今はもう秋2023-03-03



        九重法華院の秋 2003.10.24 (脊髄損傷前) 


  今はもう秋 誰もいない海
  知らん顔して 人がゆき過ぎても
  私は忘れない 海に約束したから
  つらくてもつらくても 死にはしないと

 秋になると上の唄が胸をよぎる。トワエモアの唄として有名だが、私世代ではなんといっても越路吹雪だ。あの独特の大人の女の雰囲気は彼女でないと出せない。唄の詩は山口洋子、曲は内藤法美つまり越路吹雪の夫君である。夏の賑わった後の静寂な誰もいない海、波の音しか聞こえない、そう今はもう秋なのだ。想像の秋は現実の秋より深く秋を感じさせてくれる。

 「愛の詩集」(1956年の出版 角川新書)という古い本をアマゾンで手に入れた。私が小学校6年生の時父に頼んで買ってもらった本だが、どこかで紛失したのだろう今になってまた欲しくなった。6年生の時早熟気味の友達のF君がもっていたので私も欲しくなったのだ。父が子供の私にはまだ少し難しい本ではないのかと言ったことを思い出す。中原中也の「曇天」という詩が載っていた。

 ”ある朝 僕は 空の 中に 黒い旗が はためくを 見た。” で始まるこの詩の書き出しは私の頭に妙に染み付いた。「黒い旗」が何なのか当時の私には分からなかったが、「黒い旗」は何故か呪文のようにしつこくつきまとってくる。成長するにつれその正体が何なのか理解した。空の中に「黒い旗」がはためいている、中原中也と同じようにあるとき私もそれを見たのだ‥‥‥‥青春という一種暗い時代の始まりであった。私の精神史で記念すべき一冊である。

 福岡市の油山に紅葉を見に出かけた。私は脊髄損傷で歩けなくなる前は「あだると山の会」のメンバーとして登山に熱中していた。私にとって幸福な時間だった。その時の仲間が誘ってくれた。私と妻を含め15名程集まった。あの時から10年以上経つのでお互いに髪は白くなっているが山が好きだという気持は変わらないままだ。かっての山仲間との10年ぶりの紅葉(もみじ)狩り、車椅子でも山の秋は楽しめた。

 メールで青木繁光君が亡くなったと知った。彼とは中学、高校、大学と同じでお互いにその存在を認め合った仲だった。深い意味で彼とは親友でありまたライバルでもあった。だから、彼とはベタベタしたつきあいはしなかった。年賀状のやりとりもしなかった。30歳になっても40歳になってもそして76歳のこの歳になっても私の心の中で彼はずっと生きていた。彼にだけはBUZAMAな姿は見せられない、落ち込んだ時の心の歯止めとでもいう形で、彼はいつも凛として私の前に立っていた。

 数年前福岡の私の会計事務所に訪ねて会いに来てくれた。50年ぶりの再会だった。中学から大学までの10年間の彼が私の心の中で生ている。それ以外の彼のことは知らない。伝え聞くところによると、彼は風力発電の権威であったそうだ。社会人の合唱団でも中心的に活躍されたらしい。勤めていた会社では一度も残業をしなかったという噂を聞いたこともあった。

 彼のようなエリートエンジニアが一度も残業をしないなどということがあり得るの
だろうか。今度会ったときに確かめてみようと思っているやさきに亡くなってしまった。彼ならばやりかねない。そのことがどれ位ものすごいことか、彼はその重圧に耐えて会社勤めをしたのだろうか。彼は曖昧なことを許さない一種完成した超一級の辛口の人間であった。会社勤めの人生を彼にとってもっと大事な事(おそらく社会人の合唱団)のために捨てたのだと理解した。

 秋の日の ヴィオロンの ためいきの 身にしみて ひたぶるに うら悲し

 ヴェルネールの「落葉」という詩を上田敏が訳したものであるが、若かりし頃先ほどの「愛の詩集」で読んだことを印象深く憶えている。この詩が第二次世界大戦の時のノルマンジー上陸作戦の開始を報せる暗号として使われたことは後日知った。

 例によって連想ゲームよろしくネットで調べていると、森瑤子の「秋の日の ヴィオロンの ため息の」というタイトルの小説に出会った。普段はこういう類の小説を読むことはないが之も何かの縁というノリで読んでいると、長田弘(おさだひろし)という詩人に出会った。読んでみると長田弘に親近感を感じた、ここからまたまた私の好奇心ワールドは広がりそうな感じがする。こんな感じで生きていると時間が足りない。