博多祇園山笠を楽しんで・・・「いい人の集まり」考(1)2015-08-10

(写真の説明)
           博多祇園山笠一番山・・・大黒流           平塚直樹氏撮影


                        
                                                 追い山ならし       



博多祇園山笠の舁き山(かきやま)には七つの流れがある(八番山の上川端通りは櫛田神社の清道入だけ)。私が大黒流の川端から参加するようになって30年近くになる。大黒流は今年は7年に一回の一番山である。大黒流は12の町から成り立っており、12年に一回当番町がめぐってくる。今年は川端が当番町、従って一番山で当番町という84年に一回の年にあたる。

私は脊髄を損傷するまでは、見送り(山笠の後半部)の右肩の二番台下ないし三番台下という場所に入って山笠を舁いていた。舁き山は重さ約1トン、四つ柱の上に組立られているが、その柱の下部は分厚い鉄で保護されている。木の柱の足が鉄の靴を履いている格好である。舁き山は時速約10㎞で地面よりわずかに浮き上がって走る。時々道路の地面に接触する。すると鉄とコンクリートの摩擦で花火のような火花が線となって起こる。二(三)番台下からはこれが真下によく見えた。その花火を見ながら山笠を舁いてきた。


                                大黒流 舁き山前に集合


私は30代半ばで福岡に住むようになった。それまでは18歳まで長崎、それから東京で暮らしてきた。住んでみると福岡の町が気に入った。仕事の関係で福岡を離れることもなさそう、徐々に地元の祭に出たい気持ちが高じてきた。大黒流の町内には住んではいなかったが、知り合いを通じて山笠に入れてもらった。

山笠は純粋に体育会系の祭なので、あとは体力づくりである。仕事が終わってから、天神のソラリアスポーツに週2~3回のペースで通いはじめた。主にマシンでランニングをした。10kmを42分で走れるようになった。するとランニングが面白くなり、ソラリアスポーツのマラソンの練習チーム(10人弱)に入れてもらった。週1回大濠公園のランニングコースでNTTのマラソン選手が教えてくれた。私は速いわけではないが、若い人たちに混じってマラソンの真似事をするのが楽しかった。指宿菜の花マラソンや阿蘇のウルトラマラソンなどにも出た。家族で各地のマラソン大会にも出た。けっこうマラソンにはまり込んでしまった。


                                   お汐井とり(箱崎宮)



それから数年後、左目が網膜裂孔ということで見えなくなった。手術して視力は回復したが視野は三分の二程に狭くなった。医者からマラソンは身体に良くないのでやめるように言われた。考えてみると、42.195㎞を走ることは人間の普通の生活には必要ないし、そもそも人間は動物としてそのように長く走るようにはできていない。戦争の軍事的必要性の遺物がスポーツ化したものである。これは何もマラソンに限ったことではない。いいとか悪いとかの問題ではないが、かなりのスポーツがそういう経歴をもっている。医者のアドバイスに従ってマラソンをやめた。

マラソンの代わりにウォーキングをはじめた。夕食後地図を片手に住んでいる筑紫野市の町を歩き回った。しばらく続けたが物足りない。ウォーキングをやめて、学生時代少しかじったことのある山登りを再開することにした。50代のはじめの頃のことである、以後登山にのめり込んでいった。山笠は目が悪くなった時も休むことなく、60歳までは無遅刻無欠席で続けた。これが脊髄損傷前までの山笠から始まった私のアウトドアライフである。


                     追い山   一番山なので櫛田神社の清道で祝い目出度を唄う。
                     朝がまだ明けていない。


川端の町内に住んでいないで山笠に出ているのは私だけではないが、様々な人間関係や祭のしきたりの上で、何かと不安な気持ちを抱えていた。そこでIさん、Kさんを中心にして、そういう人達で「山のぼせ会」という私的な集まりを作った。会社の役員・サラリーマン・学校の先生・ホテルマン・工務店経営・・・など職種はいろいろ、町内に住んでいないが山笠が好きだという面々である。「山のぼせ会」を作って20年以上になる、集まってきたのは延べ30人になるだろうか。町内に住んでいないということで肩身の狭い思いをすることもなく、町内の人達とも融和的な関係を続けてきた。「山のぼせ会」の古参メンバーはほとんどが台上がりも経験している。


今の私は車椅子なので山を舁くことはできないが、7月13日の集団山見せの後の直会(なおらい)に参加させてもらった。一番山なので県知事と市長も直会に参加した。その時の記念写真が下の写真である。




直会の後、恒例の「山のぼせ会」の飲み会をした、20人近くが集まった。利害関係はない、威張る人はいない、出しゃばる人もいない、そんなことは野暮でかっこ悪い。祭の時は誰も名刺などめったに出さない、そんなことをするのは粋ではないからである。そこに属しているだけで心地よいと感じるだけでいい、「山のぼせ会」はそんないい人の集まりである。

福岡は私が生まれ育った町でもなく、学生時代を過ごした町でもない、30代半ばで住み始めた町である。地縁血縁何もない。私は会社勤めのサラリーマンのように組織に属した人間でもない。公認会計士・税理士という自由職業人といえばかっこいいが、ただの零細な一人事業主にすぎない。福岡の町で人を知ることによってしか生きていくことができない立場にあった。従って、人に誘われるままいろんな集まりには臆せず参加してきた。いろんな人に出会った。

いつの頃からか、私の頭の中に「いい人の集まり」という言葉が生まれた、そしてどっかと居座るようになった。研鑚型・勉強会型・同好会型・・・いろいろな集まりに今までに延べ10いくつかは参加しただろう。しかしすべてが私にフィットしたわけではない。「いい人の集まり」というフィルターでふるいをかけてみると、そこには共通するものがあった。朱に交われば赤くなるというが、赤く染まってもいい、いや赤く染まりたいと思わせるものがそういう集まりにはあった。人間関係の最も原初的なものである。「いい人」とか「朱・赤」とかしか表現できないようなものだが、私はそれを確かに実感した。「いい人の集まり」が即「いい社会」になるわけではないが、人間関係とか集団と個人の関係をここを起点に考えはじめた。

山笠から始まった話が長くなった。続きは、「いい人の集まり」考(2)としていつか書こう。


コメント

_ 寺子屋のお師匠 ししちゃんです ― 2015-08-18 21:37

 今晩は。力強い文章に思わず引き込まれて読みました。
さて,何年前だったでしょうか。のぼせ会をハミキン王子の店,南区の地鶏や「鳥森」でやったときのこと覚えていらっしゃるでしょうか? まさしく「いい人の集まり」であるのぼせ会のことを「本にでもしたいね。」と先生が言われたことです。
私が書いた文章が載った本を息子さんにプレゼントした後のことでしたので,先生から「のぼせ会のことを本に書いてくれ。」と言われました。「面白おかしく書けたら良いな。」と思いつつも,どの部分をどう書いて良いのか分からず,10年近く経ちました。どうにかして,この面白い人間関係を形にできないか,本のようにできないかと考えた結果が,あの砕けた内容の名簿になったのです。先生のあの言葉が,実は名簿づくりを始めたきっかけでした。
 しかし,私の中ではアレが限界です。昔からのいろいろな楽しいエピソードを先生の文章で書いて下さい。昔を知らない者が「へえ,そんなことがあったのかあ。」とか,「○○氏のエピソード」なんかも楽しそうです。
 今年度版のDVDも作成中です。完成まで今しばらくお待ち下さい。

_ しんかい ― 2015-08-20 08:12

長法被がお似合いですね。しばらく書き込みがありませんでしたが、7月からピッチが上がっていますね。

_ (未記入) ― 2015-08-20 17:43

山笠ブログ拝見させて頂きました!
男性に産まれて羨ましい限りです!
山笠参加してみたいです!
また、お家にお邪魔しまぁ~す(*^^*)

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