I君の死に思う。2017-01-28


          剣岳北方稜線より八ッ峰を望む
            2006.8.27(脊髄損傷前)



1月3日の日にI君が亡くなったと元奥さんから電話があった。そういうこともあるかと予想はしていた。12月末倒れているところを介護のヘルパーさんに発見されたが、意識は戻らないまま多臓器不全のような状態で亡くなったらしい。69歳の男の死は、よくある独居老人の孤独死の一つということになるかもしれない。大学時代の友人の一人だった。

そもそもの原因は過度の飲酒によるアルコール中毒だった。それはI君の身心を徹底的に破壊し尽くした。娘さんが二人いたが家庭は崩壊して奥さんとは離婚した。3人とも家を出ていってしまった。I君は弁理士で10名程のスタッフを雇用して手広く特許事務所を営んでいたが、来客を2~3時間待たせるような遅刻も頻繁になった。徐々に顧客は離れスタッフは辞め特許事務所は閉鎖する羽目になった。脳も蝕まれていった。興味はあっても普通は手を出さないネットの出会い系サイトにのめり込み、そこで知り合った女達から金品をむしり取られた。

躰もおかしくなった。知覚は麻痺し煙草の火が足に落ちたことにも気付かず、その火はスリッパから靴下に燃え広がった。足は重篤な火傷になり無菌の集中治療室に入院した。クラブのホステスと再婚したが、生活は虚飾にまみれたものだった。その浪費の果て数億円はあったと思われた財産はあっという間になくなった。そしてその女とも離婚した。

I君は全てを失った。脳を犯され内蔵はボロボロになった老いさらばえた男は、生活保護を受けて独り命をつないだ。その生活がどんなものだったのか想像できない。行政が事務的に火葬し、遺骨の引き取り手もなく相模原の共同墓地に埋葬されたという。

私がここで書きたいことはアルコール中毒の怖さについてではない。I君は自分が蒔いた種とはいえ浪費の果て生活に困ってしまった。何人かの友人知人にお金の無心をしているようなので、Iにはお金を貸さないで欲しいという電話が元の奥さんからあった。I君からそのような申し出は私にはなかった。私を含め彼をよく知る友人にはそのような申し出はしなかったようだ。書きたいのはそのことだ。プライドが許さなかったのか最後の矜持だったのか、親しい友人に無心する落ちぶれた自分の姿は見せなかった、そうすることは耐え難かったのだったのだろう、 ……………… 以上が東京のI君についての話である。

同じ大学時代の友人で同じイニシャルだが別のもう一人のI君は10年程前亡くなった。福岡で弁護士をしていた。従って私とは何かと仕事上で関係も深かったし、時にはお酒を飲む間柄でもあった。I君は普通に仕事をし普通に家庭生活を送り、特に奇異なことは何もなかった。特筆するとしたら、子供さんが4人いたがそのうち一人がダウン症のお子さんだったことと、熱心に九州の古代史を研究していて邪馬台国はどこにあったかなどにユニークな自説をもっていたことぐらいである。私は彼との交友関係は長く続くと思っていた。ところが彼はある日家庭での夕食時、脳梗塞で倒れ入院した。そこからI君の人生はおかしなものになっていった。倒れてからはなぜか私と会おうとしなかった。

脳梗塞のため会話というか話言葉に支障をきたし、退院したが弁護士の仕事はできなくなった。弁護士事務所は閉鎖した。東京に友人が多くいたこともあり、退院してからはよく上京していたという。その頃は仕事の道も絶たれ生活に困るようになっていたようだ。在京の友人達はI君の生活の再建のため尽力したようだが、I君は全くその気がなく、なぜか九州の古代史についての自説を述べるだけだったという。生活しようという気持ちが希薄になったのか、友人達はどうすることもできなかったようだ。福岡に戻っても自分の世界に入り込んだままでやがて離婚し、独り生活保護で露命をつないだ。

特筆することがもう一つあった。I君は住む所を頻繁に変えた。弁護士になってからでも、静岡、札幌、旭川、秋田、東京、横浜、鹿児島、福岡と転々とした。顧客あっての弁護士だから仕事の継続性はどうするのかと傍から心配していた。福岡の次は何処に行くつもりだったのか。かって奥さんが諦めたように話したことがある、Iとは結婚して以来正月休みを家族一緒に過ごしたことがない、Iは一人でヨーロッパ旅行をしていたと。放浪癖とでもいえばいいのだろうか。

50年前学生の時、I君は私に”人間はなぜ考えるのか”と話しかけてきたことがあった。私はたまたまその種の本を読んでいたので、そこに書いてあったことをさも自分の考えのようにして話した。彼は成る程といった顔をして聴いていた。彼は逗子に引っ込んで司法試験の勉強を始めた。のどかな早春のある日、彼を訪ねて山桜を見ながら湘南のなだらかな山道を一緒に歩いた。大言壮語をしない物静かな男だった。遠い過去のことだがつい昨日のことのような気がする。

I君は福岡で行路病者のような死に方をした。その変死体を父親だと確認したのは、現在福岡で弁護士をしているご子息だったという。親子で弁護士事務所をする道はなかったのか、と想像するのは結末が残酷だっただけに苦しい。福岡で生活保護を受けて独りアパートで生きていたならば、なぜひと言私に連絡してくれなかったのかと悔やんでも悔やみきれない。

東京のI君は弁理士、福岡のI君は弁護士、二人とも離婚して生活保護を受け最期は誰にも看取られず一人で死んでいった。私は古稀を過ぎ脊髄損傷で一日のうち2/3はベッドに寝たきりだがまだ我執を捨て切れず生きている。