五味川純平「戦争と人間」、 船戸与一「満州国演義」 を読む。2021-10-20

 
  劔岳北方稜線より早暁の鹿島槍(双耳峰)を遠望(2006.08.27 脊髄損傷前)



 50年以上前のことだが受験勉強中心の生活から解放されて大学1年生の時、かっての超ベストセラー 五味川純平の「人間の条件」を読んだ。このたびかねてから読みたいと思っていた五味川純平の「戦争と人間」と船戸与一の「満州国演義」を読んだ。2冊ともに長い小説である。長編小説としてよく読まれているドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」と比べると、二つとも2倍以上の長さである。

 これまで昭和史の本を読んできたが、1930年前後に国内の世論は満州事変支持へと大きく傾いた。政府・軍部による世論操作にもより、日本国内の中国に対する侮蔑的なナショナリズムは大衆的レベルにまで沸騰し、更に経済が最悪の状態にまで逼迫したことにより、日本は満州国を建国し戦争必至への道へと大きく旋回してしまった。

 日露戦争(1904~1905)、辛亥革命(1911~1912)、第一次世界大戦(1914~1918)、ロシア革命(1917)に続いて、1930年前後の国内の主な動きは以下の通りである。

 1927(昭和2)金融恐慌 第1次山東出兵 東方会議   第一回普通選挙
 1928(昭和3)3.15事件 済南事件 張作霖爆殺事件 改正治安維持法
 1929(昭和4)田中義一内閣→浜口雄幸内閣  軍縮財政 世界恐慌 
 1930(昭和5)ロンドン軍縮会議→統帥権干犯問題 台湾霧社事件 
        浜口首相狙撃 農業恐慌 間島朝鮮人武装蜂起
 1931(昭和6)3月事件 中村大尉事件 万宝山事件 満州事変 10月事件
 1932(昭和7)犬養毅内閣 第1次上海事変 満州国建国 血盟団事件 
        5.15事件 リットン調査団報告
 1933(昭和8)ヒットラードイツ首相に 国際連盟脱退 滝川事件 神兵隊事件

 その後、2.26事件(1936)から 日中事変(1937)、ノモンハン事件(1939)、日独伊三国同盟(1940)、太平洋戦争(1941~1945)、ポツダム宣言受諾(1945)へと奈落の底にまっしぐらに突き進んでしまう。

 <大きく旋回した>という上の理解はとりあえず間違ってはいないと思うがもう少し大局的に見ると、清がアヘン戦争(1840年)でイギリスに敗北し、ペリーの黒船が日本に来航(1853年)した頃から東アジアの大きな激動が始まった。幕末・明治維新から太平洋戦争敗北(1945年)に至るまでの約100年間の急激な日本の動きも、<欧米列強の植民地主義と東アジアの近代化とナショナリズム>という大きな歴史のうねりの一部として理解する方が分かりやすいと思う。

 さらに歴史を大きく俯瞰すると<欧米列強の植民地主義>の傷痕は今なお世界の到る所で生々しい現実を晒しており、<近代化とナショナリズム>の内容は複雑で時代とともに変化して一様ではなく批判的に検討しなければならない面もあるが、世界を見渡すと今もって貧しい民衆の群が社会の底辺でうごめき、民族間の戦争・紛争は止むこと無く何処かで勃発している。その一方で欧米の飽食している人間が飽くことなく世界の富を支配し続けている。

 戦前のこの波乱に富んだ激動の時代(1931年の満州事変~1945年の敗戦)はすでに過去のものであるが、その時代に生きていたならばどんな気持ちで生きていただろうかと考えられずにはいられない。時間が濃密に凝縮した<侵略と自衛>というこの戦争の時代に私は心を奪われて久しい。

 日本の歴史の中で方向を誤った変調な時代であったという評価が支配的であるが、当時を軍国主義だといえばそれで全てが解決されたような気分になることこそが問題である。戦前と戦後の間にアメリカ・GHQが支配する占領の時代(1945~1952)があったが、戦前は知れば知るほど今生きている現在と深い所で通底していると感じてしまう。一言で云えば品のないいい方だが、相も変わらず小賢しい薄っぺらな人間が制度や組織の悪しき惰性に乗っかってこの日本社会を牛耳っている。

 もっと具体的に云うと、責任をとらず自己の保身と利益を第一に考える政治家と官僚、威勢がよく耳ざわりのいい主張になびく素朴だが無力な大衆、中国・朝鮮に対する侮蔑的な歪んだナショナリズム、見識も知性も教養も恥ずかしいほどに貧弱な政権のトップ、政党政治の機能不全等々、ひどく酷似性を感じてしまう。

 しかしよくよく考えてみると酷似性を感じるのは当前のことだといってよい。原爆を投下され空襲で焦土と化し300万人以上の同胞が死んだ悲惨な戦争ではあったが、たかだか15年間くらいの戦争が終わっただけで上記のような人間の思考や行動が変わると考える方が、楽観的で滑稽だというものかもしれない。

 戦後の歴史もすでに70年以上経つが、"反戦" ”平和” ”民主主義” ”自由” ”平等” 等々の、250年前のフランス革命と似たようなお題目を唱えているだけでは、霞ヶ関・永田町一帯に生息する政治家と官僚の本質を何も変えることはできなかった。何が根本的に間違っていたのか、我々はどこからどのような思考を出発させなければならないのだろうか。

 五味川純平、船戸与一の小説は戦前のこの時代を扱ったものである。作家も小説も通俗的すぎると思っている方がおられるかもしれないが、小説の巻末の膨大な(注)と参考文献の一覧を見れば、二人の作家がかなりの分量の資料を漁ったことがお分かりになると思う。「戦争と人間」の(注)は澤地久枝氏が書いているが、これを読むだけでもかなりの根気とエネルギーが要求される。船戸与一はガンを病みながらも執念で「満州国演義」を書きあげこれが遺作となった。私より2歳年上の作家である。

 これらの小説を読みたい方は、日本の現代史をある程度調べてから読まれる方が分かりやすいと思う。標準的な所で半道一利氏の「昭和史1926~1945」(平凡社ライブラリー)、保阪正康氏の「あの戦争は何だったのか」(新潮新書)、山室信一氏の「キメラ 満州国の肖像」(中公新書)、安富歩氏の「満洲暴走 隠された構造」(角川新書)、戸部良一他「失敗の本質 日本軍の組織論的研究」(ダイアモンド社)などを参考にしてはいかがであろうか。変わったところで、佐野眞一の「阿片王」(新潮文庫) は歴史書ではなくノンフィクションであるが、歴史を表層ではなく現在に通じた厚みをもって理解するのに役立つ。

 日本学術会議の会員候補として推薦されながら、管政権により否認されたことで話題になった東大教授加藤陽子氏の諸著作も傾聴に値すると思う。小説では、安部公房「けものたちは故郷をめざす」、吉村昭「殉国 陸軍二等兵比嘉真一」、大岡昇平「野火」などは読んで損はない。

 歴史の本で100%お薦めできる決定版はなかなかない。歴史の不明な点を調べていくとますます分からないことが増えていく。これまで歴史の教科書に書いてあったことに疑問を感じるようになる。現代史においてさえ新たな史料が見つかりこれまでの通説的な解釈が覆ることも多い。難しいことだが偏らないで広範囲に読むとしか言い様がない。

 小説はフィクションであることには違いないが、その土台となる歴史の個々の事実は時間の経過の通りで曲がってはいけない、その上での人間のドラマである。似たようなことを船戸与一は次のように述べている。”小説は歴史の奴隷ではないが、歴史もまた小説の玩具ではない。” 我々読者は小説のストーリーを楽しみながら同時に歴史のディテイルを学ぶことができる。
 
 私は更に興味に任せて戦前の昭和史の本数十冊を読んだ。興味深い本もあったがそれらの本等については長くなるのでここでは触れない、又いつかこのブログに感想を書きたいと思う。映画では、「人間の条件」、「戦争と人間」、「野火」(新旧)、「セデックバレ」、「南京南京」、「226」、「ラスト・エムペラー」、「硫黄島からの手紙」、等々を観た。

 <私事で恐縮だが> 私の祖父の成瀬八郎は戸籍謄本によると昭和21年8月(日にちの記載はない)長崎市で死亡している。なんと私が生まれた翌月である。満州の北東(現在の黒竜江省)の牡丹江で憲兵をしていたという、当時牡丹江付近では地下資源採掘他に多数の日本人が住みつき関東軍が駐屯していた(昭和20年8月 牡丹江事件あり)。憲兵だったという祖父の死は日にちの記載がないことで、自然な死にかたでないことは明らかであろう。BC級戦犯として処刑されたのであろうか。

 私の父は今から数年前93歳で亡くなった。父は佐賀県鹿島市と嬉野市の中程にある山あいのさびれた農村に林田姓で生まれ、幼い時に親戚の成瀬八郎の養子になった。林田家は農家で貧しかったのだろう、憲兵をしていた成瀬八郎に養子に出したのである。林田家の長女が成瀬八郎に嫁いでいた、従って父の義母は実の姉ということになる。成瀬八郎夫婦には子供が生まれたが生後すぐ亡くなったという。義父が満州で憲兵をしている中、父は独り生活費の仕送りを頼りにして長崎市で学生生活を送っていた。

 従って私は林田姓だったかもしれないし、あるいは本来ならば成瀬姓を名のるところであったのかもしれない、故あって母方の養子となり松崎姓で生きてきた。つまり私は血筋正しき由緒ある家柄の人間ではない。私の妻も似たようなものである。従って私達の子供達も言わばどこの馬の骨とも分からないということになろうか。

 どこの馬の骨とも分からない………なんと素晴らしいルーツではないか、 ”雑草のごとくたくましく生きていく” という心の 源泉がここにあると私は誇らしく思っている。雑草は踏まれても強い。自慢できる祖先探しをするNHKの「ファミリーヒストリー」という番組などは、わが家族には全く関係ない。

 例えば天皇家のように万世一系と云うような祖先のフィクションに心の拠り所を求めるというような生き方は、どこかいかがわしく嘘っぽいと思う。人は自分のDNAを生まれたときのまま死ぬまで変えることができない。だからどのようなDNAを持っているかを思考の出発点にするわけにはいかない。

 同じことだが人間は誰しも自分から願い出てこの世に生まれてきたわけではない。ある日あるとき物心がついたとき、自分がこの世に存在していることを知るだけである。自分が社会に放り込まれ独りで生きることを余儀なくされていることを知るだけである、つまりそこからすべてが始まる。従ってそれより前の出自を問題にすることは、ひとりの人間の人生を考えるときには原理的に間違いである。

 私がまだ小学生の低学年の頃(昭和30年代のはじめ)のことであるが、私の祖母(父の義母)が佐賀の片田舎から私らの長崎の家に来て一日泊まっていったことを 思いだす。祖母は子供の目から見ても貧しい身なりをしていた。山で拾ってきたという椎の実をお土産に持ってきた。どことなく遠慮がちであった。私は孫(または甥)になるわけであるが、祖母は私にどう対応したのいいのか分からない風だった。祖母との出会いはこれだけである。

 父は学徒動員で出征し陸軍少尉として朝鮮の釜山で終戦を迎え、原爆投下直後の長崎市に戻ってきた。父は生まれたばかりの私を抱え、義父の普通ではない死をどんな気持ちで迎えたのだろうか。その父が従軍し軍隊生活を体験したためであろうか、私がまだ小学生の時だったが五味川純平の「人間の条件」を貪るように読んでいたことを思い出す。

 少し話は飛んで私が30代半ばの頃(その頃、私は公認会計士としてある監査法人に勤めていた)のことになるが、ある日父は私に対し反省的に詫びる口調で ”お前の考えが正しかった。自分の考えが間違いだった。” と話し出したことを思い出す。

 大学生の時私はヘルメットをかぶり学生運動(全共闘)にのめり込んだ、そして大学4年生(工学部)の時父にはなんの相談もしないで退学届を出した。履歴書を出してどこかの会社に就職して生きていくなどという選択肢は、当時の私の頭の中にはこれっぽっちもなかった。わずかな一歩ではあったが私は初めて独りで自分の人生の決断をした。”たいていのことはどうでもいい、たくましく生きていくのだ。” 私は自然に決意していた。

 思えば父には心配のかけ通しで、親不孝な20代の10年間だったと思う。その20代の時私は定職にも就かず住所も転々とし、しかし人並みに結婚と離婚の悲喜劇だけは演じさせてもらった。ほかの人とはかなり違った私のオリジナルな20代、特別に苦労したなどと云うつもりは全くない、普通ではない私だけのいとおしい日々であった。

 私と父とは政治的主張で真っ向から対立していた、父とは和解しないままの10年間だった。父はその事を言っているのだ。それからというものあれだけ右寄りだった父が自民党政治を批判し徐々に左傾化していった。私には父が変わっていく様子が手に取るようによく分かった。

 昭和天皇が亡くなった時、父は ”あの男はとうとう死ぬまであの戦争についての自分の責任について何も謝まらなかった。” と私にはっきり聞こえる声で怒気を満杯に含ませて言った。腹立たしい悔しさというか、あの戦争に従軍した人間にしかわからない筆舌に尽くしがたい重い感情、身中に沈殿していたもって行き場のない感情を父は腹の底から発射したのだ。一瞬だったがあの時父は紛れもなく戦中派の確信犯の姿を見せた。

 その後長崎市の市長選挙がある度に、昭和天皇の戦争責任について肯定的な発言をしていた本島等氏(1922~2014 市長4期)を支持し、推薦人名簿を集めるなど応援活動をしていた。父と本島等氏は大正11年の同年の生まれである。 <私事終わり>

 「戦友」という軍歌がある。日露戦争の時の軍歌であるがその後も広く兵隊ソングとして謳われた。歌詞は次の通り。
ここは御国の何百里/離れて遠き満州の/赤い夕陽に照らされて/友は野末の石の下
(以下14番まで続く) なるべくゆっくり謳うことが情感を増し、全部謳い終わるのに30分以上かかるという。そのメロディーが郷愁を感じさせ厭戦的だという理由で、東条英機により謳うことが禁じられた。

 私は上の小説を読み進める時、舞台が満州の場面では<赤い夕陽に照らされた満州の荒野>なるものをイメージしてしまう。それは、冬の季節では<白一色の雪原>に変わり、春夏では一面<コーリャンの緑野>に変わる。「戦友」のメロディーと映画「戦争と人間」のテーマソングも胸中時として流れる。

 私は中国の東北地方(満州)に行ったことはないし、高梁(コーリャン)の畑を見たこともない。通奏低音というか絵画的音楽的で一種詩的世界と言ってしまっては、戦争で死んでいった幾百万の人達に対し不謹慎の誹りと非難されてしまうかもしれないが、そういう気分に我が身を浸しながら本を読んだ。(かかる心情については安富歩氏が満州の成り立ちから深い検討をされている。) 

 戦争を扱った小説の読み方は人それぞれであろう。私は一つには自分に似た登場人物(主人公とは限らない)の戦争の中での生き方に注目して読む。そうすることで読み方にメリハリがつく。二つには、歴史の中の個々の事件の襞にできるだけ肉薄したいと思って読む。従って時々寄り道をせざるを得ない。

 例えば2.26事件では、「二・二六事件」中村正衛(中公新書)、「妻たちの二・二六事件」澤地久枝(中公文庫)、「獄中手記」磯部浅一(中公文庫)、「私の昭和史」末松太平(中公文庫)、「国体論及び純正社会主義」「日本改造法案大綱」北一輝、「北一輝論」松本清張(講談社文庫)、「北一輝」渡辺京二(朝日選書)、「革命家・北一輝「日本改造法案大綱」と昭和維新」豊田穣(講談社文庫)、「再発見 日本の哲学 北一輝ーー国家と進化」嘉戸一将(講談社学術文庫)、「昭和維新試論」橋川文三(講談社学術文庫)などを読んで私なりの理解を深めることになる。

 当然のことだが<北一輝>に関する本は膨大にある。あの時代に生きていたならばと考え、2.26事件に決起した若き青年将校達に我が身を重ね合わせ思わず背筋がぞっとしてしまう。遠い昔の話ではない、私が生まれるわずか10年前の日本の歴史の方向を決定づけた事件である。学者に成るわけでないが歴史をそれなりに我がものにしたいと思う。私はかかる歴史の流れの中に生まれそして生きている。”私という人間は誰であるか” という謎解きを考えるためには現代史の理解は避けて通れない。



 ………私は時々思うのだが、これまでたいして勉強らしきものをしてこなかったこの75歳の高齢者の男が、今さらそもそもそんな願望(私という人間は誰であるかという謎解き)を満たすことにはたしてどんな意味とか価値とかがあるのだろうか? その読書の成果らしきものを社会に還元しにくい高齢者が、自分一人心の中だけで満足することとははたしてどういう営為と名付ければいいのだろうか? その営為に何らかの普遍性はあるのだろうか?
 
 意味とか価値とか普遍性とかにどうして私はこだわってしまうのか? よくよく考えるとそんなものは内面的な上昇志向、承認欲求、自己満足の別名ではないのか? そんなものは全く無くても一向にかまわないのではないか。この疑問と伴走しながらの私の読書である。
 
 重度身体障害者になって10年目を迎えるが、私の興味は経済学から歴史へと移ってきた。そしてなるべく早く歴史からカンジンカナメの哲学の気になっているところに読書の軸足を移したい思っている、そうしないとそのうちボケてしまうか寿命が尽きてしまう。
 
 ………ところで何故に私はこんなにちょっと焦った風にそして自分を急かせるように考えてしまうだろうか。この事は前にもこのブログで何度も書いたことで、又蒸しかえすようだがまた同じように考えてしまう。晴耕雨読の境地に到達しえないまま、未熟にもこの高齢者の男は死ぬまでこんな感じで生きていくのだろうか。


 さて、元に戻って結論風に言うと二つの小説の主人公は誰かはっきりしない。濃淡はあるが主人公は人間ではなく「満州国」と考えたほうがよさそうである。「王道楽土」と「五族協和」を理想として唱えた戦前に現れた一種の壮大な幻想であり、しかし現実に存在したその「国家」の誕生から消滅までの歴史を作者は語りたいのだと思う。なぜなら「満州国」なくして日本の現代史はないからだ。

 五味川純平は「戦争と人間」で新興財閥五代一族とそれに関係する関東軍将校や満州人を配置して語り部とした。船戸与一は「満州国演義」で敷島四兄弟(一郎、次郎、三郎、四郎)を外交官、馬賊頭目、関東軍将校、元無政府主義者とし、かつ関東軍特務機関に所属する間垣徳蔵というミステリアスな人物を配置して語り部とした。

 登場人物はそれぞれの歴史の領域を語るために配置されたのであり、冒険物語ではないので読者が期待するような自主性や心の春秋には少し乏しいかもしれない。日中戦争・日米戦争の15年間の歴史を教科書的な歴史としてではなく、そこに生身の人間の生き死にを伴って情感豊かにその歴史の細部を理解することがかかる小説を読む醍醐味であろう。


 ところで思うに、戦前も現在もなんと情けない程愚かな時代であることか。そして浅薄な批判を踏みこえて、賢い道を切り開くことがなんと難しいことか。自分をそして自分を含めたこの社会をどうとらえるかは本当に困難を極める。歴史を知ることがその一助になればよいがそう簡単なことではない。人は本を読み呻吟し考える、その果てに何があるか、何かを獲得するか。私はその時間が徒労に終わるとは思わない、少なくとも人は思索する自分を発見する、そして ”自分の人生” を歩み始めた!と感じる。
この感動は大きい。