管賀江留郎「道徳感情はなぜ人を誤らせるのか」を読む。2016-10-11




本書のテーマは冤罪である。本書の表紙の広告の帯に次のように書いてある。

"冤罪、殺人、戦争、テロ、大恐慌。
すべての悲劇の原因は、人間の正しい心だった!
我が身を捨て、無実の少年を死刑から救おうとした刑事。
彼の遺した一冊の書から、人間の本質へ迫る迷宮に迷い込む!"

私だったら上のコピーに更に一行付け加えて次のように書く。
”……… すべての悲劇の原因は、人間の正しい心だった! 
そしてその悲劇をこの世から少しでも無くそうと務めたのも、人間の同じ正しい心だった! ………” と。
本書の本文には「正しい心」という文言はなく「道徳感情」となっている。

悲劇の原因は ”評判に左右される人間の本性” あるいは ”世間の賞賛を求める人間の弱さ” の中にある。これは近年になって(農業が始まったこの一万年位で)人間に芽生えたという付け焼き刃的な性向ではない。人間が類人猿から分岐して進化し現在に至るまで数百万年かかっているが、その時間をかけて築き上げてきた、人間が自らを維持存続させていくために辿り着いた利他的行動のシステム(「間接互恵性」)に深く根ざしている。

利他的行動は多くの動物、例えばハチやアリ、一部の哺乳類などに見られ、「血縁淘汰」で説明されてきた。血縁を超えて利他的行動をするのは人間だけだと考えられていたが、中南米に生息するチスイコウモリは血縁に関係なく利他的行動をとることが分かってきた。チスイコウモリは3日間動物の血を吸わなかったら死ぬという。血を吸うことができたチスイコウモリは、血を吸えなかったチスイコウモリに自分が吸った血を分け与えるという(「互恵的利他主義」)。

この「互恵的利他主義」は自己犠牲的で利他的行動といってよい。自分だけが生き残ればいいという利己的な個体より、仲間に親切な個体は自分が困窮した時に自分が助けた仲間から優先的に助けてもらえる、つまり危険を分散していることになり自己の維持存続に有利になると思われる。一種の保険といえるかもしれない。”情けは人の為ならず” の諺が教える、他人に情けをかけておくと巡り巡って恩恵が自分に戻ってくるという道徳の世界に似ている。

人間が辿り着いた「間接互恵性」はこのような返礼(見返り)をそもそも期待しない。もう二度と会うこともない人に対してもその人が困窮していれば助ける。「互恵的利他主義」より複雑なシステムで、そこで決定的な役割を果たすのが言葉つまり評判(賞賛と非難)である。賞賛はその行為者に精神的な満足をもたらし、かつ長い年月にわたり世間から大事に遇してもらえる可能性が増え、何かとその行為者に有利に働く。

"小さな親切大きなお世話" ではないが、現実には善行と賞賛の関係は複雑に錯綜しており、ここから様々な問題が発生する。善行→賞賛という順序が逆になるとどうなるであろうか。賞賛を得ようとして独裁者が人々のためと称して愚行を繰り返し、人々を悲劇のどん底に突き落とした歴史を我々は数多知っている。しかもこの賞賛を得ようとする欲求には際限がない。賞賛を得ようとする行為が全て否定されるべきではないが、往々にして悲劇をもたらしてきたというのがこれまでの歴史ではなかったか。

それに警告を鳴らし、世間の賞賛を求めるというのではなく ”賞賛に値すること” を行なおうとするのが ”正しい心” のはずである。ところが 心の中では ”賞賛に値する” と信じて行なった行為が、現実には ”非難に値する” 行為になってしまうことがある。自己の利益は他人の利益と一致するとは限らないし、ある他人に良かれと思ってしたことが別の他人に不都合なことをもたらすこともある。この点に自覚的であればいいが、無自覚の場合は悲劇を引き起こしてしまう。

地獄への道は善意で敷き詰められている。悪魔は天使の姿をしてやって来る。

アダム・スミス(1723~1790)は ”美しい計画” に取り憑かれた「システムの人」の危険性を指摘している。これも人間の歴史上、特にこの数百年で顕著に見られた悲劇ではなかったか。私はこのような例として、ナチスによるユダヤ人虐殺、旧日本陸軍の青年将校らによる5・15事件と2・26事件、オウム真理教事件、イスラム国などを想起する。これらに共通しているのは、一見分かりやすく明快な理想を掲げているようであるが、複雑な現実を自らに都合のいいように一面的にしか理解しようとしない粗暴かつ偏狭な思想である。一方の賞賛は他方の非難でもありうるということに無頓着というか全く眼中になく、意識的に無視し切り捨てているのだ。

それではどうすれば悲劇を引き起こさないようにすることができるのだろうか。著者はアダム・スミスのいう「胸中の公平な観察者」にその解答を見出そうとする。「胸中の公平な観察者」とは、例えれば、裁判で原告・被告双方の主張を聴き難事件に判決を下そうとしている公平無私な裁判官の立場に似ている。あるいは、情緒的に興奮している状態から覚めて冷静になり、自他を超えて物事を一歩高い所から俯瞰的に眺めて客観的に判断しようとしているもう一人の自分といってもいい。

人間はこの世に生を受けて様々な経験をする過程で判断に迷い、公平に判断しようとするもう一人の人間を胸中に作り上げてきた。そしてその判断を仰ごうとしてきた。従ってこうしてこの世に我々が生きているということは、胸中に公平な観察者を生み育ててきたということとほぼ同じことであるといってよい。例外はあるが、他人の利益を無視して自己の利益のみを追い求める人間は、この世ではおそらく生存しにくいと思う。

「胸中の公平な観察者」は、あなたの行為が世間の賞賛を得ようとして行なわれた行為であるか、困窮した人を真心から救おうとして行なわれた行為であるかをはっきり区別しようとする。外から見れば見分けがつかないかもしれないが、従って世間の評判は必ずしも正しいとは限らないが、その観察者はあなたの胸中にいてあなたの行為の一部始終を見ておりその動機を知っている、従ってそれが本当に ”賞賛に値する” かどうかを判断できると言えよう。人はもう一人の自分である「胸中の公平な観察者」には嘘がつけない。

しかしその観察者は全知全能の神ではない、場合によっては間違った判断をすることもありうる。そのミスを少なくするのが情報(冤罪で言えば証拠)であるとアダム・スミスはいう。情報が少なければ偏った判断に陥り正しい判断には到達しにくい。情報化社会と言われて久しい、情報が多すぎてかえって判断に迷うなどという人がいるが、「胸中の公平な観察者」は神でも神の化身でもない、情報に従って一歩一歩正しい判断に近づこうとする存在である。何かと理由をつけて "情報公開"  を渋る政治の動きがあるが、この人間社会の成立の根源的な由縁に逆行していると思う。

また昨今の一部の政治家・役人・大企業のトップらの情けない言動を見るにつけ、自らの「胸中の公平な観察者」の声にもっと忠実に耳を傾けて欲しいと願うばかりである。まさかその声に耳をふさいだから、立身出世ができたという訳でもないだろう。

多少脱線し私見も述べたが、進化生物学の最新の知見を取り入れ、以上の核心が第13章「進化によって生まれた道徳感情が冤罪の根源だった」に凝縮して書いてある。しかし読者はそこだけを読んでも分かり難いかもしれない。私は参考書として、堂目卓生著「アダム・スミス「道徳感情論」と「国富論」の世界」(中公新書)を読んだ。内容は深いが理解しやすかったのでお勧めする。

第13章までの章では、昭和16~17年の浜松事件、昭和25年の二俣事件という二つの大量殺人事件を中心に詳述し、それらの事件に関わった刑事、警察、検察、内務省、司法省、最高裁判事、弁護士、法医学の権威、プロファイラー等の思想・行動を戦中戦後の史料を綿密に探索して読み解き、冤罪の根源に迫ろうとしている。

そんな過去のことには興味がない、しかも難しそうなテーマだということで敬遠される方には、記憶に新しいところで袴田事件という強盗殺人放火事件を思いだしてほしい。拷問に近い過酷な取り調べによる自白と捏造された疑いのある証拠により、元プロボクサーの袴田巌さんは犯人とされた。死刑囚となって牢獄に囚われること42年、無罪であることを裁判所もやっと認めて自由の身となり、数年前テレビでも大々的に放送された冤罪事件である。足利事件を思い出された方もいるかもしれない。

冤罪事件は過去のことではなく今日もそして明日も起こりうる。一部の不届き者が引き起こすと言うのであれば話は簡単、それを取り締まればいい。そうではない、冤罪事件は人間の本性に深く根ざしている。冤罪事件は無実の民を断頭台に送り込み、また真犯人を取り逃がすことにより同種の事件の頻発を許してしまうことになる。

袴田事件は昭和41年に静岡県清水市で起こった大量殺人事件であるが、昭和20年代同じ静岡県下で冤罪事件が多発した(幸浦事件、二俣事件、小島事件)。本書の主役の一人であり拷問王と呼ばれた紅林(くればやし)麻雄刑事(1908~1963)が捏造した冤罪であった。袴田事件はこの紅林刑事の薫陶を受けた弟子達による冤罪事件の一つである(島田事件、丸正事件)。

紅林刑事はたいした手柄を挙げた訳でもないのに幸運にも、浜松事件という世間を震撼させた難事件を解決した名刑事という名声を得た。そしてその評判を維持しさらなる賞賛を得ようと、冤罪を次々と作り上げていった。証拠の捏造や拷問などにより罪のない人間を犯人に仕立て上げた、しかもこれらの行為を世のため人のためと信じて疑わなかった。紅林刑事は周囲に気配りのきく部下思いの知的な人であったという。

紅林刑事に連なる検察、裁判官、法医学の教授ら結果として冤罪を作り上げることに加担することになった面々も、一人一人は善良な市民であったろう。それなのに一体どうして冤罪のような世にもおかしなことが起こってしまうのか。人々の日々平穏無事な何気ない日常生活の地続きの大地に、底無し沼のようなパックリと口を開けたどす黒い暗黒の世界が紛れもなく存在しているのだ。本書はその暗黒世界の成立の解明に挑んだのである。

”サイコパス”、”認知バイアス” など書かなければならないことは沢山あるが(私の手に余る、しかし冤罪そして人間を理解するための必須のテーマである)、とりあえず本書(2016年5月初版 洋泉社)をこのブログに取り上げてみた。本書を読まれた方は私の理解が浅薄かつ一知半解であることをたちどころに見抜くであろう。それでもいい、本書は読まれるに値する一冊、宣伝の一助になればいいと思った次第である。

ところで、著者の管賀江留郎氏とは何者であろうか。自らを書庫派と称し国会図書館他で古い文献を漁る日々を送っているというが------。