天拝山のあの道この道………養精術(2) ― 2019-10-01
オンネトー(雌阿寒岳の麓) 2003.07.05(脊髄損傷前)
3年前のブログ「身体障害者となり落ち込んだか。」で、ほとんど落ち込まなかったと書いた。それは怪我して当座のことだったが、それから7年半が経った。7年半といえばそこそこいろんな事があってもおかしくない年月だが、私は同じ仲間の脊髄損傷者と比べると、併発する病気(肺炎、腸閉塞、褥瘡、尿路感染など)の発症も少なく、割と規則的で平穏無事な生活を送っきたといえる。従って心の持ちようも安定して推移したと思う。
自慢するわけではないが、また自慢できるようなものでもないが、ここまでに至る心の持ちようを振り返って、ここに書き留めておきたいと思う。同じような障害者の目にとまって参考になれば幸いであり、また書き留めることでこれからの私自身の生き方の道しるべとして役立てるためでもある。
そうは思ったものの、実は恥ずかしい気持が強い。裏にしまっている心の内を人様の目に晒すことは、普通はやらないことである。自分の心の内をやたらさらけ出す人は ”つまらない人間” だと、何かの本に書いてあった。やはり心の内は伏せておくのが常識というものだろうと思う。
だが、私は私自身のためにあえて書き残しておきたいと思う。自分は ”つまらない人間” だと宣伝しているようなものかもしれないが、まあそれでもいい。思い起こしてみれば、このブログを書くということは自分の存在証明書の発行作業であり、それを自分が読んで「嗚呼!まだ俺は生きている」と確認するという繰り返しのためでもあった。だから私は自分の心の内もこのブログに書き、そして自分で読み返すのだ。
私が自分自身にこの7年半でつぶやいた言葉を思い出して列挙してみる。
[大学病院の救急に運ばれた。5時間位の意識不明から覚めた。大怪我をして運ばれたようだ。とにかく首が猛烈に痛い。躰は全く動かない。頭は大混乱、何をどう考えたらいいのか皆目わからない。]
”この私が大怪我をしたなんて何かの間違いではないか、この私の身に限ってそんなことが起るなんてあり得ない。夢に違いない。目が覚めたらまたいつもの日常が始まっているだろう。夢であって欲しい。” (しかし、そのいつもの日常は始まらなかった。)
” 大変な怪我をしたようだが、果たしてどの程度の怪我だろうか。まあ、今は手術が済むまで色々心配してもしょうがない、なるようにしかならない。大怪我だったとしても、自分の運命を引き受けるしかない。静かに明日を待とう。”
” 死ぬわけではない。どんなになろうが生きていければそれでいい。そう思おう。”
[1週間位経った。]
” 両手両足が完全麻痺でほとんど動かない。寝返りもできない。電動車椅子にはなんとか乗れるそうだ。ベッドに24時間寝たきりにならなくてよかった。しゃべることには不自由はなさそうだ。だが、一体これからどうなるのだろうか?”
[2週間位経った。]
” 若い頃からの私の今までを考えれば、この程度で落ち込むようには私の心は出来ていないはずだ。これまで心がつぶれそうになったことは何度もあった。しかしその都度、時間はかかったがなんとか克服してきた。だからたいていの逆境には耐えることができるようになっている。そのたくましさを求めての今までの人生だったではないか。大したことはない、なんとかなる。”
[せき損センターに移り、リハビリに励む。しかし、腕は10㎝位しか動かない。怪我して半年位経った頃。]
” うつしよの はかなしごとに ほれぼれと
遊びしことも 過ぎにけらしも (古泉千樫作)
この短歌に刺激され対抗上、入院中の病院のベッドの上で次の短歌を作った。作り終えた時、何か憑きものが落ちた気がした。
胸の上 リハビリ重ね 右の手で
いとし左手 撫でさすりけり ”
[1年後、退院してから]
” 今までは健常者、これからは障害者、二つの違った人生を体験できる。健常者だったら気付かない考え方ができるかもしれないし、障害者だから味わえる喜びがあるかもしれない。いや、きっとあるだろう。貴重な体験ができる人生だ。”
” 怪我する前のことだが、私は中高年の山の会(あだると山の会)で登山を楽しんだ。麓から一歩一歩フーフー言いながら登り、疲れたら休憩して吹き出た汗を拭き、喉を水で潤す。それを何回も繰り返しやっと山頂に達する。だからこそ、登頂した喜びを感じられたのだ。ヘリコプターで連れて来られたら、こういう喜びは味わえないだろう。
足が動かない、残念だがもうこの喜びは味わえない。この喜びと似た喜びはないものだろうか?。
目的を持って読書をする、何冊も何冊も読書をする。すると山を登っている感じがしないだろうか。小さなピークが見えないだろうか。稜線とそれに連なる主峰を仰ぎ見ることはできないだろうか。人間が築き上げた叡智がどういう山河なのか、踏破できなくてもせめて展望できる所まで歩けないだろうか。よし、目的を持って読書をしよう。”
[怪我して2年後位]
” 人生の後半で障害者になった、そんな私だからこそ世の中に何か発信できることがあると思う。じっくり考えてブログで発信しよう。”
[怪我して4~5年後位]
” これまでは人との会話が苦手だった。相手の話をじっくり聞くのも苦手だったし、その話を引き取って自分の感想や考えを述べ、話を続けることも下手だった。努力して上手な聞き手&上手な話し手になろう。そのためには会話の内容が問題だ、読書の量を増やそう。”
” 障害者になって人と会う回数がめっきり減った。入ってくる情報も少なくなった。知的興奮の機会もほとんどない。放送大学の大学生になり、広範囲に学び直そう。そこから連想ゲーム的に自分の知的世界を広げよう。”
天神さまの径(気分によっては、石楠花谷コース)から主稜線上の最高点(295メートル、地図を見ての私の判断)を越え、竹林コースを往復し地蔵川源流コースを下る。九州自然歩道をまた登り返し主稜線と出会い、向きを変えて天拝山の山頂に戻る。眼下に広がる福岡の街を展望し、正面登山道を下りる。
足は動かない、そんなことは大したことではない。私は明日も天拝山に登る。” (天拝山のあの道この道)
上に書いた青字の部分は読み返してみると、意識的にそうしたわけではないが幸いにもポジティブでプラス志向が強い。私の周りにいた脊髄損傷者を思い返してみると、私のように恵まれている人ばかりではなかった。肺炎を併発し亡くなった人がいた。別の施設に移ったが、リハビリがうまくいかないで躰が固まったままになり、ベッドに寝たきりになった人がいた。
また、経済的に困窮し同じ脊髄損傷の仲間からお金を借りて返済できず、人間関係も破綻しとうとうリハビリにも来なくなった人がいた。私は続けられる仕事(公認会計士・税理士)があって経済的には助かった。経済的に困窮し埋もれてしまう人は予想以上に多いと思う。ケアマネジャーの制度が障害者の隅々まで普及し十分に機能することを願う。
私が知っている中で多いのが、離婚というかはっきりいえば配偶者(或いは恋人)から見放された人、配偶者が逃げ出してしまった人である。配偶者にも自分の人生がある。手足が動かずベッドに寝たきりになったような人間の面倒を、あなたが一生見なさいとは誰も言えない。逃げ出してしまう人の胸の内は分かりすぎる程分かる。去った人間がいて、残された人間がいた、両者ともにつらい。人生をこれきしであきらめてはいけないと傍ら願うばかりである。
また、経済的に困窮し同じ脊髄損傷の仲間からお金を借りて返済できず、人間関係も破綻しとうとうリハビリにも来なくなった人がいた。私は続けられる仕事(公認会計士・税理士)があって経済的には助かった。経済的に困窮し埋もれてしまう人は予想以上に多いと思う。ケアマネジャーの制度が障害者の隅々まで普及し十分に機能することを願う。
私が知っている中で多いのが、離婚というかはっきりいえば配偶者(或いは恋人)から見放された人、配偶者が逃げ出してしまった人である。配偶者にも自分の人生がある。手足が動かずベッドに寝たきりになったような人間の面倒を、あなたが一生見なさいとは誰も言えない。逃げ出してしまう人の胸の内は分かりすぎる程分かる。去った人間がいて、残された人間がいた、両者ともにつらい。人生をこれきしであきらめてはいけないと傍ら願うばかりである。
あらためて思うことはやはり言葉だと思う。その局面その局面での言葉の発見だと思う。しかしすぐには言葉は発見できない。言葉を発見することはそうたやすいことではない。落ち込みが深ければ深いほど、言葉の発見には長い時間がかかる。私の経験では落ち込んでから1年くらいかかることはざらであった。それ以上長いこともあった。
言葉の発見という云い方がわかりにくければ、言葉を練り上げる、或いはストーリーを作ると云ってもよい。言葉が見つからない、その時間は本当につらい。その忍耐の果てに自分を元気づける言葉はあるだろうか、自分を救う言葉はあるだろうか、あって欲しい。その言葉を求める孤独な営為は報われるだろうか、報われて欲しい、たとえどれだけの時間がかかろうとも。
練り上げる言葉はワンセンテンスの場合もあるし、一文章の場合もあるし、それ以上長い場合もある。ストーリーになることもある。私の経験上はあまり長くならず、そぎ落として簡潔に表現する方がよいと思う。
例えば、私が40歳頃落ち込んだ時、練り上げた言葉は「人間は可変多面体」というものだった。ここでは意味は説明しない、他人のために作ったのではない。私一人が分かればいい、その言葉で私は救われ励まされたのだから。また、自分の人生になぞらえたあるストーリーを作り、自分が森繁久弥のような名優になったつもりで心の中で何度も演じ、そうしているうちに気分が変わり落ち込みから生還したこともあった。
落ち込んだままで言葉が見つかりそうにない場合はどうするか。一人悪戦苦闘して再起不能で駄目になってしまうより、精神科か心療内科を受診することを勧める。睡眠をとり、少しでも気持が持ち上がるように向精神薬に頼る方がよい。私もうつ病の時はそうした。これまで書いてきたことと矛盾するようだが、融通のきかない頑固な精神主義はよくない。
書きながらこのブログは少しづつ支離滅裂になってきているかもしれない。何回も書いたことだがここで私が書くということは、自分がこの世にこうして生きているという、自分自身に宛てた存在証明書の発行作業だ。一人で演じる一人作家の一人読者、この芝居を私は気に入っている。
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