佐藤賢一「オクシタ二ア」 他を読む。(2)2019-05-11



   犬が岳~求菩提山(福岡)の林間の登山道   2005.05.08(脊髄損傷前)



(1)から続く。

 <問2>は、<問1>の影に隠れて見えないように思わえる。しかし、眼をじっと凝らして見ようとすると見える。物事を皮相的にしか見ない人には見えない、物事を根源的に見ようとする人には見える。<問2>は、種明かしされるとなんだそんな事かということになる。

 ドミニコ会の修道士たちは、異端審問官として長きにわたり異端派の人々に残酷な拷問を加え、嘘であってもでっちあげて自白とし火刑に処していった。魔女裁判でも然りである。正統派のキリスト教を守り、その道から外れた異端派を正しい教えなるものに改宗させることは、全く正しいこととして信じて疑わない。その己の傲慢さにも微塵も気づかない。そのための嘘も拷問も殺人も許されて正しい行為と信じる。本人は正しいことをし正しい生き方をしていると胸を張る…………神に仕える者として。

 ドミニコ会の修道士達はどうして自らの過ちに気がつかなかったのだろうか、これが<問2>である。自らの心の中からそして同じ主義主張を抱く同じ仲間の中から、その異端審問の行き過ぎを指摘し是正しようという動きが全く見られない。その契機が現われる気配さえも感じられない、恐ろしい限りである。このことはカタリ派を弾圧したドミニコ会に限ったことではない、ローマ教皇然り、ローマ教会然りである。権力を持つ側の弾圧は是正されることなく、正しいこととして無自覚のままに延々と長期間続く。人類の歴史で洋の東西を問わず、何度も何度も繰り返された人間の最も愚かな面である。

 西暦2,000年つまり紀元後二千年紀の最後の年、ローマ教皇ヨハネ・パウロ二世はローマ教会がこれまでの歴史で次の罪を犯してきたとして神に懺悔した。ユダヤ人に対する迫害の容認、十字軍遠征と異端審問、アフリカ・アメリカ大陸での布教で原住民に対する差別と権利の侵害、がそれである。今までローマ教皇は誰一人としてかかる過ち(罪)を分からなかったとでもいうのだろうか。迫害を受け不幸のうちに死んでいった幾千万幾億の人間の無念さは、数百年後に一教皇に謝られても無くなるはずもなく、その怨念は未来永劫この世に漂い続ける。懺悔し謝罪すべき内容は犯した過ちの数々のみならず、いやそれよりはるかに重大に、それを許してしまったローマ教会のかかる組織の在り方そのものであったはずである。

 主義主張は主義主張でいい。人が百人いれば百人の主義主張があるのはそれはそれで自然なことであると思う。問題はその次にある。自らの主義主張に従ってまっしぐらに走る人(集団)は、往々にして反対意見・少数意見に耳をふさぐ。己がしていることに自己満足し省みることがない。それ故に起こった歴史の悲劇を我々人類は数多く経験してきた。何故そうなってしまうのか?
 
 <問2>を普遍化したこの問は、いつも私の頭を離れないテーマである。このブログでも取り上げて考える所をこれまでも書いたことがある。<管賀江留郎「道徳感情はなぜ人を誤らせるのか」を読む。>  その時は、進化生物学とアダム・スミスの「道徳感情論」に依拠し情報の問題にも言及した。リベラル・アーツの問題もあり、道徳観・倫理観の問題もあると思う。組織の在り方まで範囲を拡げると、国家・地方政府の組織、法体系、民主主義と三権分立等、複雑かつ多岐にわたる。私一人でどうこうできる問題ではない。

 私が希うことは、己の主義主張の内部に己のそれを客観視する心の仕組を組み込むことはできないのであろうか一つの思想を抱く集団の内部にそれを客観視する組織を仕組として組み込むことはできないのであろうか、ということである。
 
 先の四冊の小説を読み、刺激され連想して次の本を読みたく思う。
(1)13世紀という同じ時代を生きた人間として、イタリア・アッシジの聖フランチェスコ(1182~1226)も気になる一人だが、中世のヨーロッパで抜きん出てそびえ立っている男がいる、神聖ローマ帝国皇帝フリードリッヒ二世(1194~1250)である。塩野七生氏著の彼の伝記。ダンテ(1265~1321)は彼の死後15年後の生まれである。

(2)中世のヨーロッパではローマ教会は聖職者以外には聖書を読むことを許さなかった。民衆が聖書を読んで勝手なことを言い出すことを恐れたためであると思う。かかる時代にカタリ派はいかにして人々の心をつかんでいったのであろうか。カタリ派の聖職者は民衆一人一人に直接に語り教えを説いていった、しかも自らは清貧で禁欲的な生活を貫いた。これは、ローマ教会側ではできないことであった。人々は自然とカタリ派に惹かれていった。…………歴史では似たようなことが繰り返される、連想して場所も時代もはるかに飛躍するが、毛沢東の軍隊は蒋介石の国民党軍にどうして勝利することができたのであろうか。人口の大部分を占める農民をどうして味方につけることができたのであろうか、ここには中国革命の核心が潜んでいる。毛沢東の著作または中国人民解放軍の歴史(創設~1949)。

(3)ウンベルト・エーコ 「薔薇の名前」。 14世紀初め、北イタリアのベネディクト会の修道院で起こった連続怪死事件…………異端は作られるのか、キリストは笑ったか、アリストテレスの詩学…………そして知の迷宮へ。



佐藤賢一「オクシタニア」 他を読む。(1)2019-05-06


          近い所から 北鎌尾根、硫黄尾根、裏銀座の北アルプスの稜線
            2004.8.04(脊髄損傷前)



 次の小説を読んだ。
A オクシタニア 佐藤賢一 集英社文庫
B 旅涯ての地 板東眞砂子 角川文庫
C 聖灰の暗号 帚木蓬生 新潮社
D 路上の人 堀田善衛 新潮社

 歴史の本を読んでいて  ”異端” ”秘密結社”  ”○○の乱” などの文字があると、それはどんな集団でどんな教えを信じてどんな事と対決していたのかと、興味をそそられテンションが上がる。歴史のうねりとともにそこに民衆の反乱というか、やむにやまれぬ庶民の渇望の呻きのようなものが聞こえるような気がするからである。読んだ四冊の小説はいずれも、中世ヨーロッパでローマ教皇から異端とされた ”カタリ派” を題材とした小説である。内容が深く濃密で、久しぶりに小説を読む醍醐味を味わい堪能した。

 カタリ派弾圧の歴史を、上の四冊の範囲で大まかになぞると次のようになる。
① 1209年、ローマ教皇インノケンティウス3世はフランス王フィリップ2世と協議して十字軍を召集し、総指揮を北フランスの小領主シモン・ド・モンフォールとして、異端派根絶を目指しオクシタニア(ピレネー山脈でカタロニアと国境を接する南フランス一帯)を攻撃し住民を虐殺した。それまで異教徒に向けられていた十字軍遠征が、異端とはいえ同じキリスト教徒に向けられ、カタリ派を保護したとしてトゥールーズ伯のレモン7世をはじめオクシタニアの諸侯を弾圧した、所謂アルビジョア十字軍(1209~1229)である。カタリ派 は、トゥールーズを中心にオクシタニアで勢力を誇っていた。トゥールーズは気候が温暖で経済的に豊かなオクシタニアの中心で、当時ヨーロッパで有数の都市の一つであり、曲がりなりにも市民による自治が行われていた(コミューン)。

② 1232年、ローマ教皇グレゴリウス9世はそれまでの異端派弾圧の仕組をを改めて異端審問制度(異端裁判所)を作った。開明的な神聖ローマ帝国(ドイツ)皇帝フリードリッヒ二世による「メルフィ憲章」の公表(1231、法治国家の宣言)に対抗する必要上余儀なくなされたものであった。ドミニコ会の修道士を異端審問官として各地に派遣して、しらみつぶしに異端派を摘発し改宗しない場合には火刑に処した。カタリ派はその教義で嘘をつくことを禁じていたので、帰依者(信者)や完徳者(聖職者)は審問されると正直に答え、芋づる式に逮捕されてしまった。

③ 1244年、追いつめられたカタリ派はピレネー山中のモンセギュールの山城に集結し、そこを最期の砦として信仰を守っていたが、フランス王ルイ9世の軍隊に包囲攻撃され陥落した。カタリ派の信仰を捨てることを拒否した200人以上の帰依者と完徳者は、死ぬと天国にいけるという教えに殉じ火刑に処せられていった。

④ 14世紀に入ってもさらにその後も、ガリレオ裁判(1633)が示すように異端審問制度は執拗に続いた、そして内容は少し変わったが現在でも続いている。 1321年、カタリ派は最後の完徳者が捕えられ衰退していった。

 A~Dの四冊の歴史的・地理的な舞台は次の通りである。

 Aは、オクシタニアを舞台にアルビジョア十字軍の遠征からピレネー山中のモンセギュール城陥落までを、カタリ派(異端)とドミニコ会(正統)の双方の立場で、人の心に深く分け入りそのディテイルを濃密に描いている。内容は深く、正統派と異端派の論争のさわりが分かったような気がする。ヨーロッパの中世は古代ギリシャ・ローマの科学的水準が大きく後退したキリスト教一辺倒の時代であり、神学論争は切実な問題だったと思われる。干からびたドグマ(教義)の話ではなく、人が生きることを深く問う内容である。読んで損はない、いや読まないと損する一冊である。

 Bは、地理的には博多の中国(宋)人街~元の大都(現在の北京)~コンスタンティノポリス(現在のイスタンブール)~ヴェネツィア~南フランス山中の廃墟の山城 と当時の世界の東の涯てから西の涯てまでに及んでいる。元寇(弘安の役 1281)、マルコ・ポーロ(東方見聞録 1300頃?)、聖杯伝説、マグダラのマリアの福音書などをストーリーに織り込み、主人公(父が中国人、母が日本人の博多生まれの男)の13世紀末から14世紀始めにかけての数奇で波乱に富んだ物語である。内容は深い。作品中、ヴェネツィアの一ラテン語教師が述べる次の言葉は示唆的である。「誰が東を決め、西を決めたのだ。誰が正統を決め、異端を決めたのだ。西もさらに西の国にいけば、東といわれる。正統もやがて異端といわれる。」 小説の後段から終わりにかけては感動的である。

 Cはミステリー仕立てで、異端審問制度がまだ苛酷に続いていた14世紀始めのオクシタニアが舞台である。ドミニコ会の若き僧が書き残した次の詩が、本文中何度もリフレインされる。

  空は青く大地は緑。
  それなのに私は悲しい。
  鳥が飛び兎が跳ねる。
  それなのに私は悲しい。

  生きた人が焼かれるのを見たからだ。
  焼かれる人の祈りを聞いたからだ。
  煙として立ち昇る人の匂いをかいだからだ。
  灰の上をかすめる風の温もりを感じたからだ。

  この悲しみは僧衣のように、いつまでも私を包む。
  私がいつかどこかで、道のかたわらで斃(たお)れるまで。

 Dは、スペインのトレド(当時、ヨーロッパの文化の中心地の一つ)~オクシタ二ア~北イタリアを舞台に、13世紀初め頃からピレネー山中のモンセギュール城陥落までを描いている。A~Cの三冊は近頃書かれた作品であるが、堀田善衛のこの小説は1985年の出版で比較的古い。カタリ派について私が疑問に感じていることを、作者が代弁して述べているのではないのかと思われる所が多々あり、カタリ派がどんな宗教かがよく分かる。例えば、次のような場面がある。カタリ派を好意的に思っているある騎士(本小説の主人公の一人)が、カタリ派の完徳者にピレネーの山中で出逢い質問する。(私の言葉で書くと) 主よ、ピレネーの山並は雪をいただき、渓流はゆったりと谷を流れている。緑の野には花々が咲き乱れ風に揺れている。あなた方はこの世を否定的に捉えられているとしても、目の前のこの自然を見て心を動かされ美しいとはお思いになりませんか? 完徳者がなんと答えたかは小説に譲ろう。

 さて、上の四冊の小説を読んで<二つの問>が根源的に惹起する。<第一の問> カタリ派は何故異端として弾圧されたのか。これは上の四冊の小説のテーマそのものでもある。歴史の上では一般に弾圧された側の文書が残ることは少ない。焚書で根絶されてしまうからである。カタリ派は何を民衆に語ったのか、今でもよく分かっていない。ローマ教皇側の資料は残っている、カタリ派側から書かれた資料の発見を今後に期待し、歴史家の実証的研究に待ちたい。その上で、小説を読んだ私の感想を独善的にかつ軽々に述べさせてもらうと次の通りである。

 中世のヨーロッパではローマ教会とその教皇・司教らの聖職者が宗教世界の唯一の権威であった。しかし、司教らは贅沢三昧の生活をし実質上妻帯することも普通で、ローマ教会の堕落は甚だしかった。カタリ派の聖職者は禁欲的で清貧に甘んじた生活をし、ローマ教会とは雲泥の違いがあり人々はカタリ派に惹かれていった。その意味でカタリ派への信仰の傾斜はローマ教会を批判する民衆の運動であったとも言える。カタリ派にとっては少し辛口な見方になるかもしれないが、以下その教義について考えてみたい。

(これから上の小説を読もうと思っている方は、以下の青字の部分は読まない方がいいかもしれない。以下を読んでしまうと、ネタバレのマジックを見るようで小説の興味が半減するかもしれない。)

 カタリ派はキリスト教の衣を纏っているが、似て非なる別の宗教ではないのか。異端などではなく異教ではないのか。ヨーロッパの地であるからキリスト教の衣を纏うのは仕方がない。しかしその教義は徹底した二元論である。現世は悪魔が作った世界であり、この世では努力することも成功することも財産を貯めることも意味がない、悪魔の世界での出来事だからである。この世では生きること自体に意味がない、信じ難い程のニヒリズムであるが、これがカタリ派のこの世の理解である。
 
 この世の苦楽を味わい、意味があるかないか判らないがそこで悪戦苦闘することをもって、人が生きることだと了解している私のような世俗的人間には、到底理解できない境地である。おそらく科学的知識が乏しく、キリスト教の権威だけが高かった時代であったが故であると思う。

 カタリ派では人は死ぬに際して、完徳者(聖職者)によるコンソレメントウム(額の上に手をかざすような儀式、救慰礼)を受けることにより、肉体は朽ちても精神は天上界に行ける。さもなくば精神はこの世に再び舞い戻り、別の肉体を借りて精神の袋としこの地上界に留まり続ける、肉体が死ぬとまたこれを繰り返す、つまりこの世(地獄)で輪廻する。私如きにはその方が永遠の命をもらったようでいいと思うのだが、この世は悪魔が作った世界つまり地獄であるから、そこから脱出して天国へと救われなければならないというのがカタリ派の教えである。従って、キリストがゴルゴダの丘で磔刑に処され、その後この世に復活したという新約聖書の四つの福音書の記述は、それが肉体を伴ってのこの世での再現とするならば、カタリ派にとってはとんでもない話ということになる。(ご存じのように”復活”については様々な説がある。)

 キリストの理解、洗礼の仕方、教会のあり方、聖職者の生き方、などなどカタリ派の教義は正統派の教義とことごとく対立し相容れない。翻って考えてみると、カタリ派の二元論はゾロアスター教→マニ教の系譜に近似し、ユダヤ教→キリスト教→イスラム教の一神教の系譜からはかけ離れていると思う。
 
 神がいるならば、なにゆえ災害があり病がありもろもろの苦しみがあるのか、太古の昔から人間は考えた。中央アジアの地でかのゾロアスターはそれまでの土俗的地域的宗教を超えて、善神(アフラ・マズダ)と悪神(アーリマン)の二元論の宇宙の普遍的体系を作り上げた。この世(現世)は二つの神の闘争の場で、アフラ・マズダが勝利し正義が実現するように務めるのが人間の生きる道であると教えた。この世は永遠には続かずいつか終末が訪れ、最後の審判が行われる。その時アフラ・マズダに味方した者は天国へと救済され、アーリマンに味方した者は地獄に落ちる。
 
 カタリ派はゾロアスター教の二元論の系譜にあるとはいえ根本的に違う点がある。この世(現世)の捉え方と天国への救済のされ方が全く違う。精神と肉体、天国(天上界)と地獄(地上界)、神と悪魔を極限までに峻別し、そしてその枠組みで人間の生死を二分して理解する。見事なまでの割り切り方である。人はこの世でどのように努力し生きたのかということとは関係なく、死に際してコンソレメントウムさえ受ければそれだけでいともたやすく天国へ行ける。この突き抜けた無邪気なまでのオプティミズムは、現世で生きることを悲しいまでにペシミズム的に考える救い難い厭世思想と対をなしている。マニ教と酷似している。

 災害があり病がありもろもろの苦しみがある。ユダヤ教から始まる一神教は二元論のようにそれは悪神の仕業とは考えない。神の沈黙、神がこの世に全面的に動いていないからである、何故神は動かないのか、その事を前にして人間はどうしたらいいのか、御利益宗教を超えた本格化な一神教はここから生まれる。

 キリスト教の歴史は、曖昧な解釈を許してしまう教義の多義性との闘いであったと思う。キリスト教に限らず一般に宗教の歴史は、その中で勝利した教義が正統派として残っていった。歴史とそれを示す書類は勝ち残った正統派に都合のいいように作られる。そうして教義は精緻化され純化され、敗者ははじめから存在しなかったかのように歴史から抹殺される。
 
 カタリ派は正統派にとっては教義が少しだけ違うというレベルではなく、この世を根底的に否定するがゆえに、邪宗・邪教の類と考えられた。たとえそういう教えであったとしても、民衆の支持を得て生き残る道はなかったのか、期待したい気持ちも少なからずあるが、事実は徹底的に弾圧根絶され、歴史はルネサンス、宗教改革の時代へとつながっていく。

 (2)へ続く。



「また、桜の国で」(須賀しのぶ著 祥伝社)を読む。2018-07-20


        
          剣岳   2006.08.26(脊髄損傷前)


 1938年(昭和13年)秋、主人公・棚倉慎(まこと)はワルシャワの在ポーランド日本大使館の書記生として赴任するため、ベルリンからワルシャワまでの夜行列車に乗った。車中でユダヤ系ポーランド人の青年がドイツのSS(ナチス親衛隊)に痛めつけられている場面に出会い、正義感から中に入ってその青年を救出する………壮大な物語はここから始まる。慎は満州にある外務省の哈爾浜(ハルピン)学院で、ロシア語、ドイツ語、ポーランド語を学び外交官になっていた。日本に亡命した植物学者のロシア人の父と日本人の母との間に生まれたハーフで、顔かたちは父方のスラブ系の血を引いた27歳の青年である。

 ナチスによるチェコスロヴァキアのズデーテンの割譲(1938年)から始まり、独ソ不可侵条約とポーランド侵攻分割(1939年)、アウシュビッツ収容所(1940年~1945年)、カティンの森事件(1940年)、リトアニア領事杉原千畝のユダヤ人救出(1940年)、ワルシャワのユダヤ人ゲットーの蜂起(1943年)等を織り交ぜてワルシャワ蜂起(1944年)に至るまでがこの小説で綴られている、いわば凝縮された東ヨーロッパにおける第二次世界大戦史である。

 慎は9歳の時、東京の自宅で偶然ポーランド人のシベリア孤児カミル(10歳)と出会う。18年後、慎が在ポーランドの日本大使館勤務となった時にこのポーランド孤児達も同じ年頃の青年となっていてワルシャワでの交流が始まる。この部分は作者のフィクションの感じもするが似たような歴史上のモデルがあるのかもしれない。この青年達の友情と交流は重い歴史の中で抒情的な旋律を奏でていて感動的である。

 この小説を読んでいる時、サッカーワールドカップで日本対ポーランドの試合が行なわれていた。テレビでは対戦相手のポーランドが大の親日国であり、そうなった歴史的経緯を紹介していた。私はこの小説を読むまでその歴史を知らなかった。

 ポーランドという国は世界地図から二度消滅した歴史をもっている。二度目はよく知られているように、第二次世界大戦中のナチスドイツ(ヒトラー)とソ連(スターリン)による侵攻分割で、この時代がこの小説の歴史的舞台である。最初の消滅は、18世紀末ロシア、プロイセン(ドイツ)、オーストリアの三国による分割で、それから第一次世界大戦が終結するまで100年以上にわたり隣国の強国に蹂躙されてきた。帝政ロシアに支配された地域ではポーランド語を使うことが禁止され、徹底的に反ロシア活動が封じ込められた。自国の独立のために戦った多くのポーランド人が逮捕され極寒のシベリアに抑留されて強制労働に従事させられた。1918年のロシア革命で帝政ロシアは消滅しソ連が生まれたが国内は内戦状態に陥ってしまった。当時シベリアには10万人以上のポーランド人が生活していたが、深刻な飢餓状況に陥り疾病が蔓延し生活は凄惨を極めた。特に親を失った孤児達は悲惨な境遇になりその救出は火急を要する人道上の問題になっていた。しかし、アメリカ、イギリスをはじめ欧米諸国は要請されたがこの救出には動こうとはしなかった。

 唯一日本だけが手を挙げ、1920年(大正9年)から1922年(大正11年)にかけてウラジオストックから敦賀港経由で765人のシベリア孤児達を受け入れた。原敬内閣の時である。当時日本はお世辞にも経済的に豊かな国とはいえなかったが、官民一体となって孤児達を救出し東京と大阪の快適な施設に迎え入れて生活させた。孤児達はシベリア生まれでまだ母国を見たこともなかった。中にはポーランド語を話せない子供もいた。このためポーランド人の大人60数名が呼び寄せられ、また多くの日本人の看護婦は献身的なお世話をした。若き看護婦が腸チフスに感染し殉職している。着る服も無く栄養失調で腸チフスが蔓延していたが、孤児達は徐々に栄養をつけ健康状態は改善していった。そして独立間もないポーランドへと無事送り届けられた。

 この事について平成5年から4年間ポーランド大使を務めた兵藤長雄氏は回顧して次のように述べている。https://shuchi.php.co.jp/article/1812 https://shuchi.php.co.jp/article/1812?p=1

 シベリア孤児達はポーランドに帰ると孤児院で生活を始めた。その中の一人、イエジはやがてワルシャワ大学を卒業し、自らの子供時代と重ね合わせるように孤児院を経営し、また、かってのシベリア孤児達600人以上を組織して極東青年会という団体を作り親日の友好活動を展開していく。さらにワルシャワ蜂起までの対ナチスのレジスタンスを闘い抜いた、そのイエジの活躍はこの小説でも詳しく取り上げられている。 

 戦況の悪化でポーランドの日本大使館は閉鎖を余儀なくされ、慎はソフィアの在ブルガリアの日本大使館勤務となった。日本はドイツ、イタリアと三国同盟を結んでいたが、慎は再度ポーランドへ行きイエジの指揮下に入り対ナチスのワルシャワ蜂起に参戦する。ドイツ軍はスターリングラードの攻防などでソ連の赤軍から攻め立てられ敗走を余儀なくされていたが、態勢を立て直してワルシャワ蜂起を鎮圧する。ソ連の赤軍はワルシャワを南北に流れるヴィスワ川の東岸まで迫っていたが、なぜかドイツ軍と戦おうせず、ワルシャワ蜂起に立ち上がったポーランド国内軍と市民を援助せず見殺しにしてしまった。戦後のポーランドの政治的支配を狙ってドイツ軍とポーランド国内軍が消耗して共倒れするのを待っていたとも云われるが、ソ連(ロシア)側の資料が公開されておらず真相は現在までよく分かっていない。ワルシャワ蜂起でのポーランド人の死者は軍民合わせて20万人、第二次世界大戦での死者は600万人と云われている。

 終章。1956年(戦後11年)ポーランド系アメリカ人となっていたカミルは東京にいる慎の父を訪ね、ワルシャワ蜂起で勇敢に戦った慎の最期を報告した。それを聞いて胸の奥深く詰まっていたものが腑に落ちたのだろうか、慎の父はレコードをかけた………ショパンの「革命のエチュード」である。まだ子供だった36年前、カミルと慎が秘密の約束をしたあの時もこのピアノ曲が流れていた。

 私は何度もこのピアノ曲を聴きながら、この小説を読み進めた。1830年、ウィーンにいた20歳のショパンは、祖国の独立に蜂起したポーランド人がロシアから攻撃されワルシャワが陥落したという報せを受け失望し落胆した。その時のほとばしる熱情を叩きつけるようにこの「革命のエチュード」に込めたと云われているが真偽の程は明らかでない。
 
 (追記) 連想ゲーム的に次の本を読み映画を見た。
「夜と霧」 V.E.フランクル著 みすず書房
「アウシュヴィッツを志願した男」 小林公二著 講談社
「灰とダイアモンド」 アンジェイ・ワイダ監督
「カティンの森」 アンジェイ・ワイダ監督



管賀江留郎「道徳感情はなぜ人を誤らせるのか」を読む。2016-10-11




本書のテーマは冤罪である。本書の表紙の広告の帯に次のように書いてある。

"冤罪、殺人、戦争、テロ、大恐慌。
すべての悲劇の原因は、人間の正しい心だった!
我が身を捨て、無実の少年を死刑から救おうとした刑事。
彼の遺した一冊の書から、人間の本質へ迫る迷宮に迷い込む!"

私だったら上のコピーに更に一行付け加えて次のように書く。
”……… すべての悲劇の原因は、人間の正しい心だった! 
そしてその悲劇をこの世から少しでも無くそうと務めたのも、人間の同じ正しい心だった! ………” と。
本書の本文には「正しい心」という文言はなく「道徳感情」となっている。

悲劇の原因は ”評判に左右される人間の本性” あるいは ”世間の賞賛を求める人間の弱さ” の中にある。これは近年になって(農業が始まったこの一万年位で)人間に芽生えたという付け焼き刃的な性向ではない。人間が類人猿から分岐して進化し現在に至るまで数百万年かかっているが、その時間をかけて築き上げてきた、人間が自らを維持存続させていくために辿り着いた利他的行動のシステム(「間接互恵性」)に深く根ざしている。

利他的行動は多くの動物、例えばハチやアリ、一部の哺乳類などに見られ、「血縁淘汰」で説明されてきた。血縁を超えて利他的行動をするのは人間だけだと考えられていたが、中南米に生息するチスイコウモリは血縁に関係なく利他的行動をとることが分かってきた。チスイコウモリは3日間動物の血を吸わなかったら死ぬという。血を吸うことができたチスイコウモリは、血を吸えなかったチスイコウモリに自分が吸った血を分け与えるという(「互恵的利他主義」)。

この「互恵的利他主義」は自己犠牲的で利他的行動といってよい。自分だけが生き残ればいいという利己的な個体より、仲間に親切な個体は自分が困窮した時に自分が助けた仲間から優先的に助けてもらえる、つまり危険を分散していることになり自己の維持存続に有利になると思われる。一種の保険といえるかもしれない。”情けは人の為ならず” の諺が教える、他人に情けをかけておくと巡り巡って恩恵が自分に戻ってくるという道徳の世界に似ている。

人間が辿り着いた「間接互恵性」はこのような返礼(見返り)をそもそも期待しない。もう二度と会うこともない人に対してもその人が困窮していれば助ける。「互恵的利他主義」より複雑なシステムで、そこで決定的な役割を果たすのが言葉つまり評判(賞賛と非難)である。賞賛はその行為者に精神的な満足をもたらし、かつ長い年月にわたり世間から大事に遇してもらえる可能性が増え、何かとその行為者に有利に働く。

"小さな親切大きなお世話" ではないが、現実には善行と賞賛の関係は複雑に錯綜しており、ここから様々な問題が発生する。善行→賞賛という順序が逆になるとどうなるであろうか。賞賛を得ようとして独裁者が人々のためと称して愚行を繰り返し、人々を悲劇のどん底に突き落とした歴史を我々は数多知っている。しかもこの賞賛を得ようとする欲求には際限がない。賞賛を得ようとする行為が全て否定されるべきではないが、往々にして悲劇をもたらしてきたというのがこれまでの歴史ではなかったか。

それに警告を鳴らし、世間の賞賛を求めるというのではなく ”賞賛に値すること” を行なおうとするのが ”正しい心” のはずである。ところが 心の中では ”賞賛に値する” と信じて行なった行為が、現実には ”非難に値する” 行為になってしまうことがある。自己の利益は他人の利益と一致するとは限らないし、ある他人に良かれと思ってしたことが別の他人に不都合なことをもたらすこともある。この点に自覚的であればいいが、無自覚の場合は悲劇を引き起こしてしまう。

地獄への道は善意で敷き詰められている。悪魔は天使の姿をしてやって来る。

アダム・スミス(1723~1790)は ”美しい計画” に取り憑かれた「システムの人」の危険性を指摘している。これも人間の歴史上、特にこの数百年で顕著に見られた悲劇ではなかったか。私はこのような例として、ナチスによるユダヤ人虐殺、旧日本陸軍の青年将校らによる5・15事件と2・26事件、オウム真理教事件、イスラム国などを想起する。これらに共通しているのは、一見分かりやすく明快な理想を掲げているようであるが、複雑な現実を自らに都合のいいように一面的にしか理解しようとしない粗暴かつ偏狭な思想である。一方の賞賛は他方の非難でもありうるということに無頓着というか全く眼中になく、意識的に無視し切り捨てているのだ。

それではどうすれば悲劇を引き起こさないようにすることができるのだろうか。著者はアダム・スミスのいう「胸中の公平な観察者」にその解答を見出そうとする。「胸中の公平な観察者」とは、例えれば、裁判で原告・被告双方の主張を聴き難事件に判決を下そうとしている公平無私な裁判官の立場に似ている。あるいは、情緒的に興奮している状態から覚めて冷静になり、自他を超えて物事を一歩高い所から俯瞰的に眺めて客観的に判断しようとしているもう一人の自分といってもいい。

人間はこの世に生を受けて様々な経験をする過程で判断に迷い、公平に判断しようとするもう一人の人間を胸中に作り上げてきた。そしてその判断を仰ごうとしてきた。従ってこうしてこの世に我々が生きているということは、胸中に公平な観察者を生み育ててきたということとほぼ同じことであるといってよい。例外はあるが、他人の利益を無視して自己の利益のみを追い求める人間は、この世ではおそらく生存しにくいと思う。

「胸中の公平な観察者」は、あなたの行為が世間の賞賛を得ようとして行なわれた行為であるか、困窮した人を真心から救おうとして行なわれた行為であるかをはっきり区別しようとする。外から見れば見分けがつかないかもしれないが、従って世間の評判は必ずしも正しいとは限らないが、その観察者はあなたの胸中にいてあなたの行為の一部始終を見ておりその動機を知っている、従ってそれが本当に ”賞賛に値する” かどうかを判断できると言えよう。人はもう一人の自分である「胸中の公平な観察者」には嘘がつけない。

しかしその観察者は全知全能の神ではない、場合によっては間違った判断をすることもありうる。そのミスを少なくするのが情報(冤罪で言えば証拠)であるとアダム・スミスはいう。情報が少なければ偏った判断に陥り正しい判断には到達しにくい。情報化社会と言われて久しい、情報が多すぎてかえって判断に迷うなどという人がいるが、「胸中の公平な観察者」は神でも神の化身でもない、情報に従って一歩一歩正しい判断に近づこうとする存在である。何かと理由をつけて "情報公開"  を渋る政治の動きがあるが、この人間社会の成立の根源的な由縁に逆行していると思う。

また昨今の一部の政治家・役人・大企業のトップらの情けない言動を見るにつけ、自らの「胸中の公平な観察者」の声にもっと忠実に耳を傾けて欲しいと願うばかりである。まさかその声に耳をふさいだから、立身出世ができたという訳でもないだろう。

多少脱線し私見も述べたが、進化生物学の最新の知見を取り入れ、以上の核心が第13章「進化によって生まれた道徳感情が冤罪の根源だった」に凝縮して書いてある。しかし読者はそこだけを読んでも分かり難いかもしれない。私は参考書として、堂目卓生著「アダム・スミス「道徳感情論」と「国富論」の世界」(中公新書)を読んだ。内容は深いが理解しやすかったのでお勧めする。

第13章までの章では、昭和16~17年の浜松事件、昭和25年の二俣事件という二つの大量殺人事件を中心に詳述し、それらの事件に関わった刑事、警察、検察、内務省、司法省、最高裁判事、弁護士、法医学の権威、プロファイラー等の思想・行動を戦中戦後の史料を綿密に探索して読み解き、冤罪の根源に迫ろうとしている。

そんな過去のことには興味がない、しかも難しそうなテーマだということで敬遠される方には、記憶に新しいところで袴田事件という強盗殺人放火事件を思いだしてほしい。拷問に近い過酷な取り調べによる自白と捏造された疑いのある証拠により、元プロボクサーの袴田巌さんは犯人とされた。死刑囚となって牢獄に囚われること42年、無罪であることを裁判所もやっと認めて自由の身となり、数年前テレビでも大々的に放送された冤罪事件である。足利事件を思い出された方もいるかもしれない。

冤罪事件は過去のことではなく今日もそして明日も起こりうる。一部の不届き者が引き起こすと言うのであれば話は簡単、それを取り締まればいい。そうではない、冤罪事件は人間の本性に深く根ざしている。冤罪事件は無実の民を断頭台に送り込み、また真犯人を取り逃がすことにより同種の事件の頻発を許してしまうことになる。

袴田事件は昭和41年に静岡県清水市で起こった大量殺人事件であるが、昭和20年代同じ静岡県下で冤罪事件が多発した(幸浦事件、二俣事件、小島事件)。本書の主役の一人であり拷問王と呼ばれた紅林(くればやし)麻雄刑事(1908~1963)が捏造した冤罪であった。袴田事件はこの紅林刑事の薫陶を受けた弟子達による冤罪事件の一つである(島田事件、丸正事件)。

紅林刑事はたいした手柄を挙げた訳でもないのに幸運にも、浜松事件という世間を震撼させた難事件を解決した名刑事という名声を得た。そしてその評判を維持しさらなる賞賛を得ようと、冤罪を次々と作り上げていった。証拠の捏造や拷問などにより罪のない人間を犯人に仕立て上げた、しかもこれらの行為を世のため人のためと信じて疑わなかった。紅林刑事は周囲に気配りのきく部下思いの知的な人であったという。

紅林刑事に連なる検察、裁判官、法医学の教授ら結果として冤罪を作り上げることに加担することになった面々も、一人一人は善良な市民であったろう。それなのに一体どうして冤罪のような世にもおかしなことが起こってしまうのか。人々の日々平穏無事な何気ない日常生活の地続きの大地に、底無し沼のようなパックリと口を開けたどす黒い暗黒の世界が紛れもなく存在しているのだ。本書はその暗黒世界の成立の解明に挑んだのである。

”サイコパス”、”認知バイアス” など書かなければならないことは沢山あるが(私の手に余る、しかし冤罪そして人間を理解するための必須のテーマである)、とりあえず本書(2016年5月初版 洋泉社)をこのブログに取り上げてみた。本書を読まれた方は私の理解が浅薄かつ一知半解であることをたちどころに見抜くであろう。それでもいい、本書は読まれるに値する一冊、宣伝の一助になればいいと思った次第である。

ところで、著者の管賀江留郎氏とは何者であろうか。自らを書庫派と称し国会図書館他で古い文献を漁る日々を送っているというが------。


国分功一郎「暇と退屈の倫理学」を読む2015-09-29

(写真の説明)
         ドウダンツツジ  九重    2005.6.12(脊髄損傷前)




この本(朝日出版社)を二つのルートで知った。一つは私の二男が後生大事に抱えて読んでいたこと。二つはたまたまNHK・Eテレで「哲子の部屋」という番組を見たこと。この番組は私の興味を呼び起こす内容で、3週連続だったが3回とも見てしまった。そこに国分功一郎が出ていて、今まで私が聞いたことがないようなことを話していた。益々興味は高まった。番組は書籍(3巻 河出書房新社)にもなっていて、テレビで放送されなかった内容も詳しく書いてあった。そうか、国分功一郎とは二男が抱えていたあの本を書いた著者か、こうして「暇と退屈の倫理学」に出会った。

「哲子の部屋」は3人(マキタスポーツ、清水富実加、国分功一郎 or 千葉雅也)の鼎談を収録したもので、キーワードで言えば、1巻は「習慣」、2巻は「環世界」、3巻は「アイデンティティ」がテーマである。1巻と2巻の内容は「暇と退屈の倫理学」に書いてあることとほぼ重複する。3巻が取り上げている内容は、"本当の自分"って何?ということで、この3巻は後日このブログに取り上げて書きたいと思う。 

さて、「暇と退屈の倫理学」であるが、この本の目次は次のようになっている。
まえがき
序章    「好きなこと」とは何か
第1章   ウサギ狩りに行く人は本当は何が欲しいのか?
第2章   人間はいつから退屈しているのか?
第3章   なぜ"ひまじん"が尊敬されてきたのか?
第4章   贅沢とは何か?
第5章   そもそも退屈とは何か?
第6章   トカゲの世界をのぞくことは可能か?
第7章   決断することは人間の証しか?
結論
あとがき

日常生活の中でぼんやりとだが何かがおかしいと思うことがよくある。どこがどのようにおかしいのかはっきりとは分からない。しかしそのおかしいと感じることはけっこう深いところから沸き起こっているという予感がある。以下いくつか私がそのように感じたことを述べる。

河島英五という歌手(シンガーソングライター)が「何かいいことないかな」という曲を歌っていた。聴いて私は不快になった。絶叫調に「何かいいことないかな」と繰り返すその歌い方に退廃的な匂いを感じた。元々人が口に出して言ってはいけないことを言っているような気がした。それを言っちゃおしまいよ!という感じである。よく人は挨拶代わりに ”何かいいことはないか” と軽いタッチで言う。いいことがたやすく見つかるとも思えないが、情報収集の一つだ、なにかのきっかけになるのであればそれはそれでいい。河島英五の歌い方はそういう軽い乗りではない、真剣に言っているのだ。私は自分にこの言い方を禁句にしてきた。他人に聞くことではなく、人生を賭して探すことではないのか。断っておくが、私は河島英五が嫌いなわけではない。「酒と泪と男と女」という私の好きな曲も歌っている。

何事もうまくいかないことがある。面白くない日が続く。重く出口のない気持ちがうっ積していく。そんな自分の気持ちをどこにどう持っていったらいいのか分からない。河島英五はその時「何かいいことないかな」と叫んだのだ、誰に言うわけでもなく。そうする以外ほかにどうすることもできなかったのだ。河島英五の曲はそう聴いた方がいいのかもしれない。叫びたい人は叫べばいい。しかし私は「何かいいことないかな」とはあえて頑張って言わないほうがいいと思う。そして、自分の中に新しい考え方(別の言葉)が生まれるのをじっと待つ方がいいと思う。

特に嫌なことがあったわけではない。特に楽しいことがあったわけではない。昨日と同じような時間が今日も流れた。明日も同じような時間が流れるだろう。だからどうだというわけではない。しかしなぜか知らないが、日常の変わりばえのしない時間を過ごしながら、ふとある時人は一人ぽつりとつぶやくのだ、「何かいいことないかな」と。なぜつぶやいてしまうのか。それは、そう自分に向けてつぶやきい気分だからだ。この気分を他人に言葉で伝えることはほとんど不可能である。そしてこの気分は霧のように人生を覆っているのだ、とてつもなく深く。

「何かいいことないかな」はけっこう難物である。

趣味は何ですか?とよく聞かれる。趣味??? 私は「好きなこと」と言い換えて登山と囲碁とXXXとYYYですと応える。趣味という言葉になぜかなじめなかった。脊髄を損傷する前、私は「あだると山の会」という会員140名の中高年山の会の事務局長をしていた。山に対する経験やスタンスは人それぞれ、職場の山岳部に属し海外の山にも登ったいう人もいれば、定年になったので健康管理を兼ねてハイキングを楽しみたいという人もいた。いろんな人がそれぞれのレベルで山を楽しむ、それはそれでいいことだ。

「あだると山の会」を趣味の会と考えている会員が少なくなかった。趣味の会という言い方に私は違和感を感じていた。山が好きな人の集まりと私は考えていた。じゃ、趣味の会と言っても同じことじゃないか。しかし、趣味という言葉で定義してしまうと、大切なものがごそっと抜け落ちていく感じがした。大切なものとは何か、うまく説明できなかった。

所詮、人生は暇潰しではないかという透徹した人生観から、割り切って「趣味」という言葉を使われると私はその通りですというほかない。今振り返ってみると、私は「趣味」を「好きなこと」と言い換えることで、手前みそだが目指したいものがあったような気がする。うまく言えないが趣味という言葉の背後には、仕事vs趣味=お金を稼ぐことvsお金を使うこと=定年までvs定年から=必須なことvsどうでもいいこと・・・  という硬直した二元論とでもいうべき図式があるような気がした。中高年山の会をこの図式で考えたくなかった。この図式から解放されれば別の世界が見えてくるのではないか。「いい人の集まり」「仲間」とでもいうべき世界に移行していくのではないか。ここでも、それは趣味と言っても同じことになるではないかとの反論がありそうだ。私はないものねだりをしたのだろうか、または考える必要のないことを考えようとしたのだろうか。それを夢想し、"いい山、いい汗、いい仲間" という標語を一人考えたりもしたのだが。―― 「好きなこと」「趣味」は本書では別の視点から取り上げられている。

目次を見てお判りのように暇と退屈を問うことは、人間は他の動物とどこが違うのか?人が自分の人生を生きるということはそもそもどういうことであるのか?という巨大な問いに近づくことである。先程何かがおかしいと感じたエピソードを長々と述べたが、この巨大な問いのにおいを嗅いだのだが、うまく近づくまでには至らなかったということだったのか。私は道筋も分からず我流で近づこうとはしたものの、跳ね除けられてきたということだったのか。本書はこの近づき方の一つの指南書である。

この世界は様々な不条理に満ちている。飢餓、戦争、政治的弾圧、難民、貧困、差別、災害………我々はこういう問題があることをよく知っている。食糧が無く飢えているアフリカの人は暇と退屈について考えるだろうか。過酷な労働を余儀なくされている非正規労働者には休息とまともな給料と安定した職場環境が必要だ。シリア難民には戦禍がない土地と衣食住とコミュニティが必要だ。暇と退屈について考える時間はそのずっと後に訪れるだろうか。多くの人間が悲惨な世界に生きている、その同じ地球上で我々は暇と退屈について考え、自分の人生を意義あるものにしたいと思っている。これは先ほどの問いから不可避に連続した二つ目の巨大な問いである。言い方を変えれば、第一の問いはこの第二の問いを内包している。本書はこの問題も示唆している。

真正面から読む本である。

高橋和己「邪宗門」を読む。2015-07-25

(写真の説明)
福万山(湯布院の近く)のエゴノキの並木
2005.6.5(脊髄損傷前)



夕暮れ時、小児マヒの少女を背負って老婆が家路を急いでいた。そのとき、川辺の草むらの中に子供の足が伸びているのが、視野の片隅にとらえられた。老婆は早く家に帰りたい気持ちで、見て見ぬふりをして通り過ぎようとした。すると突然、老婆の足は呪文をかけられたように動かなくなった。老婆は行き倒れの子供を見捨てようとした、罰が当たったのだ、自分の信仰心の至らなさを恥じた。老婆は畦道に金縛りになった姿勢のまま泣いた。一人の行き倒れを助けては一人の食扶持を減らさねばならぬという、自分の醜い心に涙を流した。老婆は新興宗教「ひのもと救霊会」の信者だった。

こういうくだりから始まる「邪宗門」は、昭和初期から敗戦直後までの約20年間の物語である。読み進めていくと、国家権力により大正末期から昭和初期にかけて2度弾圧を受け、壊滅に追いやられたある新興宗教を想起する。地名や人名の類似性も、京都の北部の山合いの盆地で起こったその新興宗教の事件を下敷きに、この小説が書かれたことを推測させる。

以下は、大正中頃から敗戦直後までの日本の主な出来事だ。本小説を理解するのに役立つと思う。

1919年 パリ講和会議・ベルサイユ条約
1923年 関東大震災
1925年 治安維持法施行
1929年 世界大恐慌
1931年 満洲事変
1932年 満洲国建国、5・15事件
1933年 国際連盟脱退
1936年 2・26事件
1937年 日中戦争始まる
1941年 太平洋戦争始まる
1945年 広島・長崎に原爆 、ソ連対日参戦、 ポツダム宣言受諾
1946年 日本国憲法公布
1947年 2・1ゼネスト中止

イギリス・フランスは、第一次世界大戦で敗北したオスマン帝国を解体し、今のアラブ世界の国境線を自分らの都合のいいように決めた。そこから、現在のクルド人問題、IS(イスラム国)の問題が始まった。同じく敗北したドイツの戦後処理を決めたベルサイユ条約(1919年 大正8年)は、ナチスドイツを生む一因となった。 中国ではベルサイユ条約に反対して「五・四運動」が起こった。現在の中国の原形はそこから生まれた。日米関係もこのころから険悪化していく。

現代史の始まりは戦後というより、その20数年前のパリ講和会議・ベルサイユ条約あたりと考える方がしっくりいくと思う。そして、「邪宗門」はまさにこの現代史の始まりあたりから物語が展開していく。

私は1946年(昭和21年)の戦後生まれであるが、この時代の日本つまり軍国主義と徴兵制の世の中に生きていたならば、自分はどんな生き方をしただろうかとよく考える。これは自分とは何者なのかと問うこととほぼ同義である。身体障害者になってから、この問いは益々私に迫ってくる。


さて何故「邪宗」なのか、その教えとは何か。今年は戦後70年にあたる。現実の戦後はGHQによってその基調が決められたが、著者が本小説で構想したもう一つの戦後は示唆に富む。そして「邪宗」である教えの内奥が明らかにされていく。

難解な漢字が多く、三部から成る長編なので読み終えるのに骨が折れる。しかし、読了したあなたは自分の心の在り様が今までと違っていると感ずるはずである。その証拠に、これまで小事に立腹しイライラしていたあなたは、たいていのことは笑って済ませることができるようになる。一方どうでもよくない大事なことに対して、自己保身から安易に妥協していたが、それではよくないと粘り強く追及するるようになる。笑って済ませることと、どうでもよくない大事なこととを区別する基準がはっきりしてくる。自分自身のとらえ方、世の中の見え方が違ってくるはずである。私はそれを精神のポテンシャルが高くなったと表現する。

若い時読んだ本である。再読して深い感動は変わらなかった。1965年~1966年(昭和40年~41年)、高橋和己35歳のときの作品(河出書房新社)である。その4年後39歳の若さでがんで死んだ。生きていれば80歳半ば、今の世の中を見て何と言うだろうか、忘れられた感のある高橋和己であるが甦らせたい人である。

「五体不満足」「障害者の経済学」を読む。2015-04-26

(写真の説明)
五葉岳(宮崎県北部)付近のアケボノツツジ、ゴールデンウイークの頃
2005.5.4(脊髄損傷前)


日本における障害者数は741万人で人口の約6%になる。人口千人当たりで、知的障害者4人、精神障害者25人、身体障害者29人である(内閣府 障害者白書 平成25年版)。 私は会計事務所を業としているので、知的障害者と精神障害者の団体(社会福祉法人等)の会計と監査の仕事を10数年行なった経験があり、障害者とも直に接しある程度障害者の実状は知っていた。3年前脊髄損傷で身体障害者1級となり、今度は私自身が障害者となった。

①「五体不満足」(完全版)(講談社)は、先天的にほとんど手足がない乙武洋匡氏が、出生から早稲田大学生までの生活を綴ったものである。ベストセラーになり乙武氏は一躍有名人となった。

②「障害者の経済学」(東洋経済新報社)は慶應大学商学部教授の中島隆信氏の著作で、障害者の団体を数多く取材し多くの示唆に富む提言をしている。子息は脳性マヒで、氏は障害者の父親でもある。

新米の障害者である私はこの種の本を、障害者として快適に生きていく上で何かヒントになることはないか、という立場で読もうとする。もとより世の中の障害者問題は多岐にわたりその内容も複雑である。障害者が生存している限り、理想や理念の前に切羽詰まった現実があり、一朝一夕に改善できるものではないのも確かだ。

近年、国の障害者問題の施策は大きく様変わりしようとしている。障害者自立支援法(平成18年)から障害者差別解消法(平成25年)に至る法律の制定施行である。国の法律である以上当然賛否両論あり、問題点があるとの指摘も多い。大まかな言い方をすれば、障害者を密室に閉じ込めていた状態から、社会の構成員として考えようという動きである。例えば、これまでは国は「授産施設」なる所に障害者を「措置」(税金を使って面倒をみてもらう)してきた。現在は、企業は従業員の2%は障害者を雇用することが義務付けられ、共生社会の実現を目指そうとしている。

障害者になってみて、障害者の社会進出が言うは易く行うは難しであることが実感としてよく分かった。障害者の就労のハードルは思いのほか高い。一般には障害者の能力は低いので、それとマッチングした仕事を探すことは簡単ではない。かつ、自宅と職場の行き帰りの交通機関、障害者用のトイレ、段差のバリアの問題等が解決されなければならない。健常者の手助けも必要である。大変なコストがかかる。こういうコストを支払ってまでして、障害者の就労や社会進出を推進しなければならないのだろうか。障害年金や生活保護費を手厚くするほうが、コストはかえって低く抑えられるのではないか、障害者もそちらのほうを望んでいるのではないか。

こういう疑問は、障害者を社会の構成員と考えていないところから惹起すると思う。正義感や人道的見地だけではどっちつかずの結論になりかねない。

弱者(能力の低い者)は、市場メカニズムの中で強者(能力の高い者)に敗れ敗者となる。弱者は強者のおこぼれで生きる。おこぼれとは税金による所得再分配、つまり障害年金や生活保護費等である。福祉とは所詮そういうことである。今の世の中はこの仕組みで成り立っている。私は所得再分配や福祉を否定しているのではない。いや、もっと弱者に手厚くするべきだ考えている。弱者と強者の関係はこのパターンしかないのか。このパターンを前提にして、障害者問題を考えていいのかという疑問である。障害者も社会の構成員であるという考えをもっと理論武装したいのである。


②に、経済学でいう「比較優位」の話が書いてある。リカードが提唱した貿易(国際分業)の理論である。アメリカのサミュエルソンは、これを弱者と強者の共存の理論として解釈した。弱者を排除するより弱者と共存したほうが、強者にとっても得(経済的所得が増える)、勿論弱者にとっても得になることを理論的に説明したのである。

国が推し進めようとしている健常者と障害者の共生社会とは、どういう考え方を下敷きに構想されているのか。正義感、人道的見地、国際的動向だけでは弱いと思う。共存共栄の関係とは、上で述べた内容を分業や仕事のシェアの問題だと矮小化して考えるべきでもない。確固とした理論化が求められる。

①乙武氏について、二つのことを書きたいと思う。

一つは、障害者側のモラルないしマナーの問題である。乙武氏は、「イタリアン入店拒否について」http://ototake.com/mail/307/と題して、自らのホームページで当時話題になった、氏が起こした事件のいきさつと反省について述べている。銀座の有名レストランに繁忙時に来店し、予約はしていたものの車椅子(約100kg)である旨を告げていなかったため、店主とトラブルとなり入店を拒否されたという事件である。その店は2階にあり、エレベーターは2階には止まらない構造の建物だったという。

健常者と障害者とのより良き共生社会を目指そうとすれば、その過程で不可避に起こるであろう、この種の問題をどのように考えたらいいのか。「バリアフリー法」「障害者差別解消法」を拡大して解決しよういう考え方がある。私は、障害者も社会の構成員であり、障害者であると同時に一般社会人であるという考え方に立っている。その立場からすると、上の問題は一般社会人としての見識いや常識の問題ではないのかと思う。

もう一つは、「障害を売り」にする生き方についての乙武氏の心の迷いである。私は「障害を売り」にして生きてもいいと思う。「障害を売り」に生きる人間は不断に現れるだろう。生涯それで生きることができれば、それはそれで一つの才能というほかない。「障害を売り」にする生き方も、当然ながらこの市場社会の中で競争と淘汰に晒されているからである。レベルに達していなければ一過性に終るだけである。

乙武氏はこの問題に極めて敏感で悩んだ。どこへ行っても「五体不満足」の著者としてのあの乙武洋匡、そこから脱皮し「障害者ではない自分」をさがす彷徨が始まる。①の完全版には最後の章でこのくだりが書いてある。そしてスポーツライターになる。その前までの章は、障害者だけど明るく元気に生きてきましたという作文である。そこにとどまっていたら、乙武氏は一過性の話題提供者で終わっていただろう。私も障害者の一人として、この最後の章で救われた気がした。障害者は「障害者である自分」と「障害者ではない自分」の二つを同時に生きていると思う。