国分功一郎「暇と退屈の倫理学」を読む ― 2015-09-29
(写真の説明)
ドウダンツツジ 九重 2005.6.12(脊髄損傷前)
この本(朝日出版社)を二つのルートで知った。一つは私の二男が後生大事に抱えて読んでいたこと。二つはたまたまNHK・Eテレで「哲子の部屋」という番組を見たこと。この番組は私の興味を呼び起こす内容で、3週連続だったが3回とも見てしまった。そこに国分功一郎が出ていて、今まで私が聞いたことがないようなことを話していた。益々興味は高まった。番組は書籍(3巻 河出書房新社)にもなっていて、テレビで放送されなかった内容も詳しく書いてあった。そうか、国分功一郎とは二男が抱えていたあの本を書いた著者か、こうして「暇と退屈の倫理学」に出会った。
「哲子の部屋」は3人(マキタスポーツ、清水富実加、国分功一郎 or 千葉雅也)の鼎談を収録したもので、キーワードで言えば、1巻は「習慣」、2巻は「環世界」、3巻は「アイデンティティ」がテーマである。1巻と2巻の内容は「暇と退屈の倫理学」に書いてあることとほぼ重複する。3巻が取り上げている内容は、"本当の自分"って何?ということで、この3巻は後日このブログに取り上げて書きたいと思う。
さて、「暇と退屈の倫理学」であるが、この本の目次は次のようになっている。
まえがき
序章 「好きなこと」とは何か
第1章 ウサギ狩りに行く人は本当は何が欲しいのか?
第2章 人間はいつから退屈しているのか?
第2章 人間はいつから退屈しているのか?
第3章 なぜ"ひまじん"が尊敬されてきたのか?
第4章 贅沢とは何か?
第5章 そもそも退屈とは何か?
第6章 トカゲの世界をのぞくことは可能か?
第7章 決断することは人間の証しか?
結論
あとがき
日常生活の中でぼんやりとだが何かがおかしいと思うことがよくある。どこがどのようにおかしいのかはっきりとは分からない。しかしそのおかしいと感じることはけっこう深いところから沸き起こっているという予感がある。以下いくつか私がそのように感じたことを述べる。
河島英五という歌手(シンガーソングライター)が「何かいいことないかな」という曲を歌っていた。聴いて私は不快になった。絶叫調に「何かいいことないかな」と繰り返すその歌い方に退廃的な匂いを感じた。元々人が口に出して言ってはいけないことを言っているような気がした。それを言っちゃおしまいよ!という感じである。よく人は挨拶代わりに ”何かいいことはないか” と軽いタッチで言う。いいことがたやすく見つかるとも思えないが、情報収集の一つだ、なにかのきっかけになるのであればそれはそれでいい。河島英五の歌い方はそういう軽い乗りではない、真剣に言っているのだ。私は自分にこの言い方を禁句にしてきた。他人に聞くことではなく、人生を賭して探すことではないのか。断っておくが、私は河島英五が嫌いなわけではない。「酒と泪と男と女」という私の好きな曲も歌っている。
何事もうまくいかないことがある。面白くない日が続く。重く出口のない気持ちがうっ積していく。そんな自分の気持ちをどこにどう持っていったらいいのか分からない。河島英五はその時「何かいいことないかな」と叫んだのだ、誰に言うわけでもなく。そうする以外ほかにどうすることもできなかったのだ。河島英五の曲はそう聴いた方がいいのかもしれない。叫びたい人は叫べばいい。しかし私は「何かいいことないかな」とはあえて頑張って言わないほうがいいと思う。そして、自分の中に新しい考え方(別の言葉)が生まれるのをじっと待つ方がいいと思う。
特に嫌なことがあったわけではない。特に楽しいことがあったわけではない。昨日と同じような時間が今日も流れた。明日も同じような時間が流れるだろう。だからどうだというわけではない。しかしなぜか知らないが、日常の変わりばえのしない時間を過ごしながら、ふとある時人は一人ぽつりとつぶやくのだ、「何かいいことないかな」と。なぜつぶやいてしまうのか。それは、そう自分に向けてつぶやきい気分だからだ。この気分を他人に言葉で伝えることはほとんど不可能である。そしてこの気分は霧のように人生を覆っているのだ、とてつもなく深く。
「何かいいことないかな」はけっこう難物である。
趣味は何ですか?とよく聞かれる。趣味??? 私は「好きなこと」と言い換えて登山と囲碁とXXXとYYYですと応える。趣味という言葉になぜかなじめなかった。脊髄を損傷する前、私は「あだると山の会」という会員140名の中高年山の会の事務局長をしていた。山に対する経験やスタンスは人それぞれ、職場の山岳部に属し海外の山にも登ったいう人もいれば、定年になったので健康管理を兼ねてハイキングを楽しみたいという人もいた。いろんな人がそれぞれのレベルで山を楽しむ、それはそれでいいことだ。
「あだると山の会」を趣味の会と考えている会員が少なくなかった。趣味の会という言い方に私は違和感を感じていた。山が好きな人の集まりと私は考えていた。じゃ、趣味の会と言っても同じことじゃないか。しかし、趣味という言葉で定義してしまうと、大切なものがごそっと抜け落ちていく感じがした。大切なものとは何か、うまく説明できなかった。
所詮、人生は暇潰しではないかという透徹した人生観から、割り切って「趣味」という言葉を使われると私はその通りですというほかない。今振り返ってみると、私は「趣味」を「好きなこと」と言い換えることで、手前みそだが目指したいものがあったような気がする。うまく言えないが趣味という言葉の背後には、仕事vs趣味=お金を稼ぐことvsお金を使うこと=定年までvs定年から=必須なことvsどうでもいいこと・・・ という硬直した二元論とでもいうべき図式があるような気がした。中高年山の会をこの図式で考えたくなかった。この図式から解放されれば別の世界が見えてくるのではないか。「いい人の集まり」「仲間」とでもいうべき世界に移行していくのではないか。ここでも、それは趣味と言っても同じことになるではないかとの反論がありそうだ。私はないものねだりをしたのだろうか、または考える必要のないことを考えようとしたのだろうか。それを夢想し、"いい山、いい汗、いい仲間" という標語を一人考えたりもしたのだが。―― 「好きなこと」「趣味」は本書では別の視点から取り上げられている。
目次を見てお判りのように暇と退屈を問うことは、人間は他の動物とどこが違うのか?人が自分の人生を生きるということはそもそもどういうことであるのか?という巨大な問いに近づくことである。先程何かがおかしいと感じたエピソードを長々と述べたが、この巨大な問いのにおいを嗅いだのだが、うまく近づくまでには至らなかったということだったのか。私は道筋も分からず我流で近づこうとはしたものの、跳ね除けられてきたということだったのか。本書はこの近づき方の一つの指南書である。
この世界は様々な不条理に満ちている。飢餓、戦争、政治的弾圧、難民、貧困、差別、災害………我々はこういう問題があることをよく知っている。食糧が無く飢えているアフリカの人は暇と退屈について考えるだろうか。過酷な労働を余儀なくされている非正規労働者には休息とまともな給料と安定した職場環境が必要だ。シリア難民には戦禍がない土地と衣食住とコミュニティが必要だ。暇と退屈について考える時間はそのずっと後に訪れるだろうか。多くの人間が悲惨な世界に生きている、その同じ地球上で我々は暇と退屈について考え、自分の人生を意義あるものにしたいと思っている。これは先ほどの問いから不可避に連続した二つ目の巨大な問いである。言い方を変えれば、第一の問いはこの第二の問いを内包している。本書はこの問題も示唆している。
真正面から読む本である。
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