デイサービスでの話 (1)2016-01-28


                           冬の九重       2004.1.31(脊髄損傷前)



私は朝から夕方まで週二日、自宅近くの「うぶすな」というデイサービスに通っている。デイサービスに通う理由は二つある。一つは、前のブログ「私はあと何年生きるのだろうかー脊髄損傷者の余命」にも書いたように、私は身体障害者1級で手足がほとんど動かず寝返りもできない。自分一人では日常生活が何もできない体になった。特に排泄の処理と入浴は時間もかかり自宅では難しい面があるので、デイサービスでお世話になることにした。私のような重症の身体障害者を受け入れてくれるデイサービスの施設は少ないが、「うぶすな」は快く受け入れてくれた。

二つは、私は24時間介護が必要なので、私を介護する者は心身の負担が並大抵ではない。妻が一手に引き受けて介護している。私がデイサービスに行くとその時間は妻の休養と気晴らしになると思った。

デイサービスは介護保険を使っている。私は介護保険は要介護度5で、金額で言えばひと月約36万円の枠がある。国が8割、本人が2割の負担割合である。昨年の夏までは1割だったが、なにがしか所得がある者は倍になった。従って、減免措置はあるが原則私は月72000円、年間で約86万円支払うことになった。私はこの介護保険の枠の中で、デイサービス(朝から夕方まで、週2日)、ショートステイ(1泊2日、月1回)、車椅子やベッドなどの福祉用具のレンタル、ヘルパーさんによる身体介護(毎日朝30分と夕方30分、着替え・身体拭き・ベッド車椅子間の移動など)の四つをお願いしている。

このほかに健康保険がある。私は重度障害者ということで健康保険の適用がある医療はほとんど無料(1医療機関ひと月500円)である。これにより病医院での治療・入院・リハビリ等(リハビリは飯塚のせき損センターで週2日、1回3~4時間)、訪問マッサージ(週5~6日、1回30分)、訪問看護(週2日、1回1時間)の三つをお願いしている。

さてデイサービスでの話であるが、「うぶすな」に通うようになってまもなく3年になる。利用者が一日10人強(ほとんどが80~90代の女性で認知症の方が多い)、スタッフが5~6人というこじんまりした施設である。最初の日、「66歳です。」と自己紹介すると、「80半ばかと思ってました。」、「いや私は30歳位と思う。」という強烈な言葉が返ってきた。「50代に見えますよ。」程度のお世辞ならこちらも受け答えする言葉もあるが、それぞれ本当にそう思っているようである。

しばらくたったある日、昼食がスパゲティとパンだった。Nさんはフォークでパンを突き刺して、顔の前でじっと見て食べようとしない。「どうして食べないのですか。」「パンがカワイイ。」「ええっ!!!」パンは食物という私の観念では太刀打ちできそうにない。「パンはカワイガル物ではなくて、食べる物ですよ。」などとN
さんに知ったかぶりで言うほど私は偉い人間ではない。

Nさんはご主人と二人暮らし、家で転んで足を骨折してしまった。数か月後退院し再び「うぶすな」に戻ってきた。両足とも太ももから下が切断され、身長が1m程に短くなっていた。少し大きめのお人形といった感じである。前と違ってほとんど喋らなくなっていた。それからしばらくしてご主人が一人で家にいる時、火事で亡くなってしまった。ご主人も軽い認知症だったようで、おそらく失火だったのだろう。Nさん夫婦が住んでいた家は今はなく空き地になっている。Nさんは24時間対応の医療系の施設に移ってしまった。あの時、パンのどんなところがカワイイのか、聞いておくべきだった。

朝9時半ごろ、デイサービスの小型バスが私の家に迎えに来る。隣の家の庭にバラの花が咲いている。既にバスに乗っていたSさんいわく「アジサイがきれいですね。」「Sさん、あの花はアジサイではなくてバラですよ。」その押し問答のような繰り返しが数回続いた後、Sさんいわく「菊の花はきれいですね。」私は分からなくなってきた。

「うぶすな」の建物と道路を隔てて真向いの家の庭にアジサイが咲いている。「Sさん、アジサイが咲いてますよ。」Sさんは無反応だった。

私の隣の家の庭に咲いている花は、バラかアジサイかはたまた菊か、多くの人はバラと言うと思うが、Sさんがそれをアジサイと言って何か不都合なことが起こるであろうか。時として菊と言って何が悪かろう。Sさんの目に映り香りを放っているその花を、Sさんが愛でればそれでいいだけの話ではないか。名前が分からない花は無数にある。翻って、あれはバラだと言い張った私はそもそも何を主張したのだろうか。私は自分が何か大きな勘違いをしているような気分になった。いや、間違いなく私は大きな勘違いをしている。それは認知症の老人を相手にまともに対応してどうするというような俗なことではない。もっと根源的なことだ。


デイサービスでの話 (2)    に続く

デイサービスでの話 (2)2016-01-28


                            涸沢岳より北穂高岳、槍ヶ岳を望む
                                                       2006.5.5(脊髄損傷前)


デイサービスでの話 (1)より続く

Yさん(男性)は山が好きだという。若い時(60年位前)よく登られていたようで私と山の話で盛り上がった。ある時当時の写真を持ってこられた。北アルプスの鹿島槍の山頂に若いYさんが立っている。自慢の写真なのだろう。そして、山小屋である女性と二人同室になり"一夜のアバンチュール"(Yさんの言葉)を楽しんだことを嬉々として小さな声で話された。Yさんはご夫妻で「うぶすな」に来られている。今さら奥さんに聞かれてもどうということはないと思うが、敢えて小さな声で話された時のYさんの顔が忘れられない。Yさんはその時確かに生きていた。

続いて、鹿島槍に登った翌日、穂高に登ったと言われた。えっ?翌日に! 私も北アルプスの主要な山は登っており、地図は大体頭に入っている。翌日に登るのは無理ではないか。「どんなルートで?」思わず尋ねてしまった。しばらく間があって「そんな昔のことは忘れた。」

それからYさんは私と山の話をしなくなった。月日がたち、Yさん夫婦は「うぶすな」に来なくなった。Yさんは足が悪く杖をついていたが、自宅で転倒し亡くなっていた。どんなルートで穂高岳に登ろうとどうでもいいではないか、60年前のことだ。自慢ついでにちょっと口がすべってしまったのかもしれない。私はなぜあんな小賢しいことを言ってしまったのか。なぜ素直に「健脚だったんですね。」と言えなかったのだろう。

昨年夏、皆さんが書いた習字が壁に貼ってあった。"七夕"、"花火" などに混じって奇異なものが二つあった。一つは  "安保法制"   誰が書いたのだろう。もう一つは ”ハルピンの松花江のほとり  すずらん匂う"   95歳のMさんが書いたものだ。Mさんは旧満洲のハルピンの女学校に通い、国際色豊かな当時のその街の思い出をよく話されていた。高校の国語の先生をしていたということで頭脳明晰だ。

山上憶良(万葉集の歌人)はバイリンガルだったという説(百済生まれの渡来人)がありますねと私が話を向けると、たちどころにその歌を一つ口ずさまれた。いろんな人がいる、脱帽。

「今日は木曜日?」「いや、土曜日です。」「土曜日に、なぜ私はここにいるの?」来た! 究極の問いだ。<なぜ私は今ここにいるのか?>  スタッフの人が何というか興味津々で聴いていた。

「おうちの人が申し込まれたのです。」それはそうだろう。「うぶすな」は介護保険のデイサービスの施設だから、土曜日にそこにいるということはケアマネジャーと相談して申し込んだのだろう。しかし、それは嘘ではないが私が期待した返答とは程遠い。学校の試験のように正解が一つということではない。そもそも正解とか不正解とかいう世界ではない。例えれば"事実"と"真実"は似ているがどこかが違う、その違いに無自覚いうことに似ている。

要は相手の心に響くものがあるかどうかだと思う。それであればどんな言い方でもいいと思う。「私と出会うためです。そして、楽しい時間を過ごすのです。」という類の返答を私は期待していた。

高齢で認知症の方は人にもよるが同じことを何度でも言ってくる。病気といえばそれまでだが、学習ということがなく対応するのは大変である。だから家族のためにもデイサービスという施設が必要なのだ。傍から見ていてスタッフの方の献身的な仕事に頭が下がる思いがする。その繰り返しの日常に何があるか。何もない。その日常しかない。いや、その日常がある。私はデイサービスでのその日常の中に咲いたいくつかの花を見た、その花の話を書いたつもりだ。