坊さんは儲かりますか? ― 2024-12-18
子供の頃の私をがんじがらめにしたのが、小学校と中学校の学校教育で教えられた「健全なる精神は健全なる身体に宿る」という標語である。恐ろしく脅迫的なこの標語は私の骨の髄まで浸透し、それ故私の物事の考え方はいびつで奇形的な姿になってしまった。この歪んだ心情は思春期の頃がピークでその後克服しようと務めたがしぶとく今に至るまで生き残っている。私はこの10数年間この標語を敵として徹底的にやっつけてやろうと心に決めて考えを巡らせてきた。
どんなにがんじがらめになったか? 私は先生の謂うことをよく聞く至極真面目で成績優秀な子供、つまり優等生であった。先生の謂うことは100%正しいこととして受け入れ、疑うなどとは夢にも思わなかった。従って、小学校3~4年生の頃だったがこの標語を教えられたとき、体格が少し虚弱であった私は生まれて始めて劣等感のようなものに襲われてしまった、もしかして私には〈健全なる精神〉は宿らないのではないかと。
おまけに私は運動神経なるものがすこし鈍く特に球技なるものが大の苦手であった。当時は小学校低学年の時にはドッジボール、高学年になるにつれてソフトボールが男の子の小学校時代の2大球技であった。その球技から逃げることはしなかったが、なにしろからっきし駄目でその時の私は級友たちの間でほとんど存在感がなかった。
ご存じの方も多いと思うが英語では「a sound mind in a sound body」というらしいが、上のような日本語をあてはめるのは誤訳であるという説もある。元々は古代ローマの諷刺詩人・弁護士であるデキムス・ユニウス・ユウェナリス(60ー128)という人が残した諷刺詩である、そこで「古代ローマの諷刺詩集」国原吉之助訳(岩波文庫)を読んでみたが、日本語の標語のような意味はない。
この時代錯誤的な標語には特定のイデオロギーの匂いがついて離れない。戦前の軍国主義下で青少年を戦争体制に組み込む目的で声高に語られたのがこの標語である。それとなくしかももっともらしく内面から青少年を戦争に駆り立ていった役割は許せない。それが戦後も無批判に継承されたのである。
警察が正義を語り、教育者が健全なる精神を語るとき世の中は危うくなっていると思わなくてはならない。アインシュタイン曰く「常識とは18歳までに寄せ集められた偏見の固まりである。」大賛成である。盲目的に健全なる常識になるものを良しとして疑わず凝り固まっただけの人を見ると、それもその人の選びとった人生ではあろうが私は複雑な気持になり少し悲しく思う。
話変わって、家内の祖父の善一じいちゃんがまだ生きている頃のことだからもう4
0年も前のことになるが、何の法事の時だったかは忘れてしまったが、お経が終わってお坊さんに一服の茶と菓子を差し出してまもなく、善一じいちゃんがいかにも飄々たる口調で「お坊さんは儲かりますか?」と話しかけた。その時善一じいちゃんは80歳位でお坊さんはまだ若く30歳半ばだったと思う。お坊さんは新興の開拓された町のほうに移り住んでいるということで、そこからわざわざこの滑石という長崎のはずれにまでお経を詠みに来られていた。新興の開拓された町だと儲かると思って移り住んでみたのですが想うようには儲かりません、というような話を坊さんもとぼけた調子で善一じいちゃんに合わせて応じた。
善一じいちゃんの一家は戦前台湾の台北に住んでいて、数人の現地の人を雇い手広く裁縫屋を営んでいた。そこそこ財産も貯まっていたそうだが、終戦後内地(長崎の思案橋)に引き揚げる時には財産は台湾に置いたまま躰一つになるほかなく無一文になってしまった。それからというもの善一じいちゃんは全く働かず朝から夕方まで浦上の水源地に行って魚釣り三昧の生活を送るようになったという。長崎でも始めた裁縫屋の仕事はもっぱら妻のケサばあちゃんに任せっきりだったらしい。これが私の一家の家内側のルーツのいったんである。
私はまだ30歳後半だったと思うが、その時の善一じいちゃんの飄々とした語り口が今以て忘れられない。私も年齢を重ねるうちに、あの善一じいちゃんのようなこの世の内か外か分からない世界で生きているようなしゃべり方をしたいものだと思うようになった。78歳になり80歳まであとわずか、私にはまだあのとぼけた語り口はなかなか話せない。これは私の人生の目標といってもいい位の重要な事柄である。頑張るとか頑張らないとかいう世界を乗り越えてしまった、世離れした幸福の極地とでもいうような感覚に私も早く溺れたいものだと願っている。
75歳を超えた頃よりそれまでと比べると体力がかなり落ちたようだ。年令を考えるとそれで自然なことだ、持病があって苦しまないだけよしとしなければならないとは思う。小中学校で習った〈健全なる精神は健全なる身体に宿る〉がいかにデタラメでいかに人の心を蝕む危険な害毒であることか、これでは障害者は浮かばれないし老人も浮かばれない、他方屈強な肉体を持ちながら邪悪な心を秘めた人間のなんと多いことか。
〈健全なる精神〉などというものはこの世の何処にもない、同じように〈健全なる身体〉というものもこの世の何処にもない。そんなことはちょっと考えるとすぐ分かることだったはずだ。しかし大上段に語られるとそんな嘘ももっともらしく感じられてしまう。私にあるのはあの善一じいちゃんの語り口へのあこがれである、あるとすればこれが私の〈健全なる精神〉である。
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