79歳になった。老いてなお頂きを求めん。 ― 2026-10-23
自分が立派な人間ではないことはこの私自身がよく知っている。中学生のとき太宰治の「人間失格」を読んだ。自分の事が語られているようで怖かった。虚言癖と虚勢と自己保身、つまり私は俗物でありそんな姿を他人に見破られるのがいやで身の丈以上に頑張ってきたように思う。
中学生のその頃「君たちはどう生きるか」(吉野源三郎著 岩波書店)を読んだ。哲学という言葉を知った。真面目にコツコツ努力するという生き方があることも知った。中学校の図書館に通い少し背伸びした気持ちで読書にふけった。ドストエフスキー全集にも手を出しロシア文学の偉大さを思った。どこにでもいる真面目さだけがとりえの18歳は、とりあえず東大理科一類に現役で合格した。さして大したことではないがそれがそれまで生き方の結果だったのか。
しかし、人生は18歳では終わらないし18歳の延長でもない。今79歳であるが思い出してみると仕出かした恥ずかしいことの数々、もしやり直すことが出来るならばと思わずにはいられない。あの頃には戻れない。20歳の頃からの新左翼の学生運動(全共闘)で、それまでの私の人生は大幅に方向転換を迫られた。それからの私はその方向転換をした後の人生を歩んできたという自負がある。ところで本当に方向転換できたのだろうか。今もその内容は問われ続けている。
強烈な努力!私が好きな囲碁棋士藤沢秀行先生の言葉である。強烈な努力が必要だ。ただの努力じゃダメだ。強烈な、強烈な努力だ。世にこれ以上のインパクトのある名言があるだろうか。膝錐之志、というのも秀行先生の名言である。
65歳の時頸椎を骨折し重度障害者になった。ほぼ寝たきりで手足もほとんど動かない。人生に絶望してもいい位の大怪我だった。そうでなかったならばまた違った楽しい人生があっただろうなどという、チマチマした心の構えではとても乗り越えることは出来ない。老いてなお頂きを求めん。強烈な努力が必要だ。その時65歳の男は静かに思った。
20歳からの13年間で私の人生は変わった。学生運動=東大全共闘→母の自殺→東大工学部合成化学科中退→沖縄闘争で沖縄へ(1970~1972)→沖縄の女性と結婚そして離婚→東京新宿の予備校で数学講師→公認会計士試験に合格→監査法人に勤務→結婚→東京から福岡へ移住。めまぐるしいめちゃくちゃな13年間の日々だった。私の人生はそれまで思い描いていたものとは全く変わってしまった。後悔のあろうはずがない。これが自分の人生だったのだという穏やかな満足感がある。
苦しかったのは60→65歳の5年間のうつ病の時だった。精神科(心療内科)の医者にも罹ったが月並みなことを言うだけで5年経っても何ら改善しなかった。65歳の時脊髄損傷の重度障害者になったことでうつ病はどこかに飛んで行ってしまった。その程度のうつ病だったのかもしれない。しかしその時の5年間は悶々として今思い出すのもつらい時間だった。
この歳になっても私は大事なことが何ひとつ分かってはいないのではないか。五体不満足のため食事、排泄、痰、着替え、つまり何から何まで妻の献身的な介護なしには生きることが出来ない。私の人生は妻の自己犠牲的な努力に支えられたものだ。感謝などというありきたりの言葉ではとても表現出来るものではない。私はこのことが本当に分かっているのだろうか。
今年は2月から6月初めまで腎盂炎他で入退院を繰り返した、そのあとコロナにも罹った。妻には筆舌に尽くしがたい苦労をかけた。いまだ体重は50㎏に達せず十分には体力は回復していない。高齢でしかも重度障害者であってみればこれで分相応ということだろう。一日のほとんどをベッドに寝たきりの生活をしているが、心の渇きのようなものを感じている。それは何だろうか。私に残された生命の時間が短いということだろうか。何か感動が欲しいのだろうか。どんな感動を?。
この歳になっても私は自分の人生の充実を求めているのか。私はまだ自分の人生に飽き足らないのだろうか。いいこともたくさんあったではないか、もうこのへんでよかろう、このへんでいいではないかと思いたい。”うつしよの はかなしごとに ほれぼれと あそびしことも すぎにけらしも” (古泉千樫)。
先に書いた「方向転換」の内容をはっきりさせること、それはあれからほぼ60年も経ってやっと分かってきた「母の自殺」の真相とその克服に触れざるをえないが、そのことにほとんど尽きるかもしれない。これまで敢えて避けてきたテーマを真正面に掲げて奮闘するしか道はないように思う。私にとって”老いてなお頂きを求めん”とはそういうことだろう。
(唐突だが)あの夢のようなめまぐるしかった全共闘運動(学生運動)から吸収したことを言葉にすること、この世を覆い尽くしている共同幻想という空気のような存在の姿をはっきり見定め、それが人の内面を本人にも分らない形でがんじがらめに縛り付けているということをを明らかすること、人間の歴史とはつまるところ共同幻想の変遷にほかならないこと、かかる事柄を知っただけで私はこの世に生まれてきた甲斐があったと思う。
今の世の中に批判的な私のような人間は世間に対して斜めに構えがちであるがそうではなく真正面に対峙して、世間を成立せしめている根幹であるところの人々が物事をどのようにとらえるかという共同幻想なるものを胸中のテーマとしてさらに豊かに深化できれば、恥ずかしながら私の希望するグロリアスな(?)80歳代への幕開けになるはずである。
坊さんは儲かりますか? ― 2024-12-18
子供の頃の私をがんじがらめにしたのが、小学校と中学校の学校教育で教えられた「健全なる精神は健全なる身体に宿る」という標語である。恐ろしく脅迫的なこの標語は私の骨の髄まで浸透し、それ故私の物事の考え方はいびつで奇形的な姿になってしまった。この歪んだ心情は思春期の頃がピークでその後克服しようと務めたがしぶとく今に至るまで生き残っている。私はこの10数年間この標語を敵として徹底的にやっつけてやろうと心に決めて考えを巡らせてきた。
どんなにがんじがらめになったか? 私は先生の謂うことをよく聞く至極真面目で成績優秀な子供、つまり優等生であった。先生の謂うことは100%正しいこととして受け入れ、疑うなどとは夢にも思わなかった。従って、小学校3~4年生の頃だったがこの標語を教えられたとき、体格が少し虚弱であった私は生まれて始めて劣等感のようなものに襲われてしまった、もしかして私には〈健全なる精神〉は宿らないのではないかと。
おまけに私は運動神経なるものがすこし鈍く特に球技なるものが大の苦手であった。当時は小学校低学年の時にはドッジボール、高学年になるにつれてソフトボールが男の子の小学校時代の2大球技であった。その球技から逃げることはしなかったが、なにしろからっきし駄目でその時の私は級友たちの間でほとんど存在感がなかった。
ご存じの方も多いと思うが英語では「a sound mind in a sound body」というらしいが、上のような日本語をあてはめるのは誤訳であるという説もある。元々は古代ローマの諷刺詩人・弁護士であるデキムス・ユニウス・ユウェナリス(60ー128)という人が残した諷刺詩である、そこで「古代ローマの諷刺詩集」国原吉之助訳(岩波文庫)を読んでみたが、日本語の標語のような意味はない。
この時代錯誤的な標語には特定のイデオロギーの匂いがついて離れない。戦前の軍国主義下で青少年を戦争体制に組み込む目的で声高に語られたのがこの標語である。それとなくしかももっともらしく内面から青少年を戦争に駆り立ていった役割は許せない。それが戦後も無批判に継承されたのである。
警察が正義を語り、教育者が健全なる精神を語るとき世の中は危うくなっていると思わなくてはならない。アインシュタイン曰く「常識とは18歳までに寄せ集められた偏見の固まりである。」大賛成である。盲目的に健全なる常識になるものを良しとして疑わず凝り固まっただけの人を見ると、それもその人の選びとった人生ではあろうが私は複雑な気持になり少し悲しく思う。
話変わって、家内の祖父の善一じいちゃんがまだ生きている頃のことだからもう4
0年も前のことになるが、何の法事の時だったかは忘れてしまったが、お経が終わってお坊さんに一服の茶と菓子を差し出してまもなく、善一じいちゃんがいかにも飄々たる口調で「お坊さんは儲かりますか?」と話しかけた。その時善一じいちゃんは80歳位でお坊さんはまだ若く30歳半ばだったと思う。お坊さんは新興の開拓された町のほうに移り住んでいるということで、そこからわざわざこの滑石という長崎のはずれにまでお経を詠みに来られていた。新興の開拓された町だと儲かると思って移り住んでみたのですが想うようには儲かりません、というような話を坊さんもとぼけた調子で善一じいちゃんに合わせて応じた。
善一じいちゃんの一家は戦前台湾の台北に住んでいて、数人の現地の人を雇い手広く裁縫屋を営んでいた。そこそこ財産も貯まっていたそうだが、終戦後内地(長崎の思案橋)に引き揚げる時には財産は台湾に置いたまま躰一つになるほかなく無一文になってしまった。それからというもの善一じいちゃんは全く働かず朝から夕方まで浦上の水源地に行って魚釣り三昧の生活を送るようになったという。長崎でも始めた裁縫屋の仕事はもっぱら妻のケサばあちゃんに任せっきりだったらしい。これが私の一家の家内側のルーツのいったんである。
私はまだ30歳後半だったと思うが、その時の善一じいちゃんの飄々とした語り口が今以て忘れられない。私も年齢を重ねるうちに、あの善一じいちゃんのようなこの世の内か外か分からない世界で生きているようなしゃべり方をしたいものだと思うようになった。78歳になり80歳まであとわずか、私にはまだあのとぼけた語り口はなかなか話せない。これは私の人生の目標といってもいい位の重要な事柄である。頑張るとか頑張らないとかいう世界を乗り越えてしまった、世離れした幸福の極地とでもいうような感覚に私も早く溺れたいものだと願っている。
75歳を超えた頃よりそれまでと比べると体力がかなり落ちたようだ。年令を考えるとそれで自然なことだ、持病があって苦しまないだけよしとしなければならないとは思う。小中学校で習った〈健全なる精神は健全なる身体に宿る〉がいかにデタラメでいかに人の心を蝕む危険な害毒であることか、これでは障害者は浮かばれないし老人も浮かばれない、他方屈強な肉体を持ちながら邪悪な心を秘めた人間のなんと多いことか。
〈健全なる精神〉などというものはこの世の何処にもない、同じように〈健全なる身体〉というものもこの世の何処にもない。そんなことはちょっと考えるとすぐ分かることだったはずだ。しかし大上段に語られるとそんな嘘ももっともらしく感じられてしまう。私にあるのはあの善一じいちゃんの語り口へのあこがれである、あるとすればこれが私の〈健全なる精神〉である。
今はもう秋 ― 2023-03-03
九重法華院の秋 2003.10.24 (脊髄損傷前)
今はもう秋 誰もいない海
知らん顔して 人がゆき過ぎても
私は忘れない 海に約束したから
つらくてもつらくても 死にはしないと
秋になると上の唄が胸をよぎる。トワエモアの唄として有名だが、私世代ではなんといっても越路吹雪だ。あの独特の大人の女の雰囲気は彼女でないと出せない。唄の詩は山口洋子、曲は内藤法美つまり越路吹雪の夫君である。夏の賑わった後の静寂な誰もいない海、波の音しか聞こえない、そう今はもう秋なのだ。想像の秋は現実の秋より深く秋を感じさせてくれる。
「愛の詩集」(1956年の出版 角川新書)という古い本をアマゾンで手に入れた。私が小学校6年生の時父に頼んで買ってもらった本だが、どこかで紛失したのだろう今になってまた欲しくなった。6年生の時早熟気味の友達のF君がもっていたので私も欲しくなったのだ。父が子供の私にはまだ少し難しい本ではないのかと言ったことを思い出す。中原中也の「曇天」という詩が載っていた。
”ある朝 僕は 空の 中に 黒い旗が はためくを 見た。” で始まるこの詩の書き出しは私の頭に妙に染み付いた。「黒い旗」が何なのか当時の私には分からなかったが、「黒い旗」は何故か呪文のようにしつこくつきまとってくる。成長するにつれその正体が何なのか理解した。空の中に「黒い旗」がはためいている、中原中也と同じようにあるとき私もそれを見たのだ‥‥‥‥青春という一種暗い時代の始まりであった。私の精神史で記念すべき一冊である。
福岡市の油山に紅葉を見に出かけた。私は脊髄損傷で歩けなくなる前は「あだると山の会」のメンバーとして登山に熱中していた。私にとって幸福な時間だった。その時の仲間が誘ってくれた。私と妻を含め15名程集まった。あの時から10年以上経つのでお互いに髪は白くなっているが山が好きだという気持は変わらないままだ。かっての山仲間との10年ぶりの紅葉(もみじ)狩り、車椅子でも山の秋は楽しめた。
メールで青木繁光君が亡くなったと知った。彼とは中学、高校、大学と同じでお互いにその存在を認め合った仲だった。深い意味で彼とは親友でありまたライバルでもあった。だから、彼とはベタベタしたつきあいはしなかった。年賀状のやりとりもしなかった。30歳になっても40歳になってもそして76歳のこの歳になっても私の心の中で彼はずっと生きていた。彼にだけはBUZAMAな姿は見せられない、落ち込んだ時の心の歯止めとでもいう形で、彼はいつも凛として私の前に立っていた。
数年前福岡の私の会計事務所に訪ねて会いに来てくれた。50年ぶりの再会だった。中学から大学までの10年間の彼が私の心の中で生ている。それ以外の彼のことは知らない。伝え聞くところによると、彼は風力発電の権威であったそうだ。社会人の合唱団でも中心的に活躍されたらしい。勤めていた会社では一度も残業をしなかったという噂を聞いたこともあった。
彼のようなエリートエンジニアが一度も残業をしないなどということがあり得るの
だろうか。今度会ったときに確かめてみようと思っているやさきに亡くなってしまった。彼ならばやりかねない。そのことがどれ位ものすごいことか、彼はその重圧に耐えて会社勤めをしたのだろうか。彼は曖昧なことを許さない一種完成した超一級の辛口の人間であった。会社勤めの人生を彼にとってもっと大事な事(おそらく社会人の合唱団)のために捨てたのだと理解した。
秋の日の ヴィオロンの ためいきの 身にしみて ひたぶるに うら悲し
ヴェルネールの「落葉」という詩を上田敏が訳したものであるが、若かりし頃先ほどの「愛の詩集」で読んだことを印象深く憶えている。この詩が第二次世界大戦の時のノルマンジー上陸作戦の開始を報せる暗号として使われたことは後日知った。
例によって連想ゲームよろしくネットで調べていると、森瑤子の「秋の日の ヴィオロンの ため息の」というタイトルの小説に出会った。普段はこういう類の小説を読むことはないが之も何かの縁というノリで読んでいると、長田弘(おさだひろし)という詩人に出会った。読んでみると長田弘に親近感を感じた、ここからまたまた私の好奇心ワールドは広がりそうな感じがする。こんな感じで生きていると時間が足りない。

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