五味川純平「戦争と人間」、 船戸与一「満州国演義」 を読む。2021-10-20

 
  劔岳北方稜線より早暁の鹿島槍(双耳峰)を遠望(2006.08.27 脊髄損傷前)



 50年以上前のことだが受験勉強中心の生活から解放されて大学1年生の時、かっての超ベストセラー 五味川純平の「人間の条件」を読んだ。このたびかねてから読みたいと思っていた五味川純平の「戦争と人間」と船戸与一の「満州国演義」を読んだ。2冊ともに長い小説である。長編小説としてよく読まれているドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」と比べると、二つとも2倍以上の長さである。

 これまで昭和史の本を読んできたが、1930年前後に国内の世論は満州事変支持へと大きく傾いた。政府・軍部による世論操作にもより、日本国内の中国に対する侮蔑的なナショナリズムは大衆的レベルにまで沸騰し、更に経済が最悪の状態にまで逼迫したことにより、日本は満州国を建国し戦争必至への道へと大きく旋回してしまった。

 日露戦争(1904~1905)、辛亥革命(1911~1912)、第一次世界大戦(1914~1918)、ロシア革命(1917)に続いて、1930年前後の国内の主な動きは以下の通りである。

 1927(昭和2)金融恐慌 第1次山東出兵 東方会議   第一回普通選挙
 1928(昭和3)3.15事件 済南事件 張作霖爆殺事件 改正治安維持法
 1929(昭和4)田中義一内閣→浜口雄幸内閣  軍縮財政 世界恐慌 
 1930(昭和5)ロンドン軍縮会議→統帥権干犯問題 台湾霧社事件 
        浜口首相狙撃 農業恐慌 間島朝鮮人武装蜂起
 1931(昭和6)3月事件 中村大尉事件 万宝山事件 満州事変 10月事件
 1932(昭和7)犬養毅内閣 第1次上海事変 満州国建国 血盟団事件 
        5.15事件 リットン調査団報告
 1933(昭和8)ヒットラードイツ首相に 国際連盟脱退 滝川事件 神兵隊事件

 その後、2.26事件(1936)から 日中事変(1937)、ノモンハン事件(1939)、日独伊三国同盟(1940)、太平洋戦争(1941~1945)、ポツダム宣言受諾(1945)へと奈落の底にまっしぐらに突き進んでしまう。

 <大きく旋回した>という上の理解はとりあえず間違ってはいないと思うがもう少し大局的に見ると、清がアヘン戦争(1840年)でイギリスに敗北し、ペリーの黒船が日本に来航(1853年)した頃から東アジアの大きな激動が始まった。幕末・明治維新から太平洋戦争敗北(1945年)に至るまでの約100年間の急激な日本の動きも、<欧米列強の植民地主義と東アジアの近代化とナショナリズム>という大きな歴史のうねりの一部として理解する方が分かりやすいと思う。

 さらに歴史を大きく俯瞰すると<欧米列強の植民地主義>の傷痕は今なお世界の到る所で生々しい現実を晒しており、<近代化とナショナリズム>の内容は複雑で時代とともに変化して一様ではなく批判的に検討しなければならない面もあるが、世界を見渡すと今もって貧しい民衆の群が社会の底辺でうごめき、民族間の戦争・紛争は止むこと無く何処かで勃発している。その一方で欧米の飽食している人間が飽くことなく世界の富を支配し続けている。

 戦前のこの波乱に富んだ激動の時代(1931年の満州事変~1945年の敗戦)はすでに過去のものであるが、その時代に生きていたならばどんな気持ちで生きていただろうかと考えられずにはいられない。時間が濃密に凝縮した<侵略と自衛>というこの戦争の時代に私は心を奪われて久しい。

 日本の歴史の中で方向を誤った変調な時代であったという評価が支配的であるが、当時を軍国主義だといえばそれで全てが解決されたような気分になることこそが問題である。戦前と戦後の間にアメリカ・GHQが支配する占領の時代(1945~1952)があったが、戦前は知れば知るほど今生きている現在と深い所で通底していると感じてしまう。一言で云えば品のないいい方だが、相も変わらず小賢しい薄っぺらな人間が制度や組織の悪しき惰性に乗っかってこの日本社会を牛耳っている。

 もっと具体的に云うと、責任をとらず自己の保身と利益を第一に考える政治家と官僚、威勢がよく耳ざわりのいい主張になびく素朴だが無力な大衆、中国・朝鮮に対する侮蔑的な歪んだナショナリズム、見識も知性も教養も恥ずかしいほどに貧弱な政権のトップ、政党政治の機能不全等々、ひどく酷似性を感じてしまう。

 しかしよくよく考えてみると酷似性を感じるのは当前のことだといってよい。原爆を投下され空襲で焦土と化し300万人以上の同胞が死んだ悲惨な戦争ではあったが、たかだか15年間くらいの戦争が終わっただけで上記のような人間の思考や行動が変わると考える方が、楽観的で滑稽だというものかもしれない。

 戦後の歴史もすでに70年以上経つが、"反戦" ”平和” ”民主主義” ”自由” ”平等” 等々の、250年前のフランス革命と似たようなお題目を唱えているだけでは、霞ヶ関・永田町一帯に生息する政治家と官僚の本質を何も変えることはできなかった。何が根本的に間違っていたのか、我々はどこからどのような思考を出発させなければならないのだろうか。

 五味川純平、船戸与一の小説は戦前のこの時代を扱ったものである。作家も小説も通俗的すぎると思っている方がおられるかもしれないが、小説の巻末の膨大な(注)と参考文献の一覧を見れば、二人の作家がかなりの分量の資料を漁ったことがお分かりになると思う。「戦争と人間」の(注)は澤地久枝氏が書いているが、これを読むだけでもかなりの根気とエネルギーが要求される。船戸与一はガンを病みながらも執念で「満州国演義」を書きあげこれが遺作となった。私より2歳年上の作家である。

 これらの小説を読みたい方は、日本の現代史をある程度調べてから読まれる方が分かりやすいと思う。標準的な所で半道一利氏の「昭和史1926~1945」(平凡社ライブラリー)、保阪正康氏の「あの戦争は何だったのか」(新潮新書)、山室信一氏の「キメラ 満州国の肖像」(中公新書)、安富歩氏の「満洲暴走 隠された構造」(角川新書)、戸部良一他「失敗の本質 日本軍の組織論的研究」(ダイアモンド社)などを参考にしてはいかがであろうか。変わったところで、佐野眞一の「阿片王」(新潮文庫) は歴史書ではなくノンフィクションであるが、歴史を表層ではなく現在に通じた厚みをもって理解するのに役立つ。

 日本学術会議の会員候補として推薦されながら、管政権により否認されたことで話題になった東大教授加藤陽子氏の諸著作も傾聴に値すると思う。小説では、安部公房「けものたちは故郷をめざす」、吉村昭「殉国 陸軍二等兵比嘉真一」、大岡昇平「野火」などは読んで損はない。

 歴史の本で100%お薦めできる決定版はなかなかない。歴史の不明な点を調べていくとますます分からないことが増えていく。これまで歴史の教科書に書いてあったことに疑問を感じるようになる。現代史においてさえ新たな史料が見つかりこれまでの通説的な解釈が覆ることも多い。難しいことだが偏らないで広範囲に読むとしか言い様がない。

 小説はフィクションであることには違いないが、その土台となる歴史の個々の事実は時間の経過の通りで曲がってはいけない、その上での人間のドラマである。似たようなことを船戸与一は次のように述べている。”小説は歴史の奴隷ではないが、歴史もまた小説の玩具ではない。” 我々読者は小説のストーリーを楽しみながら同時に歴史のディテイルを学ぶことができる。
 
 私は更に興味に任せて戦前の昭和史の本数十冊を読んだ。興味深い本もあったがそれらの本等については長くなるのでここでは触れない、又いつかこのブログに感想を書きたいと思う。映画では、「人間の条件」、「戦争と人間」、「野火」(新旧)、「セデックバレ」、「南京南京」、「226」、「ラスト・エムペラー」、「硫黄島からの手紙」、等々を観た。

 <私事で恐縮だが> 私の祖父の成瀬八郎は戸籍謄本によると昭和21年8月(日にちの記載はない)長崎市で死亡している。なんと私が生まれた翌月である。満州の北東(現在の黒竜江省)の牡丹江で憲兵をしていたという、当時牡丹江付近では地下資源採掘他に多数の日本人が住みつき関東軍が駐屯していた(昭和20年8月 牡丹江事件あり)。憲兵だったという祖父の死は日にちの記載がないことで、自然な死にかたでないことは明らかであろう。BC級戦犯として処刑されたのであろうか。

 私の父は今から数年前93歳で亡くなった。父は佐賀県鹿島市と嬉野市の中程にある山あいのさびれた農村に林田姓で生まれ、幼い時に親戚の成瀬八郎の養子になった。林田家は農家で貧しかったのだろう、憲兵をしていた成瀬八郎に養子に出したのである。林田家の長女が成瀬八郎に嫁いでいた、従って父の義母は実の姉ということになる。成瀬八郎夫婦には子供が生まれたが生後すぐ亡くなったという。義父が満州で憲兵をしている中、父は独り生活費の仕送りを頼りにして長崎市で学生生活を送っていた。

 従って私は林田姓だったかもしれないし、あるいは本来ならば成瀬姓を名のるところであったのかもしれない、故あって母方の養子となり松崎姓で生きてきた。つまり私は血筋正しき由緒ある家柄の人間ではない。私の妻も似たようなものである。従って私達の子供達も言わばどこの馬の骨とも分からないということになろうか。

 どこの馬の骨とも分からない………なんと素晴らしいルーツではないか、 ”雑草のごとくたくましく生きていく” という心の 源泉がここにあると私は誇らしく思っている。雑草は踏まれても強い。自慢できる祖先探しをするNHKの「ファミリーヒストリー」という番組などは、わが家族には全く関係ない。

 例えば天皇家のように万世一系と云うような祖先のフィクションに心の拠り所を求めるというような生き方は、どこかいかがわしく嘘っぽいと思う。人は自分のDNAを生まれたときのまま死ぬまで変えることができない。だからどのようなDNAを持っているかを思考の出発点にするわけにはいかない。

 同じことだが人間は誰しも自分から願い出てこの世に生まれてきたわけではない。ある日あるとき物心がついたとき、自分がこの世に存在していることを知るだけである。自分が社会に放り込まれ独りで生きることを余儀なくされていることを知るだけである、つまりそこからすべてが始まる。従ってそれより前の出自を問題にすることは、ひとりの人間の人生を考えるときには原理的に間違いである。

 私がまだ小学生の低学年の頃(昭和30年代のはじめ)のことであるが、私の祖母(父の義母)が佐賀の片田舎から私らの長崎の家に来て一日泊まっていったことを 思いだす。祖母は子供の目から見ても貧しい身なりをしていた。山で拾ってきたという椎の実をお土産に持ってきた。どことなく遠慮がちであった。私は孫(または甥)になるわけであるが、祖母は私にどう対応したのいいのか分からない風だった。祖母との出会いはこれだけである。

 父は学徒動員で出征し陸軍少尉として朝鮮の釜山で終戦を迎え、原爆投下直後の長崎市に戻ってきた。父は生まれたばかりの私を抱え、義父の普通ではない死をどんな気持ちで迎えたのだろうか。その父が従軍し軍隊生活を体験したためであろうか、私がまだ小学生の時だったが五味川純平の「人間の条件」を貪るように読んでいたことを思い出す。

 少し話は飛んで私が30代半ばの頃(その頃、私は公認会計士としてある監査法人に勤めていた)のことになるが、ある日父は私に対し反省的に詫びる口調で ”お前の考えが正しかった。自分の考えが間違いだった。” と話し出したことを思い出す。

 大学生の時私はヘルメットをかぶり学生運動(全共闘)にのめり込んだ、そして大学4年生(工学部)の時父にはなんの相談もしないで退学届を出した。履歴書を出してどこかの会社に就職して生きていくなどという選択肢は、当時の私の頭の中にはこれっぽっちもなかった。わずかな一歩ではあったが私は初めて独りで自分の人生の決断をした。”たいていのことはどうでもいい、たくましく生きていくのだ。” 私は自然に決意していた。

 思えば父には心配のかけ通しで、親不孝な20代の10年間だったと思う。その20代の時私は定職にも就かず住所も転々とし、しかし人並みに結婚と離婚の悲喜劇だけは演じさせてもらった。ほかの人とはかなり違った私のオリジナルな20代、特別に苦労したなどと云うつもりは全くない、普通ではない私だけのいとおしい日々であった。

 私と父とは政治的主張で真っ向から対立していた、父とは和解しないままの10年間だった。父はその事を言っているのだ。それからというものあれだけ右寄りだった父が自民党政治を批判し徐々に左傾化していった。私には父が変わっていく様子が手に取るようによく分かった。

 昭和天皇が亡くなった時、父は ”あの男はとうとう死ぬまであの戦争についての自分の責任について何も謝まらなかった。” と私にはっきり聞こえる声で怒気を満杯に含ませて言った。腹立たしい悔しさというか、あの戦争に従軍した人間にしかわからない筆舌に尽くしがたい重い感情、身中に沈殿していたもって行き場のない感情を父は腹の底から発射したのだ。一瞬だったがあの時父は紛れもなく戦中派の確信犯の姿を見せた。

 その後長崎市の市長選挙がある度に、昭和天皇の戦争責任について肯定的な発言をしていた本島等氏(1922~2014 市長4期)を支持し、推薦人名簿を集めるなど応援活動をしていた。父と本島等氏は大正11年の同年の生まれである。 <私事終わり>

 「戦友」という軍歌がある。日露戦争の時の軍歌であるがその後も広く兵隊ソングとして謳われた。歌詞は次の通り。
ここは御国の何百里/離れて遠き満州の/赤い夕陽に照らされて/友は野末の石の下
(以下14番まで続く) なるべくゆっくり謳うことが情感を増し、全部謳い終わるのに30分以上かかるという。そのメロディーが郷愁を感じさせ厭戦的だという理由で、東条英機により謳うことが禁じられた。

 私は上の小説を読み進める時、舞台が満州の場面では<赤い夕陽に照らされた満州の荒野>なるものをイメージしてしまう。それは、冬の季節では<白一色の雪原>に変わり、春夏では一面<コーリャンの緑野>に変わる。「戦友」のメロディーと映画「戦争と人間」のテーマソングも胸中時として流れる。

 私は中国の東北地方(満州)に行ったことはないし、高梁(コーリャン)の畑を見たこともない。通奏低音というか絵画的音楽的で一種詩的世界と言ってしまっては、戦争で死んでいった幾百万の人達に対し不謹慎の誹りと非難されてしまうかもしれないが、そういう気分に我が身を浸しながら本を読んだ。(かかる心情については安富歩氏が満州の成り立ちから深い検討をされている。) 

 戦争を扱った小説の読み方は人それぞれであろう。私は一つには自分に似た登場人物(主人公とは限らない)の戦争の中での生き方に注目して読む。そうすることで読み方にメリハリがつく。二つには、歴史の中の個々の事件の襞にできるだけ肉薄したいと思って読む。従って時々寄り道をせざるを得ない。

 例えば2.26事件では、「二・二六事件」中村正衛(中公新書)、「妻たちの二・二六事件」澤地久枝(中公文庫)、「獄中手記」磯部浅一(中公文庫)、「私の昭和史」末松太平(中公文庫)、「国体論及び純正社会主義」「日本改造法案大綱」北一輝、「北一輝論」松本清張(講談社文庫)、「北一輝」渡辺京二(朝日選書)、「革命家・北一輝「日本改造法案大綱」と昭和維新」豊田穣(講談社文庫)、「再発見 日本の哲学 北一輝ーー国家と進化」嘉戸一将(講談社学術文庫)、「昭和維新試論」橋川文三(講談社学術文庫)などを読んで私なりの理解を深めることになる。

 当然のことだが<北一輝>に関する本は膨大にある。あの時代に生きていたならばと考え、2.26事件に決起した若き青年将校達に我が身を重ね合わせ思わず背筋がぞっとしてしまう。遠い昔の話ではない、私が生まれるわずか10年前の日本の歴史の方向を決定づけた事件である。学者に成るわけでないが歴史をそれなりに我がものにしたいと思う。私はかかる歴史の流れの中に生まれそして生きている。”私という人間は誰であるか” という謎解きを考えるためには現代史の理解は避けて通れない。



 ………私は時々思うのだが、これまでたいして勉強らしきものをしてこなかったこの75歳の高齢者の男が、今さらそもそもそんな願望(私という人間は誰であるかという謎解き)を満たすことにはたしてどんな意味とか価値とかがあるのだろうか? その読書の成果らしきものを社会に還元しにくい高齢者が、自分一人心の中だけで満足することとははたしてどういう営為と名付ければいいのだろうか? その営為に何らかの普遍性はあるのだろうか?
 
 意味とか価値とか普遍性とかにどうして私はこだわってしまうのか? よくよく考えるとそんなものは内面的な上昇志向、承認欲求、自己満足の別名ではないのか? そんなものは全く無くても一向にかまわないのではないか。この疑問と伴走しながらの私の読書である。
 
 重度身体障害者になって10年目を迎えるが、私の興味は経済学から歴史へと移ってきた。そしてなるべく早く歴史からカンジンカナメの哲学の気になっているところに読書の軸足を移したい思っている、そうしないとそのうちボケてしまうか寿命が尽きてしまう。
 
 ………ところで何故に私はこんなにちょっと焦った風にそして自分を急かせるように考えてしまうだろうか。この事は前にもこのブログで何度も書いたことで、又蒸しかえすようだがまた同じように考えてしまう。晴耕雨読の境地に到達しえないまま、未熟にもこの高齢者の男は死ぬまでこんな感じで生きていくのだろうか。


 さて、元に戻って結論風に言うと二つの小説の主人公は誰かはっきりしない。濃淡はあるが主人公は人間ではなく「満州国」と考えたほうがよさそうである。「王道楽土」と「五族協和」を理想として唱えた戦前に現れた一種の壮大な幻想であり、しかし現実に存在したその「国家」の誕生から消滅までの歴史を作者は語りたいのだと思う。なぜなら「満州国」なくして日本の現代史はないからだ。

 五味川純平は「戦争と人間」で新興財閥五代一族とそれに関係する関東軍将校や満州人を配置して語り部とした。船戸与一は「満州国演義」で敷島四兄弟(一郎、次郎、三郎、四郎)を外交官、馬賊頭目、関東軍将校、元無政府主義者とし、かつ関東軍特務機関に所属する間垣徳蔵というミステリアスな人物を配置して語り部とした。

 登場人物はそれぞれの歴史の領域を語るために配置されたのであり、冒険物語ではないので読者が期待するような自主性や心の春秋には少し乏しいかもしれない。日中戦争・日米戦争の15年間の歴史を教科書的な歴史としてではなく、そこに生身の人間の生き死にを伴って情感豊かにその歴史の細部を理解することがかかる小説を読む醍醐味であろう。


 ところで思うに、戦前も現在もなんと情けない程愚かな時代であることか。そして浅薄な批判を踏みこえて、賢い道を切り開くことがなんと難しいことか。自分をそして自分を含めたこの社会をどうとらえるかは本当に困難を極める。歴史を知ることがその一助になればよいがそう簡単なことではない。人は本を読み呻吟し考える、その果てに何があるか、何かを獲得するか。私はその時間が徒労に終わるとは思わない、少なくとも人は思索する自分を発見する、そして ”自分の人生” を歩み始めた!と感じる。
この感動は大きい。



                                            

孫崎享氏の本を読み日米関係について考える。2019-01-04


                
           津波戸山(大分県)   2005.11.23(脊髄損傷前)                 



(前半)

孫崎享(うける)氏の次の本を読んだ。
  戦後史の正体         2015年 創元社 
  カナダの教訓         1992年 PHP研究所
  不愉快な現実         2012年 講談社
  日米同盟の正体        2009年 講談社
  アメリカに潰された政治家達  2012年 小学館
  21世紀の戦争と平和               2016年 徳間書店
  小説 外務省           2014年 現代書館
  小説 外務省 Ⅱ       2016年 現代書館
  日米開戦の正体        2015年 祥伝社

 読もうと思ったきっかけは、放送大学で面白そうな講義をチョイスして聴講していると、ある講義(国際問題)で孫崎氏の本を参考図書として推薦していたためである。興味深い内容を平易に読みやすく書いてあり何冊も読んでしまった。その関連で次の本も読んだ。

  「日米合同委員会」の研究    2017年 創元社
  誰がこの国を動かしているのか  2016年 詩想社

 これらの本は”日本の戦後の歴史の捉え方”、”これからの日本の外交のあり方”というようなことがテーマであるから、当然ながら特定の政治的な内容を主張している。孫崎氏は要約すると次の二つのことを主張していると思う。一つは"脱米"、つまりこれまで日米同盟=日米安保条約の下で「対米従属路線」を歩んできたが、その従属の程度が甚だしく国民主権は侵害されている。そこから脱却して「対米自主路線」の道を模索してみようとの主張である。現在問題になっている「辺野古基地建設」「横田空域」「オスプレイ配備」等々、米軍に特権的地位を与えているこれらの事柄は「日米地位協定」「日米合同委員会」をその根拠としているが、これに批判的立場をとっている。二つ目は官僚の志の欠如、質の低下、劣化に警鐘を鳴らしそのことを克服して欲しいとの主張である。

 事を大きくして言うと、一つ目は単に反米、嫌米ということではなく、米ソの冷戦時代が終わりヨーロッパにはEUが出現して久しくそれに中国が大国として登場し、世界の力関係が大きく変わりアメリカは唯一の超大国とはいえなくなった。これまで通り対米一辺倒でいいかどうか、日本という国家の基本的なあり方を”東アジア共同体”の視点で考えようという提起である。そのためにも現在の日米関係とはどういうものであるのかを分析し直す必要がある。

 二つ目は財務省の森友問題に関する文書改ざん事件などが示すように、官僚の側が出世(猟官)と自己保身を期待して、権力(官邸)の側に平身低頭して身をすり寄せ、人間としての誠実さも無ければ官僚としての志のかけらも無い、実に見苦しく卑しい性癖が官僚の世界全体に蔓延し亡国的状態を呈している。この克服のため歴史を研究することの重要性を指摘している。

 具体例を挙げると、戦前中国の奉天(現在の瀋陽)総領事だったあの吉田茂は、満州での日本の権益を強力に主張して田中義一(陸軍大将)内閣に自分を売り込み、1928年外務次官のポストを獲得した。このこともあって以後外務省は陸軍の張作霖爆殺(1929年)、満州事変(1931年)、満州国建国(1932年)から日中事変(1937年)、日中戦争への流れを有効にくい止めることができなくなってしまった。このような歴史で中国を侮蔑的に見ていた吉田茂が果たした役割は決して小さくない。

 そしてこの流れから真珠湾攻撃(1941年)から第二次世界大戦へと、戦略なき絶望の道に突き進むことになる。官僚が自らの利益を得る(つまり出世する、利権を獲得する、自己保身を図る)ために短絡的に判断し、結果として国を滅ぼすに等しいことをしてしまうのは嘆かわしい限りである。そして相も変わらず現在もまた今までと同じようにこのことが繰り返されている。

 私は日本の政治権力の実体は人事権だと思っている。日本の官僚と司法の人事権を誰が握ってきたのかを歴史的に検証することは重要である。人事院人事官と最高裁判所判事の人事が官邸主導になっていないか、三権分立が有名無実にならないように注視し続けなければならない。上に述べた人事が特にニュースにならないからといって問題がないということにはならない。(検察は法務省の行政機関である。)

 こういう類のことをこのブログで書くと何かと誤解される元になるので、ここでとり上げるのを止めようかとも思ったが、孫崎氏の本は客観的なデータと参照した文献を示して自らの見解を述べ、筋道立っておりとり上げるのに値すると思った。勿論、右からも左からも氏を批判する人達がいることも十分承知した上での判断である。氏の本でとりあえず一冊選んで読むとしたら、ベストセラーの「戦後史の正体」がいいと思う。

 孫崎氏の主張はよく理解できるがこれまでの世界の歴史の流れを見ると、世界の覇者は大航海時代のスペイン・ポルトガル(重商主義)からオランダ、さらに産業革命を経たイギリスそしてアメリカへと移りそれが現在まで続いている。第一次世界大戦、第二次世界大戦の結果を見れば分かるように、いい悪いは別にしてここ2~3世紀の世界はアングロサクソンを中心に動いてきた。従ってアングロサクソンに同調していけば日本の外交は大筋間違ったことにはならない。

 下手に「対米自主路線」をとってアメリカから警戒視されて薄氷を踏む危険を冒すより、米軍へ基地を提供するなどのコストは少々かかるが、「対米従属路線」をとる方が賢いのではないか。その方が日本という国が世界の難しい力関係の中で、安全で大過なく生きていくための外交の本筋ではないか。アメリカと共に歩むことが日本が栄える道……… これがもう一方の見解である。

 この見解は戦後すぐに吉田茂が敷いた路線であり、説得力があり日本人の中でけっこう根深い考え方とも思える。しかしそれは現実には憲法と三権分立の上に米軍が君臨することであり、そうなってはもはや日本は独立した国家の名には値せず、国民の主権が侵害され国益が損なわれること甚だしい。

 孫崎氏の略歴は本の巻末によると次の通りである。
1943年、旧満州国鞍山生まれ。66年、東京大学法学部を中退し外務省に入省。英国、米国、ソ連、イラク、カナダ駐在を経て、情報調査局分析課長、駐ウズベキスタン大使、国際情報局長、駐イラン大使を歴任。2002年から防衛大学校教授に就き、09年に退官。

 右派か左派か、保守か革新かという色分けは現実的解決が要請される外交問題に関してはあまり有効だとは思わない。外交は相手国と交渉して自国のために具体的な成果を出すことである。そして、偏狭なナショナリズム(例えば、極端な自国第一主義、ISのイスラム原理主義、難民に対する排斥運動、ネオナチズム、ヘイトスピーチ、軍国主義的言動など)に陥ることを避け、第一次世界大戦、第二次世界大戦のような時代の再来を防がなければならない。

 孫崎氏は経歴を見れば分かるように、氏はキャリアの外務官僚でいわゆる”情報屋“であり、左派・革新に分類されるような人ではない。しかし集団的自衛権や特定秘密保護法などの安倍政権の時代錯誤的な動きに対しては、戦前の真珠湾攻撃に至る史上最大の愚策の歴史に酷似しているとして反対の立場を表明している。

 孫崎氏は言う。外交はきれい事ではなくスパイや不審死をも厭わず謀略をも駆使する。しかもこの謀略は決して表立って明らかにされることはない。これは世の中の出来事をマスコミが報道する通りに理解するのではなく、テレビや新聞等のメディアもまた謀略の対象であり、時として権力の側に立って謀略に加担するメディアもあり、ことの真相は別の所にあるかもしれないと疑った方がいいことを意味する。

 具体例を挙げると、日米開戦の真相、吉田茂の評価、60年安保闘争と岸信介の評価、田中角栄とロッキード事件、小沢一郎の政治資金規正法問題、東京地検特捜部、北方領土や尖閣諸島問題等々、いずれもアメリカとの関係をぬきには考えられない事柄であり、それぞれマスコミ主導の定着した評価があるようだが、ことの真相は普通に考えられている所とは別の所にあると孫崎氏は示唆している。

 私も思い出してみると、例えば40年以上前のことだがテレビのニュースでロッキード事件の報道を見て、田中角栄の金脈問題は実にケシカラン話だ、政治家はもっと襟を正して清潔であって欲しいと単純に憤慨したことを覚えている。大衆の素朴な倫理観や正義感は社会を根底から支えるインフラであり、従ってそれを否定的にいうつもりはないが、謀略はそういうものをも巧みに利用し煽動して目的を遂げる。田中角栄はアメリカの謀略で潰された、これが孫崎氏の見解である。

 孫崎氏の歴史の見方はいわば一種の謀略史観であると思う。戦後の日米関係は日本人の文化や生活様式の隅々にまで広範囲かつ全面的に影響を及ぼし、一方で米軍基地もあれば他方でディズニーランドもあるというような状況が複雑に錯綜している。従って謀略史観だけで日米関係を正しく理解できるとは思わないが、私にとっては目から鱗が落ちるような視点であり大いに役に立った。

 謀略により恐怖感を植え付けられた日本の高級官僚達は、心理的にアメリカに対する隷属状況から抜け出すことができない。反米的言動をとると自分の官僚としての将来がないことをよく知っている。その見せしめ的な先例もたくさんある。国益よりも自己保身を優先させる志を忘れた見識なき日本の高級官僚達と、アメリカとの秘密合意と密約による政治が横行している。

 例えば先ほど述べた「横田空域」は航空法などの国内法にも「日米地位協定」にもその根拠がない。「日米合同委員会」で合意したというだけであり、その内容は立法の府である国会にも明らかにされてはいない。1都8県にまたがるその広大な空域から日本の民間飛行機は締め出されている。首都の空が治外法権で他国に支配されているというのは先進国では日本だけである。何のことはない、戦後すぐの米軍の占領政策の継続を日本の高級官僚が今もなおそのまま認めているだけの話である。米軍の占領はサンフランシスコ平和条約(1952年)で終わったはずだ。「日米地位協定」と「日米合同委員会」のカラクリを我々は知らなければならない。

 日本統治の法体系が憲法体系と安保法体系(憲法と国内法の中に治外法権ゾーンを作り出している種々の特別法・特例法、例えば航空法に対する航空法特例法や土地収用法に対する土地等使用特別措置法など)という二重構造になっており、その矛盾を明らかにすることが日本の戦後史と現在の日本社会を解明することにつながる。
 
(後半)
 少し話の視点は変わるが、”似改善策”を示して幻想を振りまく勢力に人びとがいともたやすく騙された歴史を我々は知っている。第一次世界大戦の敗戦で巨額の賠償金に苦しんでいたドイツは、領土拡張と反ユダヤ主義という擬似改善策を掲げたナチス(国家社会主義ドイツ労働者党)にまんまと引っかかってしまった。その後の歴史は知っての通りである。擬似改善策は素朴なナショナリズムに善人面をして囁きかけ、短期間で物事が改善されるような一見威勢のいい幻想を振りまき、人びとを悪魔のような暴力的な世界へと引きずり込んでしまう。

 1929年から始まった世界恐慌には日本も苦しんだ。今思うとあの満州進出というのは擬似にすぎなかったのだが、日本人はそこに当時の経済的困窮の改善策を、そして日本の未来がバラ色に輝いているような幻想を見てしまった。関東軍の満州侵略はその擬似改善策の実行(「満蒙は日本の生命線!」)だったが、大多数の日本人は幻想に迷わされそれが本当の改善策のように見えてしまい、似て非なる擬似であるということを見破る力をもたなかった。

 そしてあの敗戦という悲惨な結末に終わってしまった。悪いのは当時の政府と官僚と軍部の上層部とマスコミ(新聞とラジオ)であって、我々庶民は戦争の被害者だという言い方がよくなされる。それは確かに事実である。しかし被害者意識から一歩も抜け出ようとせず、ただ糾弾するだけという居心地のいい立場に安住するという姿勢には私は少し疑問を感じる。言っていることは間違いではないが、ずっとその姿勢のままでいいのだろうか。擬似改善策に惑わされた歴史を見直し、なぜそうなってしまったのかと自責と自戒の念を込めて粘り強く問い直すという次の作業が必要であると思う。

 軍部独裁の恐怖政治の下で、人びとの政治的な選択の自由はほとんどなかった。しかしどんな政権であっても人間の心の奥まで究極に支配することはできない。内心はその人に属する最後の固有なものである。他者がその人の命を奪うことはあっても、その人の内心を奪うことはできない。

 庶民一人ひとりは心の中でどう考えたのだろうか。戦争へと突き進んで行く流れに何も考えずただ流されただけなのか、知らず知らずのうちにラジオと新聞の報道に騙されてしまったのか、自己保身と役得から自ら望んで騙されたいと思ったのか、仕方なく騙されたふりをしただけなのか。少し言い方を変えると内心と実際の行動との間に乖離はなかったのか、あったとすればその内心とはどういう内容だったのか。もう少し平たく言うと、日本が他国である満州に侵略することに心の中で何かしら引っかかるものを感じなかったか、感じたとすれば………………。

 戦前の1930~40年代の日本に私が生きていたとしたらどんな生き方ができたであろうか。私は満州侵略にはおそらく心の中で何かしら引っかかるものを感じたのでないかと思う。そして軍部独裁の日本の政治はどこかおかしいのではないかとも思ったのではないか。日米開戦では国力が圧倒的に大きいアメリカと戦争しても、勝つ見込みはないと常識的に判断したと思う。しかしそのことを声高に主張して憲兵や特高ににらまれ、一人犬死にするような道は選ばなかったと思う。死んでしまったらそれで終わりだ、とにかく生き延びることだ、戦争が終わるのを待とう、普通にそう考えたと思う。そしてそのために「面従腹背」という処世術を選択したと思う。

 世の中に対する認識のレベルは色々あったと思うが、結構多くの日本人が「面従腹背」して生き延び敗戦を迎えたのではないだろうか。卑怯で後ろめたい響きのある「面従腹背」であるが、次の時代に向けてエネルギーを貯めているのだという決意表明のような感じもする。その「面従腹背」は戦時中は組織化されることはなかったが、私はそれが日本の戦後を深層で本質的に準備したのではないかと思う。しかし、ともかくも歴史は擬似改善策に流れていった。

 戦後70年以上経ち、あの戦争はずっと前の世代のことで我々戦後世代には関係ないという空気があるが(日本が戦争をしたということを知らない世代も出てきている)、はたしてそれでいいのだろうか。同じ日本人として少なくともあの戦争からは何かを学び取らなければならない、そうでないと我々戦後世代は浮ついて"平和と民主主義"と唱えるだけで、確固とした考え方をいつまでも持ち得ず、大国の動きに右往左往するだけの軽薄な民に成り下がってしまう。擬似改善策なるものは幻想を振りまき、さもまっとうであるという顔をして今も飛び回っている。それはおかしいときちんと見破り、付和雷同して追従してはいけない。戦前も戦後もそして現在も日本人がそれに騙されるレベルの人間達であるならば、結局そのレベルの世の中しか訪れない。

 当時(戦前の1920年代~1940年代)の真正の改善策は、石橋湛山が一貫して主張していた「小日本主義」(朝鮮、台湾、満州、樺太の植民地を放棄して軍備の負担を軽減し、英米とも友好関係を維持して貿易を盛んにし加工貿易による通商国家として生きるという道)であったと私は考えている。植民地経営はコストがかかりすぎて経済的に割に合わない、貿易立国の方がはるかに豊かになれる。石橋湛山はそのことを論理的に説明し、「大日本主義」ではなく「小日本主義」こそが日本が進むべき道であると説得し続けた。石橋湛山はもっと評価されて然るべきジャーナリストであり政治家(鳩山一郎のあと1956年総理大臣になるが、アメリカとの確執もあり65日の短命内閣に終わる)であると思う。歴史に対する無知を克服してもっと賢くならなければ何も始まらない。

 アメリカの圧力にどう対処していけばいいのか、三国同盟を結んでいた同じ第二次世界大戦の敗戦国であるドイツ、イタリアもNATO軍(アメリカ軍)基地を抱えて戦後苦慮したが、住民も官僚も政治家も粘り強く交渉して、アメリカとの一方的な不平等関係(治外法権など)を克服してきた。

 カナダは地理的・経済的関係から建国以来ずっとアメリカの一つの州として併呑されてもおかしくなかったけれども、毅然として自主外交の姿勢を貫き通してきた。イラク戦争ではサダムフセインのイラクには大量破壊兵器があるというアメリカの主張に対して疑問を投げかけ、国連決議がないと動けないとしてイラク派兵を拒否した。アメリカとの関係も大事であるが、国連決議等の合法性の方ががより重要であるというカナダ外交の一貫性を示した。(フランスもドイツも同じく派兵を拒否した。)

 日本では小泉純一郎が唯々諾々とブッシュの言いなりになってイラク特措法を成立させ、陸上自衛隊をイラクに派遣したのとは好対照である。結局、大量破壊兵器は発見されなかった。どちらの立場の国が国際社会で信頼されるかは明らかである。アメリカの圧力を克服してきた諸外国の例を、日本の政治家と官僚は事なかれ主義から脱してもっと真剣に研究し見習うべきである、勿論我々一人一人も、と孫崎氏は主張している。

 私は孫崎氏の本を読み、1973年9月11日南アメリカのチリで起こった軍事クーデターのことを思い出す(「9.11」)………チリでは世界で初めて選挙で合法的に社会主義政権が誕生していた。それに反発していたアメリカ(ニクソン=キッシンジャー)はCIAの謀略により軍事クーデターを起こして、アジェンデ社会主義政権を倒してしまった。その後は虐殺・拷問・監禁というピノチェト軍事政権による反動の嵐が吹き荒れ多くの血が流された。理不尽極まる話である。1972年の沖縄返還(佐藤政権)と日中国交回復(田中政権)の後で、私がまだ20代の頃のことだった。

 ニクソン=キッシンジャーはベトナム戦争の終結に動いている一方で、南米では非人道的なことをしていた。アメリカから嫌われると、たとえ選挙で勝って成立した合法的な政権であろうとも、謀略によりいともたやすく倒される。認めたくはないがそれが歴史の現実であるといやが上にも知らされた。戦後の歴史を検証すると日本もこの例外ではなかったことがよく分かる、そして21世紀の現在の日本もまた同じである。

 アメリカは自由と民主主義の国ではないのか、という反論がありそうだ。私はアングロサクソンの近代国家つまりイギリスとアメリカは双頭の動物ではないかと思うことがある。一つの頭は確かに自由と民主主義であるが、もう一つの頭は謀略と覇権である。一つが実の顔で、もう一つは仮面であるというのではない、二つとも実の顔である。自由と民主主義の国は謀略を駆使しないし覇権を求めないというのはただの願望に過ぎない。自由と民主主義の国は歴史的に見て紛れもなく戦争国家であったし、現在でも間違いなくそうである。あの野蛮な阿片戦争をしかけたのはどこの国であったか、何の罪もない人びとの上に原爆を落としたのはどこの国であったか、そして今も中近東のイスラム社会で戦争をしているのはどこの国であるか。

 翻って、そもそも自由と民主主義の国は自国の中に謀略と覇権を禁止する(少なくともコントロールする)仕組みを作ることができるのであろうか。一つは自衛権の問題であるのだが、自衛のための戦争を認めてしまうと自衛のための謀略を認めざるを得ない。二つは国際的な経済競争の問題である。情報戦争に勝利した国が国際的な経済競争を有利に展開できる、その情報戦争には謀略は不可欠であろう。謀略と覇権のコントロールは一国だけでは難しい問題であると思う。ASEAN(東南アジア諸国連合)のこれからの動きが解決の糸口を示すかもしれない、注目して見てみよう。

 アメリカとの関係だけでなく、近隣諸国との外交問題もほぼ毎日のようにマスコミで報道されている。近頃では、ロシアとの北方領土返還問題、北朝鮮との拉致問題、韓国との慰安婦・元徴用工問題と竹島問題、中国との尖閣諸島問題などであるが、マスコミの論調を無批判に受け入れて感情が先に立ち、相手国が一方的に悪いと憤慨しているだけに終わってはいないか自省する必要がある。

 うっぷんを晴らすとその時はすっきりした感じになるが、相手国との間では何もいいことを生み出さない、いや相手国の政府と国民に反感を植え付けるだけである。数年前日系のデパートを荒すなどの中国での反日暴動を見て、大半の日本人がそう思ったはずだ。攻守立場を入れ替えて同じことがいえる。例えば、韓国の元徴用工問題で相手国に非があるように感じてその非を声高に非難していると、知らず知らずのうちにこちら側が偏狭なナショナリズムに落ち込んでしまう、そしてそれが憎悪に変わっていく。このことに無自覚でいることが恐ろしい。元徴用工問題はそんなに簡単に片付く問題とは思えない、自分がその立場だったらと考えてみるとすぐ分かることだ。嫌われる日本、嫌われる日本人になってはいけない、こちらの視点の方が重要だ。近隣諸国に嫌われるというつけがどれ程高くつくか、我々日本人は敗戦から今までいやというほど知らされてきたはずだ。近頃のニュース報道を見ていてつくづく思う。

  少し本題から離れるが、古い本だが五木寛之の「戒厳令の夜」が面白い。チリのクーデターのことを書いたので思い出した。その本の中で出てくる、パブロ・カザルスの「鳥の歌」(スペインのカタロニア民謡)がいい。


  


「また、桜の国で」(須賀しのぶ著 祥伝社)を読む。2018-07-20


        
          剣岳   2006.08.26(脊髄損傷前)


 1938年(昭和13年)秋、主人公・棚倉慎(まこと)はワルシャワの在ポーランド日本大使館の書記生として赴任するため、ベルリンからワルシャワまでの夜行列車に乗った。車中でユダヤ系ポーランド人の青年がドイツのSS(ナチス親衛隊)に痛めつけられている場面に出会い、正義感から中に入ってその青年を救出する………壮大な物語はここから始まる。慎は満州にある外務省の哈爾浜(ハルピン)学院で、ロシア語、ドイツ語、ポーランド語を学び外交官になっていた。日本に亡命した植物学者のロシア人の父と日本人の母との間に生まれたハーフで、顔かたちは父方のスラブ系の血を引いた27歳の青年である。

 ナチスによるチェコスロヴァキアのズデーテンの割譲(1938年)から始まり、独ソ不可侵条約とポーランド侵攻分割(1939年)、アウシュビッツ収容所(1940年~1945年)、カティンの森事件(1940年)、リトアニア領事杉原千畝のユダヤ人救出(1940年)、ワルシャワのユダヤ人ゲットーの蜂起(1943年)等を織り交ぜてワルシャワ蜂起(1944年)に至るまでがこの小説で綴られている、いわば凝縮された東ヨーロッパにおける第二次世界大戦史である。

 慎は9歳の時、東京の自宅で偶然ポーランド人のシベリア孤児カミル(10歳)と出会う。18年後、慎が在ポーランドの日本大使館勤務となった時にこのポーランド孤児達も同じ年頃の青年となっていてワルシャワでの交流が始まる。この部分は作者のフィクションの感じもするが似たような歴史上のモデルがあるのかもしれない。この青年達の友情と交流は重い歴史の中で抒情的な旋律を奏でていて感動的である。

 この小説を読んでいる時、サッカーワールドカップで日本対ポーランドの試合が行なわれていた。テレビでは対戦相手のポーランドが大の親日国であり、そうなった歴史的経緯を紹介していた。私はこの小説を読むまでその歴史を知らなかった。

 ポーランドという国は世界地図から二度消滅した歴史をもっている。二度目はよく知られているように、第二次世界大戦中のナチスドイツ(ヒトラー)とソ連(スターリン)による侵攻分割で、この時代がこの小説の歴史的舞台である。最初の消滅は、18世紀末ロシア、プロイセン(ドイツ)、オーストリアの三国による分割で、それから第一次世界大戦が終結するまで100年以上にわたり隣国の強国に蹂躙されてきた。帝政ロシアに支配された地域ではポーランド語を使うことが禁止され、徹底的に反ロシア活動が封じ込められた。自国の独立のために戦った多くのポーランド人が逮捕され極寒のシベリアに抑留されて強制労働に従事させられた。1918年のロシア革命で帝政ロシアは消滅しソ連が生まれたが国内は内戦状態に陥ってしまった。当時シベリアには10万人以上のポーランド人が生活していたが、深刻な飢餓状況に陥り疾病が蔓延し生活は凄惨を極めた。特に親を失った孤児達は悲惨な境遇になりその救出は火急を要する人道上の問題になっていた。しかし、アメリカ、イギリスをはじめ欧米諸国は要請されたがこの救出には動こうとはしなかった。

 唯一日本だけが手を挙げ、1920年(大正9年)から1922年(大正11年)にかけてウラジオストックから敦賀港経由で765人のシベリア孤児達を受け入れた。原敬内閣の時である。当時日本はお世辞にも経済的に豊かな国とはいえなかったが、官民一体となって孤児達を救出し東京と大阪の快適な施設に迎え入れて生活させた。孤児達はシベリア生まれでまだ母国を見たこともなかった。中にはポーランド語を話せない子供もいた。このためポーランド人の大人60数名が呼び寄せられ、また多くの日本人の看護婦は献身的なお世話をした。若き看護婦が腸チフスに感染し殉職している。着る服も無く栄養失調で腸チフスが蔓延していたが、孤児達は徐々に栄養をつけ健康状態は改善していった。そして独立間もないポーランドへと無事送り届けられた。

 この事について平成5年から4年間ポーランド大使を務めた兵藤長雄氏は回顧して次のように述べている。https://shuchi.php.co.jp/article/1812 https://shuchi.php.co.jp/article/1812?p=1

 シベリア孤児達はポーランドに帰ると孤児院で生活を始めた。その中の一人、イエジはやがてワルシャワ大学を卒業し、自らの子供時代と重ね合わせるように孤児院を経営し、また、かってのシベリア孤児達600人以上を組織して極東青年会という団体を作り親日の友好活動を展開していく。さらにワルシャワ蜂起までの対ナチスのレジスタンスを闘い抜いた、そのイエジの活躍はこの小説でも詳しく取り上げられている。 

 戦況の悪化でポーランドの日本大使館は閉鎖を余儀なくされ、慎はソフィアの在ブルガリアの日本大使館勤務となった。日本はドイツ、イタリアと三国同盟を結んでいたが、慎は再度ポーランドへ行きイエジの指揮下に入り対ナチスのワルシャワ蜂起に参戦する。ドイツ軍はスターリングラードの攻防などでソ連の赤軍から攻め立てられ敗走を余儀なくされていたが、態勢を立て直してワルシャワ蜂起を鎮圧する。ソ連の赤軍はワルシャワを南北に流れるヴィスワ川の東岸まで迫っていたが、なぜかドイツ軍と戦おうせず、ワルシャワ蜂起に立ち上がったポーランド国内軍と市民を援助せず見殺しにしてしまった。戦後のポーランドの政治的支配を狙ってドイツ軍とポーランド国内軍が消耗して共倒れするのを待っていたとも云われるが、ソ連(ロシア)側の資料が公開されておらず真相は現在までよく分かっていない。ワルシャワ蜂起でのポーランド人の死者は軍民合わせて20万人、第二次世界大戦での死者は600万人と云われている。

 終章。1956年(戦後11年)ポーランド系アメリカ人となっていたカミルは東京にいる慎の父を訪ね、ワルシャワ蜂起で勇敢に戦った慎の最期を報告した。それを聞いて胸の奥深く詰まっていたものが腑に落ちたのだろうか、慎の父はレコードをかけた………ショパンの「革命のエチュード」である。まだ子供だった36年前、カミルと慎が秘密の約束をしたあの時もこのピアノ曲が流れていた。

 私は何度もこのピアノ曲を聴きながら、この小説を読み進めた。1830年、ウィーンにいた20歳のショパンは、祖国の独立に蜂起したポーランド人がロシアから攻撃されワルシャワが陥落したという報せを受け失望し落胆した。その時のほとばしる熱情を叩きつけるようにこの「革命のエチュード」に込めたと云われているが真偽の程は明らかでない。
 
 (追記) 連想ゲーム的に次の本を読み映画を見た。
「夜と霧」 V.E.フランクル著 みすず書房
「アウシュヴィッツを志願した男」 小林公二著 講談社
「灰とダイアモンド」 アンジェイ・ワイダ監督
「カティンの森」 アンジェイ・ワイダ監督



高橋和己「邪宗門」を読む。2015-07-25

(写真の説明)
福万山(湯布院の近く)のエゴノキの並木
2005.6.5(脊髄損傷前)



夕暮れ時、小児マヒの少女を背負って老婆が家路を急いでいた。そのとき、川辺の草むらの中に子供の足が伸びているのが、視野の片隅にとらえられた。老婆は早く家に帰りたい気持ちで、見て見ぬふりをして通り過ぎようとした。すると突然、老婆の足は呪文をかけられたように動かなくなった。老婆は行き倒れの子供を見捨てようとした、罰が当たったのだ、自分の信仰心の至らなさを恥じた。老婆は畦道に金縛りになった姿勢のまま泣いた。一人の行き倒れを助けては一人の食扶持を減らさねばならぬという、自分の醜い心に涙を流した。老婆は新興宗教「ひのもと救霊会」の信者だった。

こういうくだりから始まる「邪宗門」は、昭和初期から敗戦直後までの約20年間の物語である。読み進めていくと、国家権力により大正末期から昭和初期にかけて2度弾圧を受け、壊滅に追いやられたある新興宗教を想起する。地名や人名の類似性も、京都の北部の山合いの盆地で起こったその新興宗教の事件を下敷きに、この小説が書かれたことを推測させる。

以下は、大正中頃から敗戦直後までの日本の主な出来事だ。本小説を理解するのに役立つと思う。

1919年 パリ講和会議・ベルサイユ条約
1923年 関東大震災
1925年 治安維持法施行
1929年 世界大恐慌
1931年 満洲事変
1932年 満洲国建国、5・15事件
1933年 国際連盟脱退
1936年 2・26事件
1937年 日中戦争始まる
1941年 太平洋戦争始まる
1945年 広島・長崎に原爆 、ソ連対日参戦、 ポツダム宣言受諾
1946年 日本国憲法公布
1947年 2・1ゼネスト中止

イギリス・フランスは、第一次世界大戦で敗北したオスマン帝国を解体し、今のアラブ世界の国境線を自分らの都合のいいように決めた。そこから、現在のクルド人問題、IS(イスラム国)の問題が始まった。同じく敗北したドイツの戦後処理を決めたベルサイユ条約(1919年 大正8年)は、ナチスドイツを生む一因となった。 中国ではベルサイユ条約に反対して「五・四運動」が起こった。現在の中国の原形はそこから生まれた。日米関係もこのころから険悪化していく。

現代史の始まりは戦後というより、その20数年前のパリ講和会議・ベルサイユ条約あたりと考える方がしっくりいくと思う。そして、「邪宗門」はまさにこの現代史の始まりあたりから物語が展開していく。

私は1946年(昭和21年)の戦後生まれであるが、この時代の日本つまり軍国主義と徴兵制の世の中に生きていたならば、自分はどんな生き方をしただろうかとよく考える。これは自分とは何者なのかと問うこととほぼ同義である。身体障害者になってから、この問いは益々私に迫ってくる。


さて何故「邪宗」なのか、その教えとは何か。今年は戦後70年にあたる。現実の戦後はGHQによってその基調が決められたが、著者が本小説で構想したもう一つの戦後は示唆に富む。そして「邪宗」である教えの内奥が明らかにされていく。

難解な漢字が多く、三部から成る長編なので読み終えるのに骨が折れる。しかし、読了したあなたは自分の心の在り様が今までと違っていると感ずるはずである。その証拠に、これまで小事に立腹しイライラしていたあなたは、たいていのことは笑って済ませることができるようになる。一方どうでもよくない大事なことに対して、自己保身から安易に妥協していたが、それではよくないと粘り強く追及するるようになる。笑って済ませることと、どうでもよくない大事なこととを区別する基準がはっきりしてくる。自分自身のとらえ方、世の中の見え方が違ってくるはずである。私はそれを精神のポテンシャルが高くなったと表現する。

若い時読んだ本である。再読して深い感動は変わらなかった。1965年~1966年(昭和40年~41年)、高橋和己35歳のときの作品(河出書房新社)である。その4年後39歳の若さでがんで死んだ。生きていれば80歳半ば、今の世の中を見て何と言うだろうか、忘れられた感のある高橋和己であるが甦らせたい人である。