された究極の行動規範、人生哲学だが、その真髄はどこにあるのかもう少し検討してみよう。

 世の中には立場や思想信条の違いで ”Yes” ”No” が相反することが多い。原発問題然り、移民問題然り、憲法改正然り………。しっかり考えて判断する場合もあれば、習慣や惰性で簡単に処理している場合もある。この世ではしてはいけないことがありそれは ”No” で、反対にしなければならないことは ”Yes” であると思っている人がいる。一方、いやこの世にはしてはいけないことなど何もないし、しなければならないことなども特に何もないと考えている人もいる。 ”Yes” か ”No” かを問うとすれば、抽象的議論をせず個別具体的に検討するしかない。

 こういうシビアな事柄のほかに、世の中にはまあしてもしなくてもどっちでもいい、 ”Yes” か ”No” かどっちでもいいという事柄もある。数的にはこっちの方が多いかもしれない、そして人生はこのどうでもいいようなことの連続で充満しているといってもいい。このどっちつかずはけっこう我々の頭を悩ませる。ここで、K君の「 ”No” でなければ ”Yes” 」の出番となりその本領を発揮することになる。

 例えば、友人からあるイベントに誘われたとしよう。”Yes” か ”No” かはっきりしない、まあどっちでもいいかという場合がけっこうあるのではないか。せっかく誘われたのだ、特に断る理由がなければ参加してみようというのが、「 ”No” でなければ ”Yes” 」の意味するところである。面白くなかったならば次から参加しなければいいだけの話である。 

 私はK君の真似をすることした。実践的で有力な行動の基準であると思ったからだ。以来50年以上経つが、仕事の場面で、家庭の場面で、様々な人間関係の場面で私はこの ”Yes” のお世話になってきた。元来私は何事にも引っ込み思案な性格だったのだが、周りの方が私のことを曲がりなりにも積極的な人間だと思っているとしたら、それはこの基準の賜物である。30半ばで知り合いが一人もいなかった福岡に東京から移り住んでこれまでやってこれたのも、この ”Yes” のお陰である。そしてそれは間違いなく私の人生を面白くしてくれた。

 私は人生は ”邂逅” だと思っていた。自分一人の独創的な創意工夫で道を切り拓くということもまれにないではないが、私のこれまでを振り返ってみると人との出会い、本との出会いの影響が大きかったと思う。少し考えればお分かりのように、この ”Yes” は継続すると次第に人の性格を変え行動を変えそして人生を一変させる力をもっている。20歳の時、私の ”邂逅” はK君の ”Yes” と合体し、相乗効果で私の生き方を根こそぎ変えてしまった。

 さてこの基準を適用して生きていくと、することが多くなりすぎて頭が混乱し収拾つかなくなることにはならないか。また予期せぬ不測の事態に陥る危険が多発することにはならないか。確かにこのような疑問が生じるが、実際にはそういうことにはならない。なぜならもともと ”No” の場合には行動しないという歯止めがあるからである。反社会的である、違法である、危険度が高い、他人に迷惑をかける場合などは当たり前だがしてはいけないかしない方がいい場合であり ”No” となる。好きになれない、なんとなく気分が乗らない、時間的制約があってできない、経済的負担が大きい、などの主観的・個人的理由で ”No” となる場合もある。  

 ところで多くの人はなぜいろんな場面で臆病で優柔不断になるのだろうか。いったん決めたことを色々理由をつけて躊躇し先に引き延ばそうとするが、怠惰であるためにそうするのだろうか。それは多くの人とっては自分と家族の生活を維持継続することが何よりも大切だからだと思う。そのことを否定的に自己保身といってもいいが、普通の人がこの自己保身を捨てさることは至難の業である。臆病風が吹いて次の一歩がなかなか踏み出せない、そのことを非難してもいいがその踏み出せない内実は自分と家族の今の生活を壊したくないという本能的な生存の欲求である。従って手強い相手だといえる。

 K君はこのことにほとほと手を焼いたのだと思う。他人の心の領域にはなかなか踏み込めないが、せめて自分は自己保身を克服して生きようと決意したのだ。”君子危うきに近寄らず” ではなく、”義を見てせざるは勇なきなり” である。自己保身を理由に ”No” と言うことを自らに禁じ、意識して退路を断って次の一歩を踏み出すと決めたのだ。ちょっと考えると立身出世主義のようでもあるが似て非なるものである。立身出世主義はあくまで計算ずくめの上昇志向である。K君はとうの昔そういうレベルの生き方には決着をつけ、最後に残った手強い自己保身を 「 ”No” でなければ ”Yes” 」で克服し、場合によっては自己犠牲をもいとわないという生き方を選んだのである。   

 近頃国会を舞台に森友・加計問題で、何かを隠すために嘘をついるのではないかと疑いたくなるような、政治家や官僚達の人間性や誠実さなど無きに等しい言動を頻繁に見せつけられた。その度に私は次のイメージにとらわれしまう………人の体から口が遊離して宙に浮かび、その口先が元の人間とは無関係にパクパクと開閉して声を発し、そこから空虚な言葉がへらへらと漏れ出ているというイメージである。そんな言葉ともいえないような言葉には人を説得する力もなければ感動させる力もない。私は見たくないものを見せつけられ、体が震えるような生理的な嫌悪感を抱いてしまう。K君の言葉とはその真摯さにおいて雲泥の差がある、真心から絞り出すように生み出される言葉の復権を希う。
 

70歳から生き方について考える。2018-06-08


      
     九重(三俣山)のミヤマキリシマ  2003.06.08(脊髄損傷前)


 いつの間にか70歳になった。70歳からの生き方はこれまでの生き方とは違うのだろうか、などと考えているうちに来月には72歳になってしまう。少し焦る気持ちが沸き起こってきた。これではあっという間に80歳になってしまう。日本人男性の平均寿命は80歳、私の寿命は85歳位と考えていたので、これでは何もしないで私の人生は終ってしまうではないか………そんな気持ちになってしまった。さて、どう考えたらいいものだろうか。

 物事には準備期間とか助走期間というのがある。突然70歳になったりはしない。普通はその前に少しずつ将来の生き方の準備をしていくのではないのか。ところが私の60歳代の10年間はさんざんなものだった。60~65歳の5年間はうつ病に打ちのめされた日々で、もう2度と味わいたくない辛い時間だった。睡眠導入剤と向精神薬で何とかその日その日をつないでいたようなものだった。65歳の時、駅の階段で転倒し頸椎を骨折した。四肢麻痺で寝返りもできなくなり24時間介護が必要な体になってしまった。それから今日まで障害者としての生活に順応することに精一杯だった。重度の障害者として第二の人生が突然始まり、それから老いるという必然が追いかけてきているという感じである。
 
 「君たちはどう生きるか」(吉野源三郎著 岩波文庫)という本が売れているという。1937年(盧溝橋事件と同じ年)に出版されたずいぶん古い本だ。私も中学2年生の時中学校の図書館で読んだ。覚醒されたというか啓発されたというか、読んだ後で自分がこれまでとは違った人間になったような感じがしたことをはっきりと覚えている。拙いながら私が人生というものを考え始めた時である。

 それから今日までの60年もの間様々なことがあった。そしてそのときどきで私なりに真剣に考えて自分の人生を継続させてきた。30歳の時私は落ち込んでいた。世の中には自分を元気づける妖しげなる術があるのではないか。その術を発見し体得できればたくましくかっこよく生きることができるのではないか、と思った。私は自分の心を支える言葉を探した。人生論というか哲学というかその付近の領域のことを私は「養精術」と名づけた。そして副題を「たくましさの哲学」「かっこよさの哲学」とした。今日まで生きてきたということは、そのときどきで「養精術」の各論をつけ加えてきたことだと言ってもいい。その「養精術」を振り返ってみることでこれからの生き方の一助にしてみよう。未来とは白紙に好き勝手に絵を書くようにはやって来ない。現状の克服の中にしか現実の未来はない。

 いわゆる教養主義なるものを20歳頃までは信じて疑わなかった。しかし徐々におかしいのではないかと考え始めたが、72歳の今となっても本当のところ克服できていない。教養を積むことは良いことだという生き方や考え方を一般に教養主義というが、検討していくと問題点が多い。自分では気づいていないが様々な固定観念が私の思考をいびつにしている、その代表格が教養主義である。それらは束になって私を縛りあげ骨抜きにしているような気がする。それらを克服することをしないでどうしてこれからの自分の未来を考えることができるだろうか。どうすれば様々な固定観念の呪縛から解放されるのだろうか。

 もう一方で私の頭の片隅をチラチラするのは、「悟る」というか「枯れる」というか全く別次元の老後の生き方である。若い頃からずーっと心の深いところで、縁側に座って日がな一日を日なたぼっこしながら猫を膝に抱いて過ごしている年老いた自分を想像してはそうなればいいなあと思っていた。ところがその憧れていた生き方とは正反対に、私はいい年をして教養主義に囚われたまま青臭く生きようとしている。

 私は昨年71歳で放送大学(4年制大学)に入学し大学1年生になった。九州大学もある春日キャンパスでの入学式に行くと社会人らしき人が100人程来ていた。60の手習いならぬ70の手習いである。10年間在籍するコースを選んだ。10年間で社会科学、自然科学を問わず200科目程度勉強するつもりでいる(1科目は45分×15回)。50歳の頃に60歳(還暦)になったら仕事の時間を減らして夜間大学に通おう、そして経済学を学び直そうと思っていた。10年遅れたが、障害者になったのでインターネットで学べる大学を探し放送大学にたどり着いた。私は今まで歩いてきたのと同じく青臭く生きる道を選んだようだ。

 デイサービス(週2日)での午後、私はパソコンのインターネットでその放送大学の講義を受講している。するとデイサービスのスタッフの方から「松崎さんもたまには皆さんと一緒にカラオケでもしませんか。」と声をかけられる。皆さんとは80~90歳代の認知症の方々である。カラオケはあまり好きではないのでと言い訳をしながら放送大学の講義を視聴する。するともう一人の私が現れてきて言う。「君も悟ってないなあ、何故認知症の皆さんと一緒にカラオケができないのだ。」 確かにここには好き嫌いだけでは済ませられない重大な問題が潜んでいる。

 ” 霞立つながき春日をこどもらと手まりつきつつ今日もくらしつ "………良寛さんは遥かに遠い。

 学びたいことは山積している。読みたい本もたくさんリストアップしている。しかし私には限られた時間しか残されていない。だからついつい勤勉でかつ効率よく時間を使わなければならないなどと考えてしまう。こんな風に考えてしまうところが私の駄目なところである。やはり私は堂々巡りというか出口のない固定観念の地獄に落ち込んでいると言わざる得ない。時間という固定観念だ。時間は眼に見えない、だからあれこれイメージすることになるが、その時間を過去から未来への一本の直線のようにイメージしそれを横軸にしてその上に人生というものを載っけて物事を考える思考法だ。あたかも時間を物差しのようにイメージしている、そしてそこから勤勉でとか効率よくとかいう考え方が生まれるのだ。

 明日、交通事故で死ぬかもしれないではないか。その時こんなに早く死ぬとは思わなかったとでもいうのか。何故自分には少しの時間しか残されておらず、その時間ではやりたいことのほんの少ししかできないなどと悲観的に考えてしまうのだ。いつ死んでもいい、いやどう考えようといつかは死ぬ。学び残しや読み残しがあってもいいではないか、それが普通で自然だ。そのことが分かったうえで、勤勉で効率よくなどという矮小で硬直した世界から抜け出して、今という学びの時間をゆったりと楽しむという生き方を求めてはどうか。時間一般などというものはない、私の時間があるだけだ。否、そもそも時間などというものはないのだ。人生は楽しむためにある、とは50歳の頃「養精術」に書いた言葉ではなかった。72歳にもなって私はこんな簡単な理屈も分かっていないのだ。

 生きているというならばナメクジだって生きている。しかしナメクジは自分の生涯の短さを嘆いたりはしない。

 

I君の死に思う。2017-01-28


          剣岳北方稜線より八ッ峰を望む
            2006.8.27(脊髄損傷前)



1月3日の日にI君が亡くなったと元奥さんから電話があった。そういうこともあるかと予想はしていた。12月末倒れているところを介護のヘルパーさんに発見されたが、意識は戻らないまま多臓器不全のような状態で亡くなったらしい。69歳の男の死は、よくある独居老人の孤独死の一つということになるかもしれない。大学時代の友人の一人だった。

そもそもの原因は過度の飲酒によるアルコール中毒だった。それはI君の身心を徹底的に破壊し尽くした。娘さんが二人いたが家庭は崩壊して奥さんとは離婚した。3人とも家を出ていってしまった。I君は弁理士で10名程のスタッフを雇用して手広く特許事務所を営んでいたが、来客を2~3時間待たせるような遅刻も頻繁になった。徐々に顧客は離れスタッフは辞め特許事務所は閉鎖する羽目になった。脳も蝕まれていった。興味はあっても普通は手を出さないネットの出会い系サイトにのめり込み、そこで知り合った女達から金品をむしり取られた。

躰もおかしくなった。知覚は麻痺し煙草の火が足に落ちたことにも気付かず、その火はスリッパから靴下に燃え広がった。足は重篤な火傷になり無菌の集中治療室に入院した。クラブのホステスと再婚したが、生活は虚飾にまみれたものだった。その浪費の果て数億円はあったと思われた財産はあっという間になくなった。そしてその女とも離婚した。

I君は全てを失った。脳を犯され内蔵はボロボロになった老いさらばえた男は、生活保護を受けて独り命をつないだ。その生活がどんなものだったのか想像できない。行政が事務的に火葬し、遺骨の引き取り手もなく相模原の共同墓地に埋葬されたという。

私がここで書きたいことはアルコール中毒の怖さについてではない。I君は自分が蒔いた種とはいえ浪費の果て生活に困ってしまった。何人かの友人知人にお金の無心をしているようなので、Iにはお金を貸さないで欲しいという電話が元の奥さんからあった。I君からそのような申し出は私にはなかった。私を含め彼をよく知る友人にはそのような申し出はしなかったようだ。書きたいのはそのことだ。プライドが許さなかったのか最後の矜持だったのか、親しい友人に無心する落ちぶれた自分の姿は見せなかった、そうすることは耐え難かったのだったのだろう、 ……………… 以上が東京のI君についての話である。

同じ大学時代の友人で同じイニシャルだが別のもう一人のI君は10年程前亡くなった。福岡で弁護士をしていた。従って私とは何かと仕事上で関係も深かったし、時にはお酒を飲む間柄でもあった。I君は普通に仕事をし普通に家庭生活を送り、特に奇異なことは何もなかった。特筆するとしたら、子供さんが4人いたがそのうち一人がダウン症のお子さんだったことと、熱心に九州の古代史を研究していて邪馬台国はどこにあったかなどにユニークな自説をもっていたことぐらいである。私は彼との交友関係は長く続くと思っていた。ところが彼はある日家庭での夕食時、脳梗塞で倒れ入院した。そこからI君の人生はおかしなものになっていった。倒れてからはなぜか私と会おうとしなかった。

脳梗塞のため会話というか話言葉に支障をきたし、退院したが弁護士の仕事はできなくなった。弁護士事務所は閉鎖した。東京に友人が多くいたこともあり、退院してからはよく上京していたという。その頃は仕事の道も絶たれ生活に困るようになっていたようだ。在京の友人達はI君の生活の再建のため尽力したようだが、I君は全くその気がなく、なぜか九州の古代史についての自説を述べるだけだったという。生活しようという気持ちが希薄になったのか、友人達はどうすることもできなかったようだ。福岡に戻っても自分の世界に入り込んだままでやがて離婚し、独り生活保護で露命をつないだ。

特筆することがもう一つあった。I君は住む所を頻繁に変えた。弁護士になってからでも、静岡、札幌、旭川、秋田、東京、横浜、鹿児島、福岡と転々とした。顧客あっての弁護士だから仕事の継続性はどうするのかと傍から心配していた。福岡の次は何処に行くつもりだったのか。かって奥さんが諦めたように話したことがある、Iとは結婚して以来正月休みを家族一緒に過ごしたことがない、Iは一人でヨーロッパ旅行をしていたと。放浪癖とでもいえばいいのだろうか。

50年前学生の時、I君は私に”人間はなぜ考えるのか”と話しかけてきたことがあった。私はたまたまその種の本を読んでいたので、そこに書いてあったことをさも自分の考えのようにして話した。彼は成る程といった顔をして聴いていた。彼は逗子に引っ込んで司法試験の勉強を始めた。のどかな早春のある日、彼を訪ねて山桜を見ながら湘南のなだらかな山道を一緒に歩いた。大言壮語をしない物静かな男だった。遠い過去のことだがつい昨日のことのような気がする。

I君は福岡で行路病者のような死に方をした。その変死体を父親だと確認したのは、現在福岡で弁護士をしているご子息だったという。親子で弁護士事務所をする道はなかったのか、と想像するのは結末が残酷だっただけに苦しい。福岡で生活保護を受けて独りアパートで生きていたならば、なぜひと言私に連絡してくれなかったのかと悔やんでも悔やみきれない。

東京のI君は弁理士、福岡のI君は弁護士、二人とも離婚して生活保護を受け最期は誰にも看取られず一人で死んでいった。私は古稀を過ぎ脊髄損傷で一日のうち2/3はベッドに寝たきりだがまだ我執を捨て切れず生きている。


管賀江留郎「道徳感情はなぜ人を誤らせるのか」を読む。2016-10-11




本書のテーマは冤罪である。本書の表紙の広告の帯に次のように書いてある。

"冤罪、殺人、戦争、テロ、大恐慌。
すべての悲劇の原因は、人間の正しい心だった!
我が身を捨て、無実の少年を死刑から救おうとした刑事。
彼の遺した一冊の書から、人間の本質へ迫る迷宮に迷い込む!"

私だったら上のコピーに更に一行付け加えて次のように書く。
”……… すべての悲劇の原因は、人間の正しい心だった! 
そしてその悲劇をこの世から少しでも無くそうと務めたのも、人間の同じ正しい心だった! ………” と。
本書の本文には「正しい心」という文言はなく「道徳感情」となっている。

悲劇の原因は ”評判に左右される人間の本性” あるいは ”世間の賞賛を求める人間の弱さ” の中にある。これは近年になって(農業が始まったこの一万年位で)人間に芽生えたという付け焼き刃的な性向ではない。人間が類人猿から分岐して進化し現在に至るまで数百万年かかっているが、その時間をかけて築き上げてきた、人間が自らを維持存続させていくために辿り着いた利他的行動のシステム(「間接互恵性」)に深く根ざしている。

利他的行動は多くの動物、例えばハチやアリ、一部の哺乳類などに見られ、「血縁淘汰」で説明されてきた。血縁を超えて利他的行動をするのは人間だけだと考えられていたが、中南米に生息するチスイコウモリは血縁に関係なく利他的行動をとることが分かってきた。チスイコウモリは3日間動物の血を吸わなかったら死ぬという。血を吸うことができたチスイコウモリは、血を吸えなかったチスイコウモリに自分が吸った血を分け与えるという(「互恵的利他主義」)。

この「互恵的利他主義」は自己犠牲的で利他的行動といってよい。自分だけが生き残ればいいという利己的な個体より、仲間に親切な個体は自分が困窮した時に自分が助けた仲間から優先的に助けてもらえる、つまり危険を分散していることになり自己の維持存続に有利になると思われる。一種の保険といえるかもしれない。”情けは人の為ならず” の諺が教える、他人に情けをかけておくと巡り巡って恩恵が自分に戻ってくるという道徳の世界に似ている。

人間が辿り着いた「間接互恵性」はこのような返礼(見返り)をそもそも期待しない。もう二度と会うこともない人に対してもその人が困窮していれば助ける。「互恵的利他主義」より複雑なシステムで、そこで決定的な役割を果たすのが言葉つまり評判(賞賛と非難)である。賞賛はその行為者に精神的な満足をもたらし、かつ長い年月にわたり世間から大事に遇してもらえる可能性が増え、何かとその行為者に有利に働く。

"小さな親切大きなお世話" ではないが、現実には善行と賞賛の関係は複雑に錯綜しており、ここから様々な問題が発生する。善行→賞賛という順序が逆になるとどうなるであろうか。賞賛を得ようとして独裁者が人々のためと称して愚行を繰り返し、人々を悲劇のどん底に突き落とした歴史を我々は数多知っている。しかもこの賞賛を得ようとする欲求には際限がない。賞賛を得ようとする行為が全て否定されるべきではないが、往々にして悲劇をもたらしてきたというのがこれまでの歴史ではなかったか。

それに警告を鳴らし、世間の賞賛を求めるというのではなく ”賞賛に値すること” を行なおうとするのが ”正しい心” のはずである。ところが 心の中では ”賞賛に値する” と信じて行なった行為が、現実には ”非難に値する” 行為になってしまうことがある。自己の利益は他人の利益と一致するとは限らないし、ある他人に良かれと思ってしたことが別の他人に不都合なことをもたらすこともある。この点に自覚的であればいいが、無自覚の場合は悲劇を引き起こしてしまう。

地獄への道は善意で敷き詰められている。悪魔は天使の姿をしてやって来る。

アダム・スミス(1723~1790)は ”美しい計画” に取り憑かれた「システムの人」の危険性を指摘している。これも人間の歴史上、特にこの数百年で顕著に見られた悲劇ではなかったか。私はこのような例として、ナチスによるユダヤ人虐殺、旧日本陸軍の青年将校らによる5・15事件と2・26事件、オウム真理教事件、イスラム国などを想起する。これらに共通しているのは、一見分かりやすく明快な理想を掲げているようであるが、複雑な現実を自らに都合のいいように一面的にしか理解しようとしない粗暴かつ偏狭な思想である。一方の賞賛は他方の非難でもありうるということに無頓着というか全く眼中になく、意識的に無視し切り捨てているのだ。

それではどうすれば悲劇を引き起こさないようにすることができるのだろうか。著者はアダム・スミスのいう「胸中の公平な観察者」にその解答を見出そうとする。「胸中の公平な観察者」とは、例えれば、裁判で原告・被告双方の主張を聴き難事件に判決を下そうとしている公平無私な裁判官の立場に似ている。あるいは、情緒的に興奮している状態から覚めて冷静になり、自他を超えて物事を一歩高い所から俯瞰的に眺めて客観的に判断しようとしているもう一人の自分といってもいい。

人間はこの世に生を受けて様々な経験をする過程で判断に迷い、公平に判断しようとするもう一人の人間を胸中に作り上げてきた。そしてその判断を仰ごうとしてきた。従ってこうしてこの世に我々が生きているということは、胸中に公平な観察者を生み育ててきたということとほぼ同じことであるといってよい。例外はあるが、他人の利益を無視して自己の利益のみを追い求める人間は、この世ではおそらく生存しにくいと思う。

「胸中の公平な観察者」は、あなたの行為が世間の賞賛を得ようとして行なわれた行為であるか、困窮した人を真心から救おうとして行なわれた行為であるかをはっきり区別しようとする。外から見れば見分けがつかないかもしれないが、従って世間の評判は必ずしも正しいとは限らないが、その観察者はあなたの胸中にいてあなたの行為の一部始終を見ておりその動機を知っている、従ってそれが本当に ”賞賛に値する” かどうかを判断できると言えよう。人はもう一人の自分である「胸中の公平な観察者」には嘘がつけない。

しかしその観察者は全知全能の神ではない、場合によっては間違った判断をすることもありうる。そのミスを少なくするのが情報(冤罪で言えば証拠)であるとアダム・スミスはいう。情報が少なければ偏った判断に陥り正しい判断には到達しにくい。情報化社会と言われて久しい、情報が多すぎてかえって判断に迷うなどという人がいるが、「胸中の公平な観察者」は神でも神の化身でもない、情報に従って一歩一歩正しい判断に近づこうとする存在である。何かと理由をつけて "情報公開"  を渋る政治の動きがあるが、この人間社会の成立の根源的な由縁に逆行していると思う。

また昨今の一部の政治家・役人・大企業のトップらの情けない言動を見るにつけ、自らの「胸中の公平な観察者」の声にもっと忠実に耳を傾けて欲しいと願うばかりである。まさかその声に耳をふさいだから、立身出世ができたという訳でもないだろう。

多少脱線し私見も述べたが、進化生物学の最新の知見を取り入れ、以上の核心が第13章「進化によって生まれた道徳感情が冤罪の根源だった」に凝縮して書いてある。しかし読者はそこだけを読んでも分かり難いかもしれない。私は参考書として、堂目卓生著「アダム・スミス「道徳感情論」と「国富論」の世界」(中公新書)を読んだ。内容は深いが理解しやすかったのでお勧めする。

第13章までの章では、昭和16~17年の浜松事件、昭和25年の二俣事件という二つの大量殺人事件を中心に詳述し、それらの事件に関わった刑事、警察、検察、内務省、司法省、最高裁判事、弁護士、法医学の権威、プロファイラー等の思想・行動を戦中戦後の史料を綿密に探索して読み解き、冤罪の根源に迫ろうとしている。

そんな過去のことには興味がない、しかも難しそうなテーマだということで敬遠される方には、記憶に新しいところで袴田事件という強盗殺人放火事件を思いだしてほしい。拷問に近い過酷な取り調べによる自白と捏造された疑いのある証拠により、元プロボクサーの袴田巌さんは犯人とされた。死刑囚となって牢獄に囚われること42年、無罪であることを裁判所もやっと認めて自由の身となり、数年前テレビでも大々的に放送された冤罪事件である。足利事件を思い出された方もいるかもしれない。

冤罪事件は過去のことではなく今日もそして明日も起こりうる。一部の不届き者が引き起こすと言うのであれば話は簡単、それを取り締まればいい。そうではない、冤罪事件は人間の本性に深く根ざしている。冤罪事件は無実の民を断頭台に送り込み、また真犯人を取り逃がすことにより同種の事件の頻発を許してしまうことになる。

袴田事件は昭和41年に静岡県清水市で起こった大量殺人事件であるが、昭和20年代同じ静岡県下で冤罪事件が多発した(幸浦事件、二俣事件、小島事件)。本書の主役の一人であり拷問王と呼ばれた紅林(くればやし)麻雄刑事(1908~1963)が捏造した冤罪であった。袴田事件はこの紅林刑事の薫陶を受けた弟子達による冤罪事件の一つである(島田事件、丸正事件)。

紅林刑事はたいした手柄を挙げた訳でもないのに幸運にも、浜松事件という世間を震撼させた難事件を解決した名刑事という名声を得た。そしてその評判を維持しさらなる賞賛を得ようと、冤罪を次々と作り上げていった。証拠の捏造や拷問などにより罪のない人間を犯人に仕立て上げた、しかもこれらの行為を世のため人のためと信じて疑わなかった。紅林刑事は周囲に気配りのきく部下思いの知的な人であったという。

紅林刑事に連なる検察、裁判官、法医学の教授ら結果として冤罪を作り上げることに加担することになった面々も、一人一人は善良な市民であったろう。それなのに一体どうして冤罪のような世にもおかしなことが起こってしまうのか。人々の日々平穏無事な何気ない日常生活の地続きの大地に、底無し沼のようなパックリと口を開けたどす黒い暗黒の世界が紛れもなく存在しているのだ。本書はその暗黒世界の成立の解明に挑んだのである。

”サイコパス”、”認知バイアス” など書かなければならないことは沢山あるが(私の手に余る、しかし冤罪そして人間を理解するための必須のテーマである)、とりあえず本書(2016年5月初版 洋泉社)をこのブログに取り上げてみた。本書を読まれた方は私の理解が浅薄かつ一知半解であることをたちどころに見抜くであろう。それでもいい、本書は読まれるに値する一冊、宣伝の一助になればいいと思った次第である。

ところで、著者の管賀江留郎氏とは何者であろうか。自らを書庫派と称し国会図書館他で古い文献を漁る日々を送っているというが------。


ベッドに寝てパソコンを楽しむ。2016-09-03

昨年のブログ「指は動かなくても、パソコンは動かせる。」で書いたように、私にとってパソコンは必需品である。しかし、私の場合次の二つのケースでパソコンを使えないことがある。一つは、低血圧で上体を起こしおくことができない時。特に今年の夏は血圧が60~40位の時もあり調子が悪かった。もう一つは、褥瘡(床ずれ)が出来た時。同じ姿勢を長時間続けると仙骨付近にてきめん出来てしまう。いったん出来てしまうと治るのに数か月かかる。いずれも脊髄損傷者がいつも悩まされる症状であり、その時はベッドに寝ているしかない。その時間は長い。





ベッドに寝たままでパソコンを動かすことができないか? せき損センターの医用工学研究部のKさんに相談した。Kさんは私の自宅まで来られ、ベッドの大きさなども考慮して上の写真のように設計してくださった。写真で大体のイメージは分かると思う。新しく、パソコン、アーム、トラックボールの三つをネットで買ったが、17万円程度で済んだ。注意する点を次に挙げておく。

① パソコンは本体とモニター(ディスプレイ、画面)がセパレートになっていること。アームとの相性(止めねじの位置、大きさ、重量の制限)があるので、アームを選んでからモニターを選ぶほうが無難と思う。ノートパソコンは不適。

➁ アームはモニターを支え上下左右前後に移動させ角度を自由に変えるものなので、仕様をネットでよく調べて選ぶほうがよい。私はサンワサプライ(株)の水平多関節液晶モニタアーム(H400 1面)をネットで15500円で買った。使い勝手には満足している。

③ 今まで使っていたトラックボールのボールの動きがよくなかったので買いかえた。ダイヤテック(株)が販売している商品名CST2545SAというトラックボールで、ネットで13500円で買った。以前のトラックボールの価格が60000円、使い勝手もよくなった。

④ アームは移動式のオーバーベッドテーブルに装着している。

上の写真はネットで囲碁を対戦している時のもの。左手でトラックボール(カーソル)を動かして打つ場所を決め、右手でボタンを押している(クリックしている)。相手が外国人の場合も多い。そのほか本を読んだり、NHKオンデマンドを見たり、DVDで映画を見たりと、ベッドに寝ていても楽しく有意義な時間を過ごせるようになった。

「寝たままパソコン」お勧めです。





身体障害者となり落ち込んだか。2016-05-22



      宗像大社沖津宮のある沖ノ島(世界遺産候補)の頂上から
           2003.5.27(脊髄損傷前)



重度の身体障害者となりかなり落ち込んだのではないか、周りの人はそう思っていたようだ。しかし幸運にも私はほとんど落ち込まなかった。その付近のいきさつを書き留めておこうと思う。

4年前のことだ。西鉄の高宮駅の階段で転倒し福岡大学病院の救急に運び込まれた。耳元で家内が呼びかけている、その声でぼんやりと意識が戻った。友達の家で仲間5人で食事会をしていた夜9時頃までの記憶はあるから、5時間くらい意識が飛んでいたことになる。ベッドに寝ている、身体が動かない、首が猛烈に痛い―重篤な怪我をしたとおぼろげながら了解しはじめた。医者が顔の怪我を麻酔なしで縫った。不思議と痛みは感じなかった。

数種のラッパが時々調子外れで鳴っている。自分が病院の救急に運び込まれたことが分かると、当直医が暇をもてあまして楽器の練習をしているのではないかと勝手に思ってしまった。救急車で運ばれてくる患者の容体を医師や看護士にいち早く知らせてスタンバイさせるための合図であると後日分かったが、このラッパのような音は前にも聞いたことがあるなあというデジャブ感があった。

腕が大根のように腫れあがって胴体と皮一枚で繋がっている感じがするが、首が動かないので確かめようがない。大変なことになってしまったようだ。手術は夜が明けてかららしいとなんとなく了解する。手術が終われば事態ははっきりするだろうが、重大な結果であっても受け入れるしかないなあと、朦朧とした意識の中で覚悟しはじめた。

翌日午後遅く手術室に入るとき長男が声をかけてくれた。仕事を休んで来てくれたのだ。5時間の手術が終わり麻酔も解けて意識が戻った。呼吸器をつけている。恐る恐る手足を動かそうとするが全く動かない。。寝返りもできない。ただ首の痛みは消えていた。頸椎骨折による脊髄損傷……これからどうなるのだろうか、ベッドに寝たきりにならなければいいがと思いはじめた。

数日後、呼吸器がとれて喋れるようになった。若い医師が看護士に ”この手の患者の何割かは痰で窒息死する” と話していた。翌日、気管支切開を願い出た、すぐに手術してくれた。これで痰を詰まらせて死ぬことはなくなった。週末、子供3人と家内がそろって見舞いに来ていた。”リハビリを頑張る” 私は自然にそう言った。

1週間位経って精神科の医師が診察に来た。大怪我をすると精神的に落ち込む人が多いという。60歳の時うつ病を発症し治療中である旨を告げた。トレドミンとミラドールという向精神薬と睡眠導入剤を飲んでいたので再度飲むことになった。うつ病は6年目を迎えていて症状は快方に向かっていた。それで友達の所での食事会に参加する気になったのだ。

発症当時はつらかった。私の場合、朝目が覚めた時が最悪で落ち込みのどん底にあった。そこから少しづつ気持ちを持ち上げようとするが、上がりきれない。そのうち夜になりまた悪夢の朝が来る。その繰り返しが3~4年続いた。向精神薬も10種類位いろいろと試してみた。ブラックユーモアに「朝起きて今日も元気だ、薬が美味い。」というのがあるが本当にそれが目標の日々だった。

うつ病の薬は脊髄損傷で入院中の1年間飲み続けた。最初はうつ病が完治していないために飲むのだと思っていたが、だんだん惰性で飲むようになった。手足を動かすリハビリ中心の規則的な入院生活を続けいるうちに、自分がうつ病患者でもあることがぼんやりとしてきた。私は真正のうつ病ではなく仮性のそれ(うつ病もどき)だったのかもしれない。あれ程苦しんだうつ病が大怪我をしたことで何処かへ飛んでいってしまう、そんなことがあるのだろうか。ジュリー(沢田研二)の歌に ”体の傷なら治せるけれど、心の痛手は癒やせしない”(「ときの過ぎゆくままに」阿久悠作詞)というのがあるが、この経験以来必ずしもそうは言えないと思うようになった。

せき損センターで私の担当のK看護士から「脊髄損傷の患者さんは多くの人が落ち込むが、松崎さんはどうして落ち込んでないのですか。」福大病院の時と同じようなことを言われた。「何か秘訣があれば他の患者さんに話をしていただけませんか。」「怪我する前に落ち込んでいました。」納得したかどうかわからない。

リハビリは福大病院にいた時は、主に舌の運動、飲み込み、発声、呼吸の練習をした。せき損センターに移ってからは手足が少しでも動くようにとPT(理学療法士)、OT(作業療法士)の先生が他動的にトレーニングしてくれた。手も足もほとんど動かなかったのだ。ベッドに寝て胸の上で両手を合わせることを目標にした。

入院してから思い出しずっと頭から離れない短歌があった。
     ”うつし世の はかなしごとに ほれぼれと
           遊びしことも 過ぎにけらしも”
    (小泉千樫作  大岡信「折々のうた」岩波新書所収)

読んだ時感動したのだろう、その歌がよみがえってきた。不治の病(おそらく結核)で倒れた中年男性が社会復帰を諦め、療養所の病床で詠んだ歌だ。うつろいゆくこの世で ”はかなしごと” とは何か、 ”ほれぼれと” とあるから恋愛であろう。透明感のある諦観が、”過ぎにけらしも” から伝わってくる。私は我が身を何割かはこの歌に重ねつつも、重ねきれないところにこだわっていた。”遊びしことも 過ぎにけらしも” と詠嘆するには10年早い。物事は始まったばかりでまだ何も終わってない。まだ遊び盛りの年齢ではないか。

私は対抗上拙いが次の歌をせき損センターのベッドの上で作った。
     ”胸の上 リハビリ重ね 右の手で
         いとし左手 撫でさすりけり”
吹っ切れたというか、すっきりしたというか、私はうつ病を克服できるかもしれないと思った。



「我が大地の歌」「鶴」「シャロームの歌」 いい歌ですよ。2016-03-27




                              剣岳より奥大日岳・大日岳を縦走
                                    2003.8.2(脊髄損傷前)



個人的な好き嫌いの話になるが、三つともいい歌です。

①「我が大地の歌」は「あだると山の会」という山の会に入って教えてもらいました。いい山の歌はたくさんありますが私はこの歌が好きです。歌詞(一部)は次のとおり。

" から松  こめつが  針葉樹林
  かもしか  月の輪熊  走る稜線
  そびえ立ち  連なる  我が山々よ
  そびえ立ち  連なる  我が山々よ
  いくたびか春をむかえ
  いくたびか夏をすごし
  いくたびか秋をむかえ
  いくたびか冬をすごし "

高石ともや&ナターシャセブン「我が大地の歌」https://www.youtube.com/watch?v=nLrjqiV8boUで検索できます。

➁怪我して身障者になる前は、仕事の行き帰り車を運転しながらよくラジオを聞いていました。ある時シャンソン特集のようなものが流れていて、妙に耳に残った曲がありましたが、それ以上突き止めようともせずまたいつか出会えればいいと思っていました。渡辺歌子の「古い上着」がその曲です。ネットで再会しました。その関連で「鶴」を知りました。歌詞(一部)は次のとおり。

” 時折 私は思うのだ
 戦いの荒野から帰らぬ兵士達は
 大地に倒れたのではなく
 白い鶴に姿を変えたのだと 
 彼らは今に至るまで飛び続け
 私達に話しかけている
 だから私達はよく悲しげに
 空を見上げては黙りこむのだ
 あ……… ”

渡辺歌子 シャンソン「つる」「古い上着」「カルーソ」https://www.youtube.com/watch?v=S63et5B4cEcで検索できます。CDが欲しい方は 渡辺歌子オフィシャルサイト http://www.utakowatanabe.com/から購入できます。

③ダークダックス「シャロームの歌」https://www.youtube.com/watch?v=VBu7tl0S6AYは別れの歌です。歌詞(一部)は次のとおり。

“ 何処かでまたいつか逢えるさ
 また逢おう また逢おう どこかで
 きれいな思い出 だきしめ
 また逢おう また逢おう どこかで 
 みどりの星二つ 寄り添う
 はなれても はなれても 寄り添う
 何処かでまたいつか逢えるさ
 泣かないで 泣かないで さようなら ”

メロディーが美しく、聴いていると私も69歳の今日までいくつかの別れを経験したことを思い出してしまいます。

④ここで少し脱線しますが、私が好きな歌などという極めて個人的ことを、このブログで書くというのはどういうことであるのかと自問自答してみます。重度の身体障害者になり、生活上のことやいろいろ考えたことなどを発信しかつ交流したいというのが、このブログを始めようと思った動機です。書き始めて約1年経ちますが、書くというのは自分のアリバイづくりではないのかと思うようになってきました。この世にこうして自分が存在している、その存在証明書を自分が自分に発行しているといえば分かってもらえるでしょうか。「この世に存在した。」という証明書は1通あれば足りるというものではありません。どこで何をしてどんなことを考えていたのかというディテイルの寄せ集めがこの私であるとすれば、私的なことをあれこれ書くということにも積極的な意味があると思いはじめてきました。


パソコンで音楽を聴くには、外付けのスピーカーかいいヘッドホンがあったほうがいいです。



デイサービスでの話 (2)2016-01-28


                            涸沢岳より北穂高岳、槍ヶ岳を望む
                                                       2006.5.5(脊髄損傷前)


デイサービスでの話 (1)より続く

Yさん(男性)は山が好きだという。若い時(60年位前)よく登られていたようで私と山の話で盛り上がった。ある時当時の写真を持ってこられた。北アルプスの鹿島槍の山頂に若いYさんが立っている。自慢の写真なのだろう。そして、山小屋である女性と二人同室になり"一夜のアバンチュール"(Yさんの言葉)を楽しんだことを嬉々として小さな声で話された。Yさんはご夫妻で「うぶすな」に来られている。今さら奥さんに聞かれてもどうということはないと思うが、敢えて小さな声で話された時のYさんの顔が忘れられない。Yさんはその時確かに生きていた。

続いて、鹿島槍に登った翌日、穂高に登ったと言われた。えっ?翌日に! 私も北アルプスの主要な山は登っており、地図は大体頭に入っている。翌日に登るのは無理ではないか。「どんなルートで?」思わず尋ねてしまった。しばらく間があって「そんな昔のことは忘れた。」

それからYさんは私と山の話をしなくなった。月日がたち、Yさん夫婦は「うぶすな」に来なくなった。Yさんは足が悪く杖をついていたが、自宅で転倒し亡くなっていた。どんなルートで穂高岳に登ろうとどうでもいいではないか、60年前のことだ。自慢ついでにちょっと口がすべってしまったのかもしれない。私はなぜあんな小賢しいことを言ってしまったのか。なぜ素直に「健脚だったんですね。」と言えなかったのだろう。

昨年夏、皆さんが書いた習字が壁に貼ってあった。"七夕"、"花火" などに混じって奇異なものが二つあった。一つは  "安保法制"   誰が書いたのだろう。もう一つは ”ハルピンの松花江のほとり  すずらん匂う"   95歳のMさんが書いたものだ。Mさんは旧満洲のハルピンの女学校に通い、国際色豊かな当時のその街の思い出をよく話されていた。高校の国語の先生をしていたということで頭脳明晰だ。

山上憶良(万葉集の歌人)はバイリンガルだったという説(百済生まれの渡来人)がありますねと私が話を向けると、たちどころにその歌を一つ口ずさまれた。いろんな人がいる、脱帽。

「今日は木曜日?」「いや、土曜日です。」「土曜日に、なぜ私はここにいるの?」来た! 究極の問いだ。<なぜ私は今ここにいるのか?>  スタッフの人が何というか興味津々で聴いていた。

「おうちの人が申し込まれたのです。」それはそうだろう。「うぶすな」は介護保険のデイサービスの施設だから、土曜日にそこにいるということはケアマネジャーと相談して申し込んだのだろう。しかし、それは嘘ではないが私が期待した返答とは程遠い。学校の試験のように正解が一つということではない。そもそも正解とか不正解とかいう世界ではない。例えれば"事実"と"真実"は似ているがどこかが違う、その違いに無自覚いうことに似ている。

要は相手の心に響くものがあるかどうかだと思う。それであればどんな言い方でもいいと思う。「私と出会うためです。そして、楽しい時間を過ごすのです。」という類の返答を私は期待していた。

高齢で認知症の方は人にもよるが同じことを何度でも言ってくる。病気といえばそれまでだが、学習ということがなく対応するのは大変である。だから家族のためにもデイサービスという施設が必要なのだ。傍から見ていてスタッフの方の献身的な仕事に頭が下がる思いがする。その繰り返しの日常に何があるか。何もない。その日常しかない。いや、その日常がある。私はデイサービスでのその日常の中に咲いたいくつかの花を見た、その花の話を書いたつもりだ。

デイサービスでの話 (1)2016-01-28


                           冬の九重       2004.1.31(脊髄損傷前)



私は朝から夕方まで週二日、自宅近くの「うぶすな」というデイサービスに通っている。デイサービスに通う理由は二つある。一つは、前のブログ「私はあと何年生きるのだろうかー脊髄損傷者の余命」にも書いたように、私は身体障害者1級で手足がほとんど動かず寝返りもできない。自分一人では日常生活が何もできない体になった。特に排泄の処理と入浴は時間もかかり自宅では難しい面があるので、デイサービスでお世話になることにした。私のような重症の身体障害者を受け入れてくれるデイサービスの施設は少ないが、「うぶすな」は快く受け入れてくれた。

二つは、私は24時間介護が必要なので、私を介護する者は心身の負担が並大抵ではない。妻が一手に引き受けて介護している。私がデイサービスに行くとその時間は妻の休養と気晴らしになると思った。

デイサービスは介護保険を使っている。私は介護保険は要介護度5で、金額で言えばひと月約36万円の枠がある。国が8割、本人が2割の負担割合である。昨年の夏までは1割だったが、なにがしか所得がある者は倍になった。従って、減免措置はあるが原則私は月72000円、年間で約86万円支払うことになった。私はこの介護保険の枠の中で、デイサービス(朝から夕方まで、週2日)、ショートステイ(1泊2日、月1回)、車椅子やベッドなどの福祉用具のレンタル、ヘルパーさんによる身体介護(毎日朝30分と夕方30分、着替え・身体拭き・ベッド車椅子間の移動など)の四つをお願いしている。

このほかに健康保険がある。私は重度障害者ということで健康保険の適用がある医療はほとんど無料(1医療機関ひと月500円)である。これにより病医院での治療・入院・リハビリ等(リハビリは飯塚のせき損センターで週2日、1回3~4時間)、訪問マッサージ(週5~6日、1回30分)、訪問看護(週2日、1回1時間)の三つをお願いしている。

さてデイサービスでの話であるが、「うぶすな」に通うようになってまもなく3年になる。利用者が一日10人強(ほとんどが80~90代の女性で認知症の方が多い)、スタッフが5~6人というこじんまりした施設である。最初の日、「66歳です。」と自己紹介すると、「80半ばかと思ってました。」、「いや私は30歳位と思う。」という強烈な言葉が返ってきた。「50代に見えますよ。」程度のお世辞ならこちらも受け答えする言葉もあるが、それぞれ本当にそう思っているようである。

しばらくたったある日、昼食がスパゲティとパンだった。Nさんはフォークでパンを突き刺して、顔の前でじっと見て食べようとしない。「どうして食べないのですか。」「パンがカワイイ。」「ええっ!!!」パンは食物という私の観念では太刀打ちできそうにない。「パンはカワイガル物ではなくて、食べる物ですよ。」などとN
さんに知ったかぶりで言うほど私は偉い人間ではない。

Nさんはご主人と二人暮らし、家で転んで足を骨折してしまった。数か月後退院し再び「うぶすな」に戻ってきた。両足とも太ももから下が切断され、身長が1m程に短くなっていた。少し大きめのお人形といった感じである。前と違ってほとんど喋らなくなっていた。それからしばらくしてご主人が一人で家にいる時、火事で亡くなってしまった。ご主人も軽い認知症だったようで、おそらく失火だったのだろう。Nさん夫婦が住んでいた家は今はなく空き地になっている。Nさんは24時間対応の医療系の施設に移ってしまった。あの時、パンのどんなところがカワイイのか、聞いておくべきだった。

朝9時半ごろ、デイサービスの小型バスが私の家に迎えに来る。隣の家の庭にバラの花が咲いている。既にバスに乗っていたSさんいわく「アジサイがきれいですね。」「Sさん、あの花はアジサイではなくてバラですよ。」その押し問答のような繰り返しが数回続いた後、Sさんいわく「菊の花はきれいですね。」私は分からなくなってきた。

「うぶすな」の建物と道路を隔てて真向いの家の庭にアジサイが咲いている。「Sさん、アジサイが咲いてますよ。」Sさんは無反応だった。

私の隣の家の庭に咲いている花は、バラかアジサイかはたまた菊か、多くの人はバラと言うと思うが、Sさんがそれをアジサイと言って何か不都合なことが起こるであろうか。時として菊と言って何が悪かろう。Sさんの目に映り香りを放っているその花を、Sさんが愛でればそれでいいだけの話ではないか。名前が分からない花は無数にある。翻って、あれはバラだと言い張った私はそもそも何を主張したのだろうか。私は自分が何か大きな勘違いをしているような気分になった。いや、間違いなく私は大きな勘違いをしている。それは認知症の老人を相手にまともに対応してどうするというような俗なことではない。もっと根源的なことだ。


デイサービスでの話 (2)    に続く