私は毎日12時間眠っている。 ― 2019-03-21
阿蘇山 2005.11.20(脊髄損傷前)
私って何者?
誰もが長い人生の過程で一度や二度は抱いたことがあるこの疑問、私は近頃妙に現実味をもってこう呟くことが多くなってきたように感じる。おそらく今の生活の有り様がそういう疑問を惹起させているのであろう。今の日々の生活がこれまでのそれとは比べようもなく違いすぎているからである。
私は毎日12時間眠っている。原因は薬の副作用の為である。65歳の時に脊髄を損傷したが、それから丸7年が経ってしまった。1年間病院に入院していたので、退院してから6年間が経過したがほぼ同じようなパターンの生活をしている。薬は1日6回、合計10数種類を40~50錠程毎日飲んできた。多すぎるので減らそうとしたがなかなか減らない。眠たくなるのは特に鎮痛薬の副作用の為である。
眠気を催す薬は多いが、鎮痛薬はその副作用の程度が甚だしい。一般に痛みには2つの種類があるといわれている。一つはナイフで腕を切った時のような患部から来る痛みで、人体の防御機能のためなくてはならない痛みである。もう一つ神経の誤作動から来る痛みで、神経障害性疼痛といわれるものである。足を切断した人が、あるはずのない足の親指が痛いと感ずるのがその例である。私が感じている痛みもこの後者で両腕が痛い。特に右腕が痛く、比喩的に言えばナイフで切り裂かれているようで、痛みが発作的に襲って来たときには思わず声を出してしまう。両腕には特に外傷は何もない。
麻酔科(ペインクリニック)で鎮痛薬の処方を受けるようになってから痛みはかなり緩和されたが、今度は眠気との闘いが始まった。今は3つの鎮痛薬(リリカ、カロナール、トリプタノールorノリトレン)を使っているが、その服用の量により催眠効果が違ってくる。量を多くすれば鎮痛の効果は大きくなるが、それだけ催眠効果も大きくなる、痛し痒しである。その結果、ここ3年間は毎日コンスタントに12時間は眠ってしまう生活を続けている。
夜から朝にかけて8時間眠る。これはほぼ誰でも同じであろう。私の場合はさらに午前中に1~1.5時間、午後1~1.5時間、夕方1~1.5時間眠ってしまう。日によっては1.5時間が2時間になることもある。いくら我慢してみても駄目である。いつの間にか眠ってしまっている。近頃は無駄な努力は止めて、寝覚めた時にスッキリすればそれでいいと割り切って眠たくなったら眠ることにしている。
こういう生活をしていると、一日の活動時間が極めて少なくなる。リハビリだの、病院通いだの、ヘルパーさんによる衣服の着替えだのとそれでなくとも重度障害者であるがゆえの必須の時間をかなり割かねばならない。透析患者が生きていくために透析のため病院通いの時間を割かねばならないのと同じである。つまり私に固有に属している時間が短いと嘆いているのである。
もし脊髄を損傷しなかったならば私は今どんな生活をしているだろう、などとは私は考えない。そんな考えが頭をよぎったことは本当にないのかと問われれば、そんな問いがあることは知っているし、その問いに絡め取られて愚痴しか言わなくなった人も知っている、「もし」と考えてハッピーになるならば何度でも「もし」と夢想しよう、私が言えるのはここまでである。重度障害者であることから逃れられないのだから、重度障害者として楽しく生きる、ただそれだけのことである。それ以外の道があるとは思われない。
7年前から私は重度障害者(障害者1級、介護保険要介護度5)として生きている。そんな人生がよりによってこの私に訪れようとは勿論夢想だにしていなかった。今までと同じような平凡な人生が続くものと思っていた。しかしある日何の因果かこうなってしまった。運良くか運悪くか、こうなってしまった私はこの世で二つの人生を送っているような感じがするのである。
普通では味わえない二つの人生を味わっている私は、前も後もおそらく同じ私であろうと思う。仮に「前の私」と「後の私」と名付けてみると、「前の私」は7年前に終わっている。今の私は大怪我をして重度障害者になった「後の私」である。 そこで最初の問である、私って何者? この生すぎる問いはどんな答えを期待しているのであろうか。
私が生きてきた時代とはどんな時代だったか。そこで、私はどんな主義主張に影響されて自分の哲学を作ってきたか。その哲学とはどんなものか。それを体現しているのがこの私である。真正面から真正直に考えるとそういうことかとは思う。
少し違った風に考えて、「後の私」は「前の私」とどういう関係にあるのかという問いを立ててみよう。「前の私」の時間的な延長上に「後の私」があるのは事実の問題である。「後の私」を生きている私は「前の私」にどう向き合えばいいのか。「後の私」は「前の私」の単純な延長ではないはずである。
「後の私」は「前の私」が徐々に結晶化する過程ではないのか、近頃このイメージに到達した、そしてこのイメージが私の頭の中でだんだん強くなりつつある。鉱物はある極限的状態が続くと結晶体になる。私にとって重度障害者であるというこの身体的状況は十分に極限的状態である。食塩だって炭素だって結晶化する。人間も結晶化して何の不思議があろうか。このブログの冒頭で “近頃妙に現実味をもって” と書いたのは私がこのイメージに生々しくとらわれてきているという意味である。
”自分らしく生きる” といってもいいのかもしれないが、あまりにも俗ないい方であるし、「自分らしく」とはどういうことかと堂々めぐりのような説明をしなければならない。そもそもアプリオリに自分が存在しているような言い方にも違和感がある。もともと自分というものが厳と固定的に存在しているわけではないと思う。結晶化するといういい方のほうがが私にはピンと来るし、何しろカッコいい感じもする。希ば、結晶化しようという自発的意欲と行動に充ち満ちている「後の私」でありたい、せっかく重度障害者になったのだ、そう考えてもよかろう。
この結晶化のイメージを持てるようになってから、「後の私」つまり重度障害者として生きなければならない私にとって、自分の生き方がすこし鮮明になってきたような気がする。矛盾するようであるが、結果として結晶体にならなくてもいっこうにかまわない。結晶化という言葉がこれからのプロセスで私を元気づける魔法の言葉であればそれでいい。
ここまで書いたが読み直してみると、極めて私的な内容で独りよがりの考えであり、書いてあることは他人にはほとんどその意味が通じないだろう。大体、人間が結晶化するはずがないし、そもそもその考え方が分かりにくい。
「後の私」も日々の生活ではそこそこ世俗的であろうから、そこから物事を考えないといけないのではないか。結晶化のイメージは一旦封印して、「後の私」は現実の今の私であるから、そこで出会う諸々の事柄とどう向き合っていくのかを主軸に据えて考え生きていくべきではないか。
その時「前の私」が持っていた主義主張が色々と試され鍛えられるだろうから、そういう過程を結晶化と呼んでもいいかとは思う。あえて「前の私」「後の私」と分けて考えてしまうのは、その日常生活があまりにも変わり過ぎたからであるが、私の内面はほとんど変わらず連続している。断絶しなかったのだから内面については「前の私」「後の私」と分けて考える必要はない。
しかし敢えてそうするのは、私の考えや行動にメリハリを付け元気づけをしているような効果があるからである、そのことを結晶化という言葉で呼んでみた。言い訳が長くなってしまった、自分の気分を伝えることは難しい。
コメント
_ 玉造彬夫 ― 2019-04-08 13:58
_ 辰 紘 ― 2019-04-15 18:04
松崎さん ご無沙汰してます。新しいブログ4週間後の今日4月15日に読みました。
実は私も12時間は眠ってます。就寝は9時前後で3−4時間後にオシッコでおきます。
幸いすぐ眠れるので4−5時頃まで一寝入り、一旦目が覚めても又寝入り7時過ぎまで
所謂2度寝。さらに昼食後の昼寝(中近東勤務時代以来の習慣です、30分から時に2時間)午前中はパソコンスマホでメールやポケモンの後読書、昼飯を2人分用意して昼食から昼寝。起きてから近所のジムに通って有酸素運動とストレッチ。1週間に1回ゴルフがあるときは昼寝なし。以前は9時前に寝て4時ごろめざめてそのままのパターンが最近は年の所為か7時過ぎまで2度寝のパターになっています。
さて重度障害者の事実を受け入れて、少なくとも精神的に豊かな生活を送っている貴兄の活力にエールを送ります。安っぽい言葉ですが、勇気つけられます。
貴兄に刺激されて読書量が増えました。新刊書を含めて図書館から借りだすことに決め、常に5、6冊以上を借り出して、順繰りに読んでます。年とともに根気が続かなくて四苦八苦してますが、読書ノートをメモるようにしてます。
貴兄の言う所の結晶化の意味合いが十分に理解できてないのですが、年とともに社会のしがらみにや固定観念にとらわらずに考えを純化することが自由に出来る、又発言できるようになってきたと思います。その分と言うか発言しても何の影響力も無くなってしまっていることに一抹の寂しさも有りますが。まあ偉ぶっても貴兄の如くきちんと長文に整理出来る気力と能力は有りません。又コメントします。
実は私も12時間は眠ってます。就寝は9時前後で3−4時間後にオシッコでおきます。
幸いすぐ眠れるので4−5時頃まで一寝入り、一旦目が覚めても又寝入り7時過ぎまで
所謂2度寝。さらに昼食後の昼寝(中近東勤務時代以来の習慣です、30分から時に2時間)午前中はパソコンスマホでメールやポケモンの後読書、昼飯を2人分用意して昼食から昼寝。起きてから近所のジムに通って有酸素運動とストレッチ。1週間に1回ゴルフがあるときは昼寝なし。以前は9時前に寝て4時ごろめざめてそのままのパターンが最近は年の所為か7時過ぎまで2度寝のパターになっています。
さて重度障害者の事実を受け入れて、少なくとも精神的に豊かな生活を送っている貴兄の活力にエールを送ります。安っぽい言葉ですが、勇気つけられます。
貴兄に刺激されて読書量が増えました。新刊書を含めて図書館から借りだすことに決め、常に5、6冊以上を借り出して、順繰りに読んでます。年とともに根気が続かなくて四苦八苦してますが、読書ノートをメモるようにしてます。
貴兄の言う所の結晶化の意味合いが十分に理解できてないのですが、年とともに社会のしがらみにや固定観念にとらわらずに考えを純化することが自由に出来る、又発言できるようになってきたと思います。その分と言うか発言しても何の影響力も無くなってしまっていることに一抹の寂しさも有りますが。まあ偉ぶっても貴兄の如くきちんと長文に整理出来る気力と能力は有りません。又コメントします。
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薬の影響とはいえ、眠るのは、年取ると皆同じですよ。覚醒時でも、うつらうつら、本など読んでいるとすぐ眠くなる。
孫崎享は僕はあまり感心しないが、それにしても彼の著書をよく読んだものですね。しかも長文に仕上げ、その持続力、僕にはとてもありません。
とりあえず。またコメントします。