五味川純平「戦争と人間」、 船戸与一「満州国演義」 を読む。2021-10-20

 
  劔岳北方稜線より早暁の鹿島槍(双耳峰)を遠望(2006.08.27 脊髄損傷前)



 50年以上前のことだが受験勉強中心の生活から解放されて大学1年生の時、かっての超ベストセラー 五味川純平の「人間の条件」を読んだ。このたびかねてから読みたいと思っていた五味川純平の「戦争と人間」と船戸与一の「満州国演義」を読んだ。2冊ともに長い小説である。長編小説としてよく読まれているドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」と比べると、二つとも2倍以上の長さである。

 これまで昭和史の本を読んできたが、1930年前後に国内の世論は満州事変支持へと大きく傾いた。政府・軍部による世論操作にもより、日本国内の中国に対する侮蔑的なナショナリズムは大衆的レベルにまで沸騰し、更に経済が最悪の状態にまで逼迫したことにより、日本は満州国を建国し戦争必至への道へと大きく旋回してしまった。

 日露戦争(1904~1905)、辛亥革命(1911~1912)、第一次世界大戦(1914~1918)、ロシア革命(1917)に続いて、1930年前後の国内の主な動きは以下の通りである。

 1927(昭和2)金融恐慌 第1次山東出兵 東方会議   第一回普通選挙
 1928(昭和3)3.15事件 済南事件 張作霖爆殺事件 改正治安維持法
 1929(昭和4)田中義一内閣→浜口雄幸内閣  軍縮財政 世界恐慌 
 1930(昭和5)ロンドン軍縮会議→統帥権干犯問題 台湾霧社事件 
        浜口首相狙撃 農業恐慌 間島朝鮮人武装蜂起
 1931(昭和6)3月事件 中村大尉事件 万宝山事件 満州事変 10月事件
 1932(昭和7)犬養毅内閣 第1次上海事変 満州国建国 血盟団事件 
        5.15事件 リットン調査団報告
 1933(昭和8)ヒットラードイツ首相に 国際連盟脱退 滝川事件 神兵隊事件

 その後、2.26事件(1936)から 日中事変(1937)、ノモンハン事件(1939)、日独伊三国同盟(1940)、太平洋戦争(1941~1945)、ポツダム宣言受諾(1945)へと奈落の底にまっしぐらに突き進んでしまう。

 <大きく旋回した>という上の理解はとりあえず間違ってはいないと思うがもう少し大局的に見ると、清がアヘン戦争(1840年)でイギリスに敗北し、ペリーの黒船が日本に来航(1853年)した頃から東アジアの大きな激動が始まった。幕末・明治維新から太平洋戦争敗北(1945年)に至るまでの約100年間の急激な日本の動きも、<欧米列強の植民地主義と東アジアの近代化とナショナリズム>という大きな歴史のうねりの一部として理解する方が分かりやすいと思う。

 さらに歴史を大きく俯瞰すると<欧米列強の植民地主義>の傷痕は今なお世界の到る所で生々しい現実を晒しており、<近代化とナショナリズム>の内容は複雑で時代とともに変化して一様ではなく批判的に検討しなければならない面もあるが、世界を見渡すと今もって貧しい民衆の群が社会の底辺でうごめき、民族間の戦争・紛争は止むこと無く何処かで勃発している。その一方で欧米の飽食している人間が飽くことなく世界の富を支配し続けている。

 戦前のこの波乱に富んだ激動の時代(1931年の満州事変~1945年の敗戦)はすでに過去のものであるが、その時代に生きていたならばどんな気持ちで生きていただろうかと考えられずにはいられない。時間が濃密に凝縮した<侵略と自衛>というこの戦争の時代に私は心を奪われて久しい。

 日本の歴史の中で方向を誤った変調な時代であったという評価が支配的であるが、当時を軍国主義だといえばそれで全てが解決されたような気分になることこそが問題である。戦前と戦後の間にアメリカ・GHQが支配する占領の時代(1945~1952)があったが、戦前は知れば知るほど今生きている現在と深い所で通底していると感じてしまう。一言で云えば品のないいい方だが、相も変わらず小賢しい薄っぺらな人間が制度や組織の悪しき惰性に乗っかってこの日本社会を牛耳っている。

 もっと具体的に云うと、責任をとらず自己の保身と利益を第一に考える政治家と官僚、威勢がよく耳ざわりのいい主張になびく素朴だが無力な大衆、中国・朝鮮に対する侮蔑的な歪んだナショナリズム、見識も知性も教養も恥ずかしいほどに貧弱な政権のトップ、政党政治の機能不全等々、ひどく酷似性を感じてしまう。

 しかしよくよく考えてみると酷似性を感じるのは当前のことだといってよい。原爆を投下され空襲で焦土と化し300万人以上の同胞が死んだ悲惨な戦争ではあったが、たかだか15年間くらいの戦争が終わっただけで上記のような人間の思考や行動が変わると考える方が、楽観的で滑稽だというものかもしれない。

 戦後の歴史もすでに70年以上経つが、"反戦" ”平和” ”民主主義” ”自由” ”平等” 等々の、250年前のフランス革命と似たようなお題目を唱えているだけでは、霞ヶ関・永田町一帯に生息する政治家と官僚の本質を何も変えることはできなかった。何が根本的に間違っていたのか、我々はどこからどのような思考を出発させなければならないのだろうか。

 五味川純平、船戸与一の小説は戦前のこの時代を扱ったものである。作家も小説も通俗的すぎると思っている方がおられるかもしれないが、小説の巻末の膨大な(注)と参考文献の一覧を見れば、二人の作家がかなりの分量の資料を漁ったことがお分かりになると思う。「戦争と人間」の(注)は澤地久枝氏が書いているが、これを読むだけでもかなりの根気とエネルギーが要求される。船戸与一はガンを病みながらも執念で「満州国演義」を書きあげこれが遺作となった。私より2歳年上の作家である。

 これらの小説を読みたい方は、日本の現代史をある程度調べてから読まれる方が分かりやすいと思う。標準的な所で半道一利氏の「昭和史1926~1945」(平凡社ライブラリー)、保阪正康氏の「あの戦争は何だったのか」(新潮新書)、山室信一氏の「キメラ 満州国の肖像」(中公新書)、安富歩氏の「満洲暴走 隠された構造」(角川新書)、戸部良一他「失敗の本質 日本軍の組織論的研究」(ダイアモンド社)などを参考にしてはいかがであろうか。変わったところで、佐野眞一の「阿片王」(新潮文庫) は歴史書ではなくノンフィクションであるが、歴史を表層ではなく現在に通じた厚みをもって理解するのに役立つ。

 日本学術会議の会員候補として推薦されながら、管政権により否認されたことで話題になった東大教授加藤陽子氏の諸著作も傾聴に値すると思う。小説では、安部公房「けものたちは故郷をめざす」、吉村昭「殉国 陸軍二等兵比嘉真一」、大岡昇平「野火」などは読んで損はない。

 歴史の本で100%お薦めできる決定版はなかなかない。歴史の不明な点を調べていくとますます分からないことが増えていく。これまで歴史の教科書に書いてあったことに疑問を感じるようになる。現代史においてさえ新たな史料が見つかりこれまでの通説的な解釈が覆ることも多い。難しいことだが偏らないで広範囲に読むとしか言い様がない。

 小説はフィクションであることには違いないが、その土台となる歴史の個々の事実は時間の経過の通りで曲がってはいけない、その上での人間のドラマである。似たようなことを船戸与一は次のように述べている。”小説は歴史の奴隷ではないが、歴史もまた小説の玩具ではない。” 我々読者は小説のストーリーを楽しみながら同時に歴史のディテイルを学ぶことができる。
 
 私は更に興味に任せて戦前の昭和史の本数十冊を読んだ。興味深い本もあったがそれらの本等については長くなるのでここでは触れない、又いつかこのブログに感想を書きたいと思う。映画では、「人間の条件」、「戦争と人間」、「野火」(新旧)、「セデックバレ」、「南京南京」、「226」、「ラスト・エムペラー」、「硫黄島からの手紙」、等々を観た。

 <私事で恐縮だが> 私の祖父の成瀬八郎は戸籍謄本によると昭和21年8月(日にちの記載はない)長崎市で死亡している。なんと私が生まれた翌月である。満州の北東(現在の黒竜江省)の牡丹江で憲兵をしていたという、当時牡丹江付近では地下資源採掘他に多数の日本人が住みつき関東軍が駐屯していた(昭和20年8月 牡丹江事件あり)。憲兵だったという祖父の死は日にちの記載がないことで、自然な死にかたでないことは明らかであろう。BC級戦犯として処刑されたのであろうか。

 私の父は今から数年前93歳で亡くなった。父は佐賀県鹿島市と嬉野市の中程にある山あいのさびれた農村に林田姓で生まれ、幼い時に親戚の成瀬八郎の養子になった。林田家は農家で貧しかったのだろう、憲兵をしていた成瀬八郎に養子に出したのである。林田家の長女が成瀬八郎に嫁いでいた、従って父の義母は実の姉ということになる。成瀬八郎夫婦には子供が生まれたが生後すぐ亡くなったという。義父が満州で憲兵をしている中、父は独り生活費の仕送りを頼りにして長崎市で学生生活を送っていた。

 従って私は林田姓だったかもしれないし、あるいは本来ならば成瀬姓を名のるところであったのかもしれない、故あって母方の養子となり松崎姓で生きてきた。つまり私は血筋正しき由緒ある家柄の人間ではない。私の妻も似たようなものである。従って私達の子供達も言わばどこの馬の骨とも分からないということになろうか。

 どこの馬の骨とも分からない………なんと素晴らしいルーツではないか、 ”雑草のごとくたくましく生きていく” という心の 源泉がここにあると私は誇らしく思っている。雑草は踏まれても強い。自慢できる祖先探しをするNHKの「ファミリーヒストリー」という番組などは、わが家族には全く関係ない。

 例えば天皇家のように万世一系と云うような祖先のフィクションに心の拠り所を求めるというような生き方は、どこかいかがわしく嘘っぽいと思う。人は自分のDNAを生まれたときのまま死ぬまで変えることができない。だからどのようなDNAを持っているかを思考の出発点にするわけにはいかない。

 同じことだが人間は誰しも自分から願い出てこの世に生まれてきたわけではない。ある日あるとき物心がついたとき、自分がこの世に存在していることを知るだけである。自分が社会に放り込まれ独りで生きることを余儀なくされていることを知るだけである、つまりそこからすべてが始まる。従ってそれより前の出自を問題にすることは、ひとりの人間の人生を考えるときには原理的に間違いである。

 私がまだ小学生の低学年の頃(昭和30年代のはじめ)のことであるが、私の祖母(父の義母)が佐賀の片田舎から私らの長崎の家に来て一日泊まっていったことを 思いだす。祖母は子供の目から見ても貧しい身なりをしていた。山で拾ってきたという椎の実をお土産に持ってきた。どことなく遠慮がちであった。私は孫(または甥)になるわけであるが、祖母は私にどう対応したのいいのか分からない風だった。祖母との出会いはこれだけである。

 父は学徒動員で出征し陸軍少尉として朝鮮の釜山で終戦を迎え、原爆投下直後の長崎市に戻ってきた。父は生まれたばかりの私を抱え、義父の普通ではない死をどんな気持ちで迎えたのだろうか。その父が従軍し軍隊生活を体験したためであろうか、私がまだ小学生の時だったが五味川純平の「人間の条件」を貪るように読んでいたことを思い出す。

 少し話は飛んで私が30代半ばの頃(その頃、私は公認会計士としてある監査法人に勤めていた)のことになるが、ある日父は私に対し反省的に詫びる口調で ”お前の考えが正しかった。自分の考えが間違いだった。” と話し出したことを思い出す。

 大学生の時私はヘルメットをかぶり学生運動(全共闘)にのめり込んだ、そして大学4年生(工学部)の時父にはなんの相談もしないで退学届を出した。履歴書を出してどこかの会社に就職して生きていくなどという選択肢は、当時の私の頭の中にはこれっぽっちもなかった。わずかな一歩ではあったが私は初めて独りで自分の人生の決断をした。”たいていのことはどうでもいい、たくましく生きていくのだ。” 私は自然に決意していた。

 思えば父には心配のかけ通しで、親不孝な20代の10年間だったと思う。その20代の時私は定職にも就かず住所も転々とし、しかし人並みに結婚と離婚の悲喜劇だけは演じさせてもらった。ほかの人とはかなり違った私のオリジナルな20代、特別に苦労したなどと云うつもりは全くない、普通ではない私だけのいとおしい日々であった。

 私と父とは政治的主張で真っ向から対立していた、父とは和解しないままの10年間だった。父はその事を言っているのだ。それからというものあれだけ右寄りだった父が自民党政治を批判し徐々に左傾化していった。私には父が変わっていく様子が手に取るようによく分かった。

 昭和天皇が亡くなった時、父は ”あの男はとうとう死ぬまであの戦争についての自分の責任について何も謝まらなかった。” と私にはっきり聞こえる声で怒気を満杯に含ませて言った。腹立たしい悔しさというか、あの戦争に従軍した人間にしかわからない筆舌に尽くしがたい重い感情、身中に沈殿していたもって行き場のない感情を父は腹の底から発射したのだ。一瞬だったがあの時父は紛れもなく戦中派の確信犯の姿を見せた。

 その後長崎市の市長選挙がある度に、昭和天皇の戦争責任について肯定的な発言をしていた本島等氏(1922~2014 市長4期)を支持し、推薦人名簿を集めるなど応援活動をしていた。父と本島等氏は大正11年の同年の生まれである。 <私事終わり>

 「戦友」という軍歌がある。日露戦争の時の軍歌であるがその後も広く兵隊ソングとして謳われた。歌詞は次の通り。
ここは御国の何百里/離れて遠き満州の/赤い夕陽に照らされて/友は野末の石の下
(以下14番まで続く) なるべくゆっくり謳うことが情感を増し、全部謳い終わるのに30分以上かかるという。そのメロディーが郷愁を感じさせ厭戦的だという理由で、東条英機により謳うことが禁じられた。

 私は上の小説を読み進める時、舞台が満州の場面では<赤い夕陽に照らされた満州の荒野>なるものをイメージしてしまう。それは、冬の季節では<白一色の雪原>に変わり、春夏では一面<コーリャンの緑野>に変わる。「戦友」のメロディーと映画「戦争と人間」のテーマソングも胸中時として流れる。

 私は中国の東北地方(満州)に行ったことはないし、高梁(コーリャン)の畑を見たこともない。通奏低音というか絵画的音楽的で一種詩的世界と言ってしまっては、戦争で死んでいった幾百万の人達に対し不謹慎の誹りと非難されてしまうかもしれないが、そういう気分に我が身を浸しながら本を読んだ。(かかる心情については安富歩氏が満州の成り立ちから深い検討をされている。) 

 戦争を扱った小説の読み方は人それぞれであろう。私は一つには自分に似た登場人物(主人公とは限らない)の戦争の中での生き方に注目して読む。そうすることで読み方にメリハリがつく。二つには、歴史の中の個々の事件の襞にできるだけ肉薄したいと思って読む。従って時々寄り道をせざるを得ない。

 例えば2.26事件では、「二・二六事件」中村正衛(中公新書)、「妻たちの二・二六事件」澤地久枝(中公文庫)、「獄中手記」磯部浅一(中公文庫)、「私の昭和史」末松太平(中公文庫)、「国体論及び純正社会主義」「日本改造法案大綱」北一輝、「北一輝論」松本清張(講談社文庫)、「北一輝」渡辺京二(朝日選書)、「革命家・北一輝「日本改造法案大綱」と昭和維新」豊田穣(講談社文庫)、「再発見 日本の哲学 北一輝ーー国家と進化」嘉戸一将(講談社学術文庫)、「昭和維新試論」橋川文三(講談社学術文庫)などを読んで私なりの理解を深めることになる。

 当然のことだが<北一輝>に関する本は膨大にある。あの時代に生きていたならばと考え、2.26事件に決起した若き青年将校達に我が身を重ね合わせ思わず背筋がぞっとしてしまう。遠い昔の話ではない、私が生まれるわずか10年前の日本の歴史の方向を決定づけた事件である。学者に成るわけでないが歴史をそれなりに我がものにしたいと思う。私はかかる歴史の流れの中に生まれそして生きている。”私という人間は誰であるか” という謎解きを考えるためには現代史の理解は避けて通れない。



 ………私は時々思うのだが、これまでたいして勉強らしきものをしてこなかったこの75歳の高齢者の男が、今さらそもそもそんな願望(私という人間は誰であるかという謎解き)を満たすことにはたしてどんな意味とか価値とかがあるのだろうか? その読書の成果らしきものを社会に還元しにくい高齢者が、自分一人心の中だけで満足することとははたしてどういう営為と名付ければいいのだろうか? その営為に何らかの普遍性はあるのだろうか?
 
 意味とか価値とか普遍性とかにどうして私はこだわってしまうのか? よくよく考えるとそんなものは内面的な上昇志向、承認欲求、自己満足の別名ではないのか? そんなものは全く無くても一向にかまわないのではないか。この疑問と伴走しながらの私の読書である。
 
 重度身体障害者になって10年目を迎えるが、私の興味は経済学から歴史へと移ってきた。そしてなるべく早く歴史からカンジンカナメの哲学の気になっているところに読書の軸足を移したい思っている、そうしないとそのうちボケてしまうか寿命が尽きてしまう。
 
 ………ところで何故に私はこんなにちょっと焦った風にそして自分を急かせるように考えてしまうだろうか。この事は前にもこのブログで何度も書いたことで、又蒸しかえすようだがまた同じように考えてしまう。晴耕雨読の境地に到達しえないまま、未熟にもこの高齢者の男は死ぬまでこんな感じで生きていくのだろうか。


 さて、元に戻って結論風に言うと二つの小説の主人公は誰かはっきりしない。濃淡はあるが主人公は人間ではなく「満州国」と考えたほうがよさそうである。「王道楽土」と「五族協和」を理想として唱えた戦前に現れた一種の壮大な幻想であり、しかし現実に存在したその「国家」の誕生から消滅までの歴史を作者は語りたいのだと思う。なぜなら「満州国」なくして日本の現代史はないからだ。

 五味川純平は「戦争と人間」で新興財閥五代一族とそれに関係する関東軍将校や満州人を配置して語り部とした。船戸与一は「満州国演義」で敷島四兄弟(一郎、次郎、三郎、四郎)を外交官、馬賊頭目、関東軍将校、元無政府主義者とし、かつ関東軍特務機関に所属する間垣徳蔵というミステリアスな人物を配置して語り部とした。

 登場人物はそれぞれの歴史の領域を語るために配置されたのであり、冒険物語ではないので読者が期待するような自主性や心の春秋には少し乏しいかもしれない。日中戦争・日米戦争の15年間の歴史を教科書的な歴史としてではなく、そこに生身の人間の生き死にを伴って情感豊かにその歴史の細部を理解することがかかる小説を読む醍醐味であろう。


 ところで思うに、戦前も現在もなんと情けない程愚かな時代であることか。そして浅薄な批判を踏みこえて、賢い道を切り開くことがなんと難しいことか。自分をそして自分を含めたこの社会をどうとらえるかは本当に困難を極める。歴史を知ることがその一助になればよいがそう簡単なことではない。人は本を読み呻吟し考える、その果てに何があるか、何かを獲得するか。私はその時間が徒労に終わるとは思わない、少なくとも人は思索する自分を発見する、そして ”自分の人生” を歩み始めた!と感じる。
この感動は大きい。



                                            

佐藤賢一「オクシタ二ア」 他を読む。(2)2019-05-11



   犬が岳~求菩提山(福岡)の林間の登山道   2005.05.08(脊髄損傷前)



(1)から続く。

 <問2>は、<問1>の影に隠れて見えないように思わえる。しかし、眼をじっと凝らして見ようとすると見える。物事を皮相的にしか見ない人には見えない、物事を根源的に見ようとする人には見える。<問2>は、種明かしされるとなんだそんな事かということになる。

 ドミニコ会の修道士たちは、異端審問官として長きにわたり異端派の人々に残酷な拷問を加え、嘘であってもでっちあげて自白とし火刑に処していった。魔女裁判でも然りである。正統派のキリスト教を守り、その道から外れた異端派を正しい教えなるものに改宗させることは、全く正しいこととして信じて疑わない。その己の傲慢さにも微塵も気づかない。そのための嘘も拷問も殺人も許されて正しい行為と信じる。本人は正しいことをし正しい生き方をしていると胸を張る…………神に仕える者として。

 ドミニコ会の修道士達はどうして自らの過ちに気がつかなかったのだろうか、これが<問2>である。自らの心の中からそして同じ主義主張を抱く同じ仲間の中から、その異端審問の行き過ぎを指摘し是正しようという動きが全く見られない。その契機が現われる気配さえも感じられない、恐ろしい限りである。このことはカタリ派を弾圧したドミニコ会に限ったことではない、ローマ教皇然り、ローマ教会然りである。権力を持つ側の弾圧は是正されることなく、正しいこととして無自覚のままに延々と長期間続く。人類の歴史で洋の東西を問わず、何度も何度も繰り返された人間の最も愚かな面である。

 西暦2,000年つまり紀元後二千年紀の最後の年、ローマ教皇ヨハネ・パウロ二世はローマ教会がこれまでの歴史で次の罪を犯してきたとして神に懺悔した。ユダヤ人に対する迫害の容認、十字軍遠征と異端審問、アフリカ・アメリカ大陸での布教で原住民に対する差別と権利の侵害、がそれである。今までローマ教皇は誰一人としてかかる過ち(罪)を分からなかったとでもいうのだろうか。迫害を受け不幸のうちに死んでいった幾千万幾億の人間の無念さは、数百年後に一教皇に謝られても無くなるはずもなく、その怨念は未来永劫この世に漂い続ける。懺悔し謝罪すべき内容は犯した過ちの数々のみならず、いやそれよりはるかに重大に、それを許してしまったローマ教会のかかる組織の在り方そのものであったはずである。

 主義主張は主義主張でいい。人が百人いれば百人の主義主張があるのはそれはそれで自然なことであると思う。問題はその次にある。自らの主義主張に従ってまっしぐらに走る人(集団)は、往々にして反対意見・少数意見に耳をふさぐ。己がしていることに自己満足し省みることがない。それ故に起こった歴史の悲劇を我々人類は数多く経験してきた。何故そうなってしまうのか?
 
 <問2>を普遍化したこの問は、いつも私の頭を離れないテーマである。このブログでも取り上げて考える所をこれまでも書いたことがある。<管賀江留郎「道徳感情はなぜ人を誤らせるのか」を読む。>  その時は、進化生物学とアダム・スミスの「道徳感情論」に依拠し情報の問題にも言及した。リベラル・アーツの問題もあり、道徳観・倫理観の問題もあると思う。組織の在り方まで範囲を拡げると、国家・地方政府の組織、法体系、民主主義と三権分立等、複雑かつ多岐にわたる。私一人でどうこうできる問題ではない。

 私が希うことは、己の主義主張の内部に己のそれを客観視する心の仕組を組み込むことはできないのであろうか一つの思想を抱く集団の内部にそれを客観視する組織を仕組として組み込むことはできないのであろうか、ということである。
 
 先の四冊の小説を読み、刺激され連想して次の本を読みたく思う。
(1)13世紀という同じ時代を生きた人間として、イタリア・アッシジの聖フランチェスコ(1182~1226)も気になる一人だが、中世のヨーロッパで抜きん出てそびえ立っている男がいる、神聖ローマ帝国皇帝フリードリッヒ二世(1194~1250)である。塩野七生氏著の彼の伝記。ダンテ(1265~1321)は彼の死後15年後の生まれである。

(2)中世のヨーロッパではローマ教会は聖職者以外には聖書を読むことを許さなかった。民衆が聖書を読んで勝手なことを言い出すことを恐れたためであると思う。かかる時代にカタリ派はいかにして人々の心をつかんでいったのであろうか。カタリ派の聖職者は民衆一人一人に直接に語り教えを説いていった、しかも自らは清貧で禁欲的な生活を貫いた。これは、ローマ教会側ではできないことであった。人々は自然とカタリ派に惹かれていった。…………歴史では似たようなことが繰り返される、連想して場所も時代もはるかに飛躍するが、毛沢東の軍隊は蒋介石の国民党軍にどうして勝利することができたのであろうか。人口の大部分を占める農民をどうして味方につけることができたのであろうか、ここには中国革命の核心が潜んでいる。毛沢東の著作または中国人民解放軍の歴史(創設~1949)。

(3)ウンベルト・エーコ 「薔薇の名前」。 14世紀初め、北イタリアのベネディクト会の修道院で起こった連続怪死事件…………異端は作られるのか、キリストは笑ったか、アリストテレスの詩学…………そして知の迷宮へ。



佐藤賢一「オクシタニア」 他を読む。(1)2019-05-06


          近い所から 北鎌尾根、硫黄尾根、裏銀座の北アルプスの稜線
            2004.8.04(脊髄損傷前)



 次の小説を読んだ。
A オクシタニア 佐藤賢一 集英社文庫
B 旅涯ての地 板東眞砂子 角川文庫
C 聖灰の暗号 帚木蓬生 新潮社
D 路上の人 堀田善衛 新潮社

 歴史の本を読んでいて  ”異端” ”秘密結社”  ”○○の乱” などの文字があると、それはどんな集団でどんな教えを信じてどんな事と対決していたのかと、興味をそそられテンションが上がる。歴史のうねりとともにそこに民衆の反乱というか、やむにやまれぬ庶民の渇望の呻きのようなものが聞こえるような気がするからである。読んだ四冊の小説はいずれも、中世ヨーロッパでローマ教皇から異端とされた ”カタリ派” を題材とした小説である。内容が深く濃密で、久しぶりに小説を読む醍醐味を味わい堪能した。

 カタリ派弾圧の歴史を、上の四冊の範囲で大まかになぞると次のようになる。
① 1209年、ローマ教皇インノケンティウス3世はフランス王フィリップ2世と協議して十字軍を召集し、総指揮を北フランスの小領主シモン・ド・モンフォールとして、異端派根絶を目指しオクシタニア(ピレネー山脈でカタロニアと国境を接する南フランス一帯)を攻撃し住民を虐殺した。それまで異教徒に向けられていた十字軍遠征が、異端とはいえ同じキリスト教徒に向けられ、カタリ派を保護したとしてトゥールーズ伯のレモン7世をはじめオクシタニアの諸侯を弾圧した、所謂アルビジョア十字軍(1209~1229)である。カタリ派 は、トゥールーズを中心にオクシタニアで勢力を誇っていた。トゥールーズは気候が温暖で経済的に豊かなオクシタニアの中心で、当時ヨーロッパで有数の都市の一つであり、曲がりなりにも市民による自治が行われていた(コミューン)。

② 1232年、ローマ教皇グレゴリウス9世はそれまでの異端派弾圧の仕組をを改めて異端審問制度(異端裁判所)を作った。開明的な神聖ローマ帝国(ドイツ)皇帝フリードリッヒ二世による「メルフィ憲章」の公表(1231、法治国家の宣言)に対抗する必要上余儀なくなされたものであった。ドミニコ会の修道士を異端審問官として各地に派遣して、しらみつぶしに異端派を摘発し改宗しない場合には火刑に処した。カタリ派はその教義で嘘をつくことを禁じていたので、帰依者(信者)や完徳者(聖職者)は審問されると正直に答え、芋づる式に逮捕されてしまった。

③ 1244年、追いつめられたカタリ派はピレネー山中のモンセギュールの山城に集結し、そこを最期の砦として信仰を守っていたが、フランス王ルイ9世の軍隊に包囲攻撃され陥落した。カタリ派の信仰を捨てることを拒否した200人以上の帰依者と完徳者は、死ぬと天国にいけるという教えに殉じ火刑に処せられていった。

④ 14世紀に入ってもさらにその後も、ガリレオ裁判(1633)が示すように異端審問制度は執拗に続いた、そして内容は少し変わったが現在でも続いている。 1321年、カタリ派は最後の完徳者が捕えられ衰退していった。

 A~Dの四冊の歴史的・地理的な舞台は次の通りである。

 Aは、オクシタニアを舞台にアルビジョア十字軍の遠征からピレネー山中のモンセギュール城陥落までを、カタリ派(異端)とドミニコ会(正統)の双方の立場で、人の心に深く分け入りそのディテイルを濃密に描いている。内容は深く、正統派と異端派の論争のさわりが分かったような気がする。ヨーロッパの中世は古代ギリシャ・ローマの科学的水準が大きく後退したキリスト教一辺倒の時代であり、神学論争は切実な問題だったと思われる。干からびたドグマ(教義)の話ではなく、人が生きることを深く問う内容である。読んで損はない、いや読まないと損する一冊である。

 Bは、地理的には博多の中国(宋)人街~元の大都(現在の北京)~コンスタンティノポリス(現在のイスタンブール)~ヴェネツィア~南フランス山中の廃墟の山城 と当時の世界の東の涯てから西の涯てまでに及んでいる。元寇(弘安の役 1281)、マルコ・ポーロ(東方見聞録 1300頃?)、聖杯伝説、マグダラのマリアの福音書などをストーリーに織り込み、主人公(父が中国人、母が日本人の博多生まれの男)の13世紀末から14世紀始めにかけての数奇で波乱に富んだ物語である。内容は深い。作品中、ヴェネツィアの一ラテン語教師が述べる次の言葉は示唆的である。「誰が東を決め、西を決めたのだ。誰が正統を決め、異端を決めたのだ。西もさらに西の国にいけば、東といわれる。正統もやがて異端といわれる。」 小説の後段から終わりにかけては感動的である。

 Cはミステリー仕立てで、異端審問制度がまだ苛酷に続いていた14世紀始めのオクシタニアが舞台である。ドミニコ会の若き僧が書き残した次の詩が、本文中何度もリフレインされる。

  空は青く大地は緑。
  それなのに私は悲しい。
  鳥が飛び兎が跳ねる。
  それなのに私は悲しい。

  生きた人が焼かれるのを見たからだ。
  焼かれる人の祈りを聞いたからだ。
  煙として立ち昇る人の匂いをかいだからだ。
  灰の上をかすめる風の温もりを感じたからだ。

  この悲しみは僧衣のように、いつまでも私を包む。
  私がいつかどこかで、道のかたわらで斃(たお)れるまで。

 Dは、スペインのトレド(当時、ヨーロッパの文化の中心地の一つ)~オクシタ二ア~北イタリアを舞台に、13世紀初め頃からピレネー山中のモンセギュール城陥落までを描いている。A~Cの三冊は近頃書かれた作品であるが、堀田善衛のこの小説は1985年の出版で比較的古い。カタリ派について私が疑問に感じていることを、作者が代弁して述べているのではないのかと思われる所が多々あり、カタリ派がどんな宗教かがよく分かる。例えば、次のような場面がある。カタリ派を好意的に思っているある騎士(本小説の主人公の一人)が、カタリ派の完徳者にピレネーの山中で出逢い質問する。(私の言葉で書くと) 主よ、ピレネーの山並は雪をいただき、渓流はゆったりと谷を流れている。緑の野には花々が咲き乱れ風に揺れている。あなた方はこの世を否定的に捉えられているとしても、目の前のこの自然を見て心を動かされ美しいとはお思いになりませんか? 完徳者がなんと答えたかは小説に譲ろう。

 さて、上の四冊の小説を読んで<二つの問>が根源的に惹起する。<第一の問> カタリ派は何故異端として弾圧されたのか。これは上の四冊の小説のテーマそのものでもある。歴史の上では一般に弾圧された側の文書が残ることは少ない。焚書で根絶されてしまうからである。カタリ派は何を民衆に語ったのか、今でもよく分かっていない。ローマ教皇側の資料は残っている、カタリ派側から書かれた資料の発見を今後に期待し、歴史家の実証的研究に待ちたい。その上で、小説を読んだ私の感想を独善的にかつ軽々に述べさせてもらうと次の通りである。

 中世のヨーロッパではローマ教会とその教皇・司教らの聖職者が宗教世界の唯一の権威であった。しかし、司教らは贅沢三昧の生活をし実質上妻帯することも普通で、ローマ教会の堕落は甚だしかった。カタリ派の聖職者は禁欲的で清貧に甘んじた生活をし、ローマ教会とは雲泥の違いがあり人々はカタリ派に惹かれていった。その意味でカタリ派への信仰の傾斜はローマ教会を批判する民衆の運動であったとも言える。カタリ派にとっては少し辛口な見方になるかもしれないが、以下その教義について考えてみたい。

(これから上の小説を読もうと思っている方は、以下の青字の部分は読まない方がいいかもしれない。以下を読んでしまうと、ネタバレのマジックを見るようで小説の興味が半減するかもしれない。)

 カタリ派はキリスト教の衣を纏っているが、似て非なる別の宗教ではないのか。異端などではなく異教ではないのか。ヨーロッパの地であるからキリスト教の衣を纏うのは仕方がない。しかしその教義は徹底した二元論である。現世は悪魔が作った世界であり、この世では努力することも成功することも財産を貯めることも意味がない、悪魔の世界での出来事だからである。この世では生きること自体に意味がない、信じ難い程のニヒリズムであるが、これがカタリ派のこの世の理解である。
 
 この世の苦楽を味わい、意味があるかないか判らないがそこで悪戦苦闘することをもって、人が生きることだと了解している私のような世俗的人間には、到底理解できない境地である。おそらく科学的知識が乏しく、キリスト教の権威だけが高かった時代であったが故であると思う。

 カタリ派では人は死ぬに際して、完徳者(聖職者)によるコンソレメントウム(額の上に手をかざすような儀式、救慰礼)を受けることにより、肉体は朽ちても精神は天上界に行ける。さもなくば精神はこの世に再び舞い戻り、別の肉体を借りて精神の袋としこの地上界に留まり続ける、肉体が死ぬとまたこれを繰り返す、つまりこの世(地獄)で輪廻する。私如きにはその方が永遠の命をもらったようでいいと思うのだが、この世は悪魔が作った世界つまり地獄であるから、そこから脱出して天国へと救われなければならないというのがカタリ派の教えである。従って、キリストがゴルゴダの丘で磔刑に処され、その後この世に復活したという新約聖書の四つの福音書の記述は、それが肉体を伴ってのこの世での再現とするならば、カタリ派にとってはとんでもない話ということになる。(ご存じのように”復活”については様々な説がある。)

 キリストの理解、洗礼の仕方、教会のあり方、聖職者の生き方、などなどカタリ派の教義は正統派の教義とことごとく対立し相容れない。翻って考えてみると、カタリ派の二元論はゾロアスター教→マニ教の系譜に近似し、ユダヤ教→キリスト教→イスラム教の一神教の系譜からはかけ離れていると思う。
 
 神がいるならば、なにゆえ災害があり病がありもろもろの苦しみがあるのか、太古の昔から人間は考えた。中央アジアの地でかのゾロアスターはそれまでの土俗的地域的宗教を超えて、善神(アフラ・マズダ)と悪神(アーリマン)の二元論の宇宙の普遍的体系を作り上げた。この世(現世)は二つの神の闘争の場で、アフラ・マズダが勝利し正義が実現するように務めるのが人間の生きる道であると教えた。この世は永遠には続かずいつか終末が訪れ、最後の審判が行われる。その時アフラ・マズダに味方した者は天国へと救済され、アーリマンに味方した者は地獄に落ちる。
 
 カタリ派はゾロアスター教の二元論の系譜にあるとはいえ根本的に違う点がある。この世(現世)の捉え方と天国への救済のされ方が全く違う。精神と肉体、天国(天上界)と地獄(地上界)、神と悪魔を極限までに峻別し、そしてその枠組みで人間の生死を二分して理解する。見事なまでの割り切り方である。人はこの世でどのように努力し生きたのかということとは関係なく、死に際してコンソレメントウムさえ受ければそれだけでいともたやすく天国へ行ける。この突き抜けた無邪気なまでのオプティミズムは、現世で生きることを悲しいまでにペシミズム的に考える救い難い厭世思想と対をなしている。マニ教と酷似している。

 災害があり病がありもろもろの苦しみがある。ユダヤ教から始まる一神教は二元論のようにそれは悪神の仕業とは考えない。神の沈黙、神がこの世に全面的に動いていないからである、何故神は動かないのか、その事を前にして人間はどうしたらいいのか、御利益宗教を超えた本格化な一神教はここから生まれる。

 キリスト教の歴史は、曖昧な解釈を許してしまう教義の多義性との闘いであったと思う。キリスト教に限らず一般に宗教の歴史は、その中で勝利した教義が正統派として残っていった。歴史とそれを示す書類は勝ち残った正統派に都合のいいように作られる。そうして教義は精緻化され純化され、敗者ははじめから存在しなかったかのように歴史から抹殺される。
 
 カタリ派は正統派にとっては教義が少しだけ違うというレベルではなく、この世を根底的に否定するがゆえに、邪宗・邪教の類と考えられた。たとえそういう教えであったとしても、民衆の支持を得て生き残る道はなかったのか、期待したい気持ちも少なからずあるが、事実は徹底的に弾圧根絶され、歴史はルネサンス、宗教改革の時代へとつながっていく。

 (2)へ続く。