私って誰? ………養精術(1)2019-08-18


           トリカブトの群落(裏剱、池の平小屋付近)
                   2006.08.26(脊髄損傷前)



 人は生きていくため様々な局面で色々と考えごとをする。その数多の考えごとを収斂すると、共通に一つのことが浮かび上がってくる。考えごとをしているのは誰であるか? 逆照射すると ”考える私” が浮かび上がってくる。この ”私” は全ての局面に主体として共通に存在している。さて、このような ”私” とは何者であるか? どのようにとらえたらいいのか?

 問う主体は問われる客体でもある。問われる客体はこの世で何かを考え何かをしようとしている。そして遂にはその射程に問う主体をとらえる。蛇が己の尾を飲み込もうとしている。その奇っ怪な姿が人間である。この人間の理解が物事を考える出発点である。ここには主体を客体として問う構図がある。しかし種々の物事の解答があるわけではない、問いをどのように発したらいいのかについての示唆を与えるだけである。この示唆は極めて重要である。

 前にも書いたが、アダム・スミスの「道徳感情論」はこの主体と客体の関係を詳述している。この本の副題は次の通り、「人間がまず隣人の、そして次に自分自身の行為や特徴を、自然に判断する際の原動力を分析するための論考」である。 あるいはその解説書、堂目卓生著「アダム・スミス「道徳感情論」と「国富論」の世界」(中公新書)でもよい。精読すると頭が整理される。

 この世で何を考え何をしようとしているのか。誰が?…………この私がである。この私が何かを考え何かをしようとしている、それ以外に私はない。そういうことをしようとしているのがこの私にほかならない。当たり前のことをいっているようであるが、私が20歳代で獲得した ”私とは何者であるか” を定義した貴重な哲学である。

 当時の学生の常識的な風潮であった「戦後民主主義」と「教養主義」にひれ伏していた私は、「何故そう考えるのか?」というO先輩の問いかけに曖昧な返答しかできなかった。そのことを正面から受け止めた私は、真剣に考えていくうちに分からなくなり徐々に脆くも崩れ落ちた。そしてその果てに別の自分を発見した。

 具体的に何かを考え何かをしようとしている私は、無色透明な抽象的な私ではなく、これまでの世の中の歴史に色付けされた私、歴史を纏っている私である。これが新たな私の発見であり、歴史というものと私との最初の出会いでもあった。私が学生であった1960年代後半とは、そういうことを問題として問うことが普通の時代であった。

 一般に人は我が身が歴史を纏っているということを自覚していない。魚が水の中で生きているのが不思議でも何でもないことと似ている。私の場合は、「戦後民主主義」と「教養主義」の怪しさを感じとり、幾分か批判的に対象化できたと思っている。それ以来この纏っているものから脱げ出したいと思っているが、なかなか容易には脱皮できないでいる。私にとって歴史とはそういうものである、従って私が問題にする歴史は常に現代史である。

 どんな時でも「何故そうするのか?」と問うことが常態化している私は、例えば「それは私の趣味です」というようないい方には敏感に反応して納得しない。そこには趣味という客体だけが強調されていて、あなたという主体との関係が見えてこないからである。

 趣味という一見誰にでも分かりやすい、しかしその実よく考えると何を言っているのかよく分からない単語に逃げ込んで、無意識に思考停止になっているように見えてしまう。「何故それはあなたの趣味なのか?」と重ねて問うことはしない。しつこいと嫌われるからだが、実はその答えがほとんど用意されていないからでもある。

 それは趣味を道楽と言い換えて同じ事である。そのような多元的で固定観念の固まりのような単語を言い放って物事を終わりにしてはいけない。禅問答的というか、堂々巡りというか、同義反復というか、肝腎なことが何も伝わってこない。

 そのことがあなたを捕らえて放さない魅力を、きっかけから思い出しては反芻しアレコレと考え、整理されないままでいいから別の言葉で別の言い方で、とつとつと語ろうとすることである。そこにはおそらくあなただけのストーリーがあるのだと思う。そういうストーリーを語る以外に、「何故そうするのか?」という問いに対するまともな答え方があるだろうか。人が自分の何かを他人に伝えることとはそういうことだと思う。

 「何故あなたは現代史を問題にするのか?」という問いを予想してあらかじめ答えておいた。単に歴史が好きだからというような答え方が、私にはありっこないというのがお分かりいただけた思う。私にも私なりのストーリーがあるのだ。

 主体と乖離した(主体とのストーリーがない)客体を問題にしても、そこにあるのは空虚な言葉しか発しえない主体である。悲しいかな!そこには救い難い退廃しかない。そして実はよく観察すると、努力、勤勉、実直などのかなりの部分が、残念ながら無意識にとはいうもののこの退廃の入口にあるか退廃そのものである。「何故そうなのか?」の問い直しがなされていないためである。

 自分の人生を粗末に扱ってはいけない。もしかするとあなたは、あなたの中の他人という別の人間の人生を儀式として代行しているに過ぎないかもしれない。その他人とはこの世の種々の固定観念が凝縮し人格化した化け物で、あなたに成りすましている。「何故そう考えるのか? 何故そうなのか?」と問えば、その他人は溶解するか逃げ出してしまう。こうしてあなたは本当のあなたの人生を生きることができる。そしてあなたを今までとは違う新たな世界に案内すること必定である。