孫崎享氏の本を読み日米関係について考える。 ― 2019-01-04
津波戸山(大分県) 2005.11.23(脊髄損傷前)
(前半)
孫崎享(うける)氏の次の本を読んだ。
戦後史の正体 2015年 創元社
カナダの教訓 1992年 PHP研究所
不愉快な現実 2012年 講談社
日米同盟の正体 2009年 講談社
アメリカに潰された政治家達 2012年 小学館
21世紀の戦争と平和 2016年 徳間書店
小説 外務省 2014年 現代書館
小説 外務省 Ⅱ 2016年 現代書館
日米開戦の正体 2015年 祥伝社
読もうと思ったきっかけは、放送大学で面白そうな講義をチョイスして聴講していると、ある講義(国際問題)で孫崎氏の本を参考図書として推薦していたためである。興味深い内容を平易に読みやすく書いてあり何冊も読んでしまった。その関連で次の本も読んだ。
「日米合同委員会」の研究 2017年 創元社
誰がこの国を動かしているのか 2016年 詩想社
これらの本は”日本の戦後の歴史の捉え方”、”これからの日本の外交のあり方”というようなことがテーマであるから、当然ながら特定の政治的な内容を主張している。孫崎氏は要約すると次の二つのことを主張していると思う。一つは"脱米"、つまりこれまで日米同盟=日米安保条約の下で「対米従属路線」を歩んできたが、その従属の程度が甚だしく国民主権は侵害されている。そこから脱却して「対米自主路線」の道を模索してみようとの主張である。現在問題になっている「辺野古基地建設」「横田空域」「オスプレイ配備」等々、米軍に特権的地位を与えているこれらの事柄は「日米地位協定」「日米合同委員会」をその根拠としているが、これに批判的立場をとっている。二つ目は官僚の志の欠如、質の低下、劣化に警鐘を鳴らしそのことを克服して欲しいとの主張である。
事を大きくして言うと、一つ目は単に反米、嫌米ということではなく、米ソの冷戦時代が終わりヨーロッパにはEUが出現して久しくそれに中国が大国として登場し、世界の力関係が大きく変わりアメリカは唯一の超大国とはいえなくなった。これまで通り対米一辺倒でいいかどうか、日本という国家の基本的なあり方を”東アジア共同体”の視点で考えようという提起である。そのためにも現在の日米関係とはどういうものであるのかを分析し直す必要がある。
二つ目は財務省の森友問題に関する文書改ざん事件などが示すように、官僚の側が出世(猟官)と自己保身を期待して、権力(官邸)の側に平身低頭して身をすり寄せ、人間としての誠実さも無ければ官僚としての志のかけらも無い、実に見苦しく卑しい性癖が官僚の世界全体に蔓延し亡国的状態を呈している。この克服のため歴史を研究することの重要性を指摘している。
具体例を挙げると、戦前中国の奉天(現在の瀋陽)総領事だったあの吉田茂は、満州での日本の権益を強力に主張して田中義一(陸軍大将)内閣に自分を売り込み、1928年外務次官のポストを獲得した。このこともあって以後外務省は陸軍の張作霖爆殺(1929年)、満州事変(1931年)、満州国建国(1932年)から日中事変(1937年)、日中戦争への流れを有効にくい止めることができなくなってしまった。このような歴史で中国を侮蔑的に見ていた吉田茂が果たした役割は決して小さくない。
そしてこの流れから真珠湾攻撃(1941年)から第二次世界大戦へと、戦略なき絶望の道に突き進むことになる。官僚が自らの利益を得る(つまり出世する、利権を獲得する、自己保身を図る)ために短絡的に判断し、結果として国を滅ぼすに等しいことをしてしまうのは嘆かわしい限りである。そして相も変わらず現在もまた今までと同じようにこのことが繰り返されている。
私は日本の政治権力の実体は人事権だと思っている。日本の官僚と司法の人事権を誰が握ってきたのかを歴史的に検証することは重要である。人事院人事官と最高裁判所判事の人事が官邸主導になっていないか、三権分立が有名無実にならないように注視し続けなければならない。上に述べた人事が特にニュースにならないからといって問題がないということにはならない。(検察は法務省の行政機関である。)
こういう類のことをこのブログで書くと何かと誤解される元になるので、ここでとり上げるのを止めようかとも思ったが、孫崎氏の本は客観的なデータと参照した文献を示して自らの見解を述べ、筋道立っておりとり上げるのに値すると思った。勿論、右からも左からも氏を批判する人達がいることも十分承知した上での判断である。氏の本でとりあえず一冊選んで読むとしたら、ベストセラーの「戦後史の正体」がいいと思う。
孫崎氏の主張はよく理解できるがこれまでの世界の歴史の流れを見ると、世界の覇者は大航海時代のスペイン・ポルトガル(重商主義)からオランダ、さらに産業革命を経たイギリスそしてアメリカへと移りそれが現在まで続いている。第一次世界大戦、第二次世界大戦の結果を見れば分かるように、いい悪いは別にしてここ2~3世紀の世界はアングロサクソンを中心に動いてきた。従ってアングロサクソンに同調していけば日本の外交は大筋間違ったことにはならない。
下手に「対米自主路線」をとってアメリカから警戒視されて薄氷を踏む危険を冒すより、米軍へ基地を提供するなどのコストは少々かかるが、「対米従属路線」をとる方が賢いのではないか。その方が日本という国が世界の難しい力関係の中で、安全で大過なく生きていくための外交の本筋ではないか。アメリカと共に歩むことが日本が栄える道……… これがもう一方の見解である。
この見解は戦後すぐに吉田茂が敷いた路線であり、説得力があり日本人の中でけっこう根深い考え方とも思える。しかしそれは現実には憲法と三権分立の上に米軍が君臨することであり、そうなってはもはや日本は独立した国家の名には値せず、国民の主権が侵害され国益が損なわれること甚だしい。
孫崎氏の略歴は本の巻末によると次の通りである。
1943年、旧満州国鞍山生まれ。66年、東京大学法学部を中退し外務省に入省。英国、米国、ソ連、イラク、カナダ駐在を経て、情報調査局分析課長、駐ウズベキスタン大使、国際情報局長、駐イラン大使を歴任。2002年から防衛大学校教授に就き、09年に退官。
右派か左派か、保守か革新かという色分けは現実的解決が要請される外交問題に関してはあまり有効だとは思わない。外交は相手国と交渉して自国のために具体的な成果を出すことである。そして、偏狭なナショナリズム(例えば、極端な自国第一主義、ISのイスラム原理主義、難民に対する排斥運動、ネオナチズム、ヘイトスピーチ、軍国主義的言動など)に陥ることを避け、第一次世界大戦、第二次世界大戦のような時代の再来を防がなければならない。
孫崎氏は経歴を見れば分かるように、氏はキャリアの外務官僚でいわゆる”情報屋“であり、左派・革新に分類されるような人ではない。しかし集団的自衛権や特定秘密保護法などの安倍政権の時代錯誤的な動きに対しては、戦前の真珠湾攻撃に至る史上最大の愚策の歴史に酷似しているとして反対の立場を表明している。
孫崎氏は言う。外交はきれい事ではなくスパイや不審死をも厭わず謀略をも駆使する。しかもこの謀略は決して表立って明らかにされることはない。これは世の中の出来事をマスコミが報道する通りに理解するのではなく、テレビや新聞等のメディアもまた謀略の対象であり、時として権力の側に立って謀略に加担するメディアもあり、ことの真相は別の所にあるかもしれないと疑った方がいいことを意味する。
具体例を挙げると、日米開戦の真相、吉田茂の評価、60年安保闘争と岸信介の評価、田中角栄とロッキード事件、小沢一郎の政治資金規正法問題、東京地検特捜部、北方領土や尖閣諸島問題等々、いずれもアメリカとの関係をぬきには考えられない事柄であり、それぞれマスコミ主導の定着した評価があるようだが、ことの真相は普通に考えられている所とは別の所にあると孫崎氏は示唆している。
私も思い出してみると、例えば40年以上前のことだがテレビのニュースでロッキード事件の報道を見て、田中角栄の金脈問題は実にケシカラン話だ、政治家はもっと襟を正して清潔であって欲しいと単純に憤慨したことを覚えている。大衆の素朴な倫理観や正義感は社会を根底から支えるインフラであり、従ってそれを否定的にいうつもりはないが、謀略はそういうものをも巧みに利用し煽動して目的を遂げる。田中角栄はアメリカの謀略で潰された、これが孫崎氏の見解である。
孫崎氏の歴史の見方はいわば一種の謀略史観であると思う。戦後の日米関係は日本人の文化や生活様式の隅々にまで広範囲かつ全面的に影響を及ぼし、一方で米軍基地もあれば他方でディズニーランドもあるというような状況が複雑に錯綜している。従って謀略史観だけで日米関係を正しく理解できるとは思わないが、私にとっては目から鱗が落ちるような視点であり大いに役に立った。
謀略により恐怖感を植え付けられた日本の高級官僚達は、心理的にアメリカに対する隷属状況から抜け出すことができない。反米的言動をとると自分の官僚としての将来がないことをよく知っている。その見せしめ的な先例もたくさんある。国益よりも自己保身を優先させる志を忘れた見識なき日本の高級官僚達と、アメリカとの秘密合意と密約による政治が横行している。
例えば先ほど述べた「横田空域」は航空法などの国内法にも「日米地位協定」にもその根拠がない。「日米合同委員会」で合意したというだけであり、その内容は立法の府である国会にも明らかにされてはいない。1都8県にまたがるその広大な空域から日本の民間飛行機は締め出されている。首都の空が治外法権で他国に支配されているというのは先進国では日本だけである。何のことはない、戦後すぐの米軍の占領政策の継続を日本の高級官僚が今もなおそのまま認めているだけの話である。米軍の占領はサンフランシスコ平和条約(1952年)で終わったはずだ。「日米地位協定」と「日米合同委員会」のカラクリを我々は知らなければならない。
日本統治の法体系が憲法体系と安保法体系(憲法と国内法の中に治外法権ゾーンを作り出している種々の特別法・特例法、例えば航空法に対する航空法特例法や土地収用法に対する土地等使用特別措置法など)という二重構造になっており、その矛盾を明らかにすることが日本の戦後史と現在の日本社会を解明することにつながる。
(後半)
少し話の視点は変わるが、”擬似改善策”を示して幻想を振りまく勢力に人びとがいともたやすく騙された歴史を我々は知っている。第一次世界大戦の敗戦で巨額の賠償金に苦しんでいたドイツは、領土拡張と反ユダヤ主義という擬似改善策を掲げたナチス(国家社会主義ドイツ労働者党)にまんまと引っかかってしまった。その後の歴史は知っての通りである。擬似改善策は素朴なナショナリズムに善人面をして囁きかけ、短期間で物事が改善されるような一見威勢のいい幻想を振りまき、人びとを悪魔のような暴力的な世界へと引きずり込んでしまう。
1929年から始まった世界恐慌には日本も苦しんだ。今思うとあの満州進出というのは擬似にすぎなかったのだが、日本人はそこに当時の経済的困窮の改善策を、そして日本の未来がバラ色に輝いているような幻想を見てしまった。関東軍の満州侵略はその擬似改善策の実行(「満蒙は日本の生命線!」)だったが、大多数の日本人は幻想に迷わされそれが本当の改善策のように見えてしまい、似て非なる擬似であるということを見破る力をもたなかった。
そしてあの敗戦という悲惨な結末に終わってしまった。悪いのは当時の政府と官僚と軍部の上層部とマスコミ(新聞とラジオ)であって、我々庶民は戦争の被害者だという言い方がよくなされる。それは確かに事実である。しかし被害者意識から一歩も抜け出ようとせず、ただ糾弾するだけという居心地のいい立場に安住するという姿勢には私は少し疑問を感じる。言っていることは間違いではないが、ずっとその姿勢のままでいいのだろうか。擬似改善策に惑わされた歴史を見直し、なぜそうなってしまったのかと自責と自戒の念を込めて粘り強く問い直すという次の作業が必要であると思う。
軍部独裁の恐怖政治の下で、人びとの政治的な選択の自由はほとんどなかった。しかしどんな政権であっても人間の心の奥まで究極に支配することはできない。内心はその人に属する最後の固有なものである。他者がその人の命を奪うことはあっても、その人の内心を奪うことはできない。
庶民一人ひとりは心の中でどう考えたのだろうか。戦争へと突き進んで行く流れに何も考えずただ流されただけなのか、知らず知らずのうちにラジオと新聞の報道に騙されてしまったのか、自己保身と役得から自ら望んで騙されたいと思ったのか、仕方なく騙されたふりをしただけなのか。少し言い方を変えると内心と実際の行動との間に乖離はなかったのか、あったとすればその内心とはどういう内容だったのか。もう少し平たく言うと、日本が他国である満州に侵略することに心の中で何かしら引っかかるものを感じなかったか、感じたとすれば………………。
戦前の1930~40年代の日本に私が生きていたとしたらどんな生き方ができたであろうか。私は満州侵略にはおそらく心の中で何かしら引っかかるものを感じたのでないかと思う。そして軍部独裁の日本の政治はどこかおかしいのではないかとも思ったのではないか。日米開戦では国力が圧倒的に大きいアメリカと戦争しても、勝つ見込みはないと常識的に判断したと思う。しかしそのことを声高に主張して憲兵や特高ににらまれ、一人犬死にするような道は選ばなかったと思う。死んでしまったらそれで終わりだ、とにかく生き延びることだ、戦争が終わるのを待とう、普通にそう考えたと思う。そしてそのために「面従腹背」という処世術を選択したと思う。
世の中に対する認識のレベルは色々あったと思うが、結構多くの日本人が「面従腹背」して生き延び敗戦を迎えたのではないだろうか。卑怯で後ろめたい響きのある「面従腹背」であるが、次の時代に向けてエネルギーを貯めているのだという決意表明のような感じもする。その「面従腹背」は戦時中は組織化されることはなかったが、私はそれが日本の戦後を深層で本質的に準備したのではないかと思う。しかし、ともかくも歴史は擬似改善策に流れていった。
戦後70年以上経ち、あの戦争はずっと前の世代のことで我々戦後世代には関係ないという空気があるが(日本が戦争をしたということを知らない世代も出てきている)、はたしてそれでいいのだろうか。同じ日本人として少なくともあの戦争からは何かを学び取らなければならない、そうでないと我々戦後世代は浮ついて"平和と民主主義"と唱えるだけで、確固とした考え方をいつまでも持ち得ず、大国の動きに右往左往するだけの軽薄な民に成り下がってしまう。擬似改善策なるものは幻想を振りまき、さもまっとうであるという顔をして今も飛び回っている。それはおかしいときちんと見破り、付和雷同して追従してはいけない。戦前も戦後もそして現在も日本人がそれに騙されるレベルの人間達であるならば、結局そのレベルの世の中しか訪れない。
当時(戦前の1920年代~1940年代)の真正の改善策は、石橋湛山が一貫して主張していた「小日本主義」(朝鮮、台湾、満州、樺太の植民地を放棄して軍備の負担を軽減し、英米とも友好関係を維持して貿易を盛んにし加工貿易による通商国家として生きるという道)であったと私は考えている。植民地経営はコストがかかりすぎて経済的に割に合わない、貿易立国の方がはるかに豊かになれる。石橋湛山はそのことを論理的に説明し、「大日本主義」ではなく「小日本主義」こそが日本が進むべき道であると説得し続けた。石橋湛山はもっと評価されて然るべきジャーナリストであり政治家(鳩山一郎のあと1956年総理大臣になるが、アメリカとの確執もあり65日の短命内閣に終わる)であると思う。歴史に対する無知を克服してもっと賢くならなければ何も始まらない。
アメリカの圧力にどう対処していけばいいのか、三国同盟を結んでいた同じ第二次世界大戦の敗戦国であるドイツ、イタリアもNATO軍(アメリカ軍)基地を抱えて戦後苦慮したが、住民も官僚も政治家も粘り強く交渉して、アメリカとの一方的な不平等関係(治外法権など)を克服してきた。
カナダは地理的・経済的関係から建国以来ずっとアメリカの一つの州として併呑されてもおかしくなかったけれども、毅然として自主外交の姿勢を貫き通してきた。イラク戦争ではサダムフセインのイラクには大量破壊兵器があるというアメリカの主張に対して疑問を投げかけ、国連決議がないと動けないとしてイラク派兵を拒否した。アメリカとの関係も大事であるが、国連決議等の合法性の方ががより重要であるというカナダ外交の一貫性を示した。(フランスもドイツも同じく派兵を拒否した。)
日本では小泉純一郎が唯々諾々とブッシュの言いなりになってイラク特措法を成立させ、陸上自衛隊をイラクに派遣したのとは好対照である。結局、大量破壊兵器は発見されなかった。どちらの立場の国が国際社会で信頼されるかは明らかである。アメリカの圧力を克服してきた諸外国の例を、日本の政治家と官僚は事なかれ主義から脱してもっと真剣に研究し見習うべきである、勿論我々一人一人も、と孫崎氏は主張している。
私は孫崎氏の本を読み、1973年9月11日南アメリカのチリで起こった軍事クーデターのことを思い出す(「9.11」)………チリでは世界で初めて選挙で合法的に社会主義政権が誕生していた。それに反発していたアメリカ(ニクソン=キッシンジャー)はCIAの謀略により軍事クーデターを起こして、アジェンデ社会主義政権を倒してしまった。その後は虐殺・拷問・監禁というピノチェト軍事政権による反動の嵐が吹き荒れ多くの血が流された。理不尽極まる話である。1972年の沖縄返還(佐藤政権)と日中国交回復(田中政権)の後で、私がまだ20代の頃のことだった。
ニクソン=キッシンジャーはベトナム戦争の終結に動いている一方で、南米では非人道的なことをしていた。アメリカから嫌われると、たとえ選挙で勝って成立した合法的な政権であろうとも、謀略によりいともたやすく倒される。認めたくはないがそれが歴史の現実であるといやが上にも知らされた。戦後の歴史を検証すると日本もこの例外ではなかったことがよく分かる、そして21世紀の現在の日本もまた同じである。
アメリカは自由と民主主義の国ではないのか、という反論がありそうだ。私はアングロサクソンの近代国家つまりイギリスとアメリカは双頭の動物ではないかと思うことがある。一つの頭は確かに自由と民主主義であるが、もう一つの頭は謀略と覇権である。一つが実の顔で、もう一つは仮面であるというのではない、二つとも実の顔である。自由と民主主義の国は謀略を駆使しないし覇権を求めないというのはただの願望に過ぎない。自由と民主主義の国は歴史的に見て紛れもなく戦争国家であったし、現在でも間違いなくそうである。あの野蛮な阿片戦争をしかけたのはどこの国であったか、何の罪もない人びとの上に原爆を落としたのはどこの国であったか、そして今も中近東のイスラム社会で戦争をしているのはどこの国であるか。
翻って、そもそも自由と民主主義の国は自国の中に謀略と覇権を禁止する(少なくともコントロールする)仕組みを作ることができるのであろうか。一つは自衛権の問題であるのだが、自衛のための戦争を認めてしまうと自衛のための謀略を認めざるを得ない。二つは国際的な経済競争の問題である。情報戦争に勝利した国が国際的な経済競争を有利に展開できる、その情報戦争には謀略は不可欠であろう。謀略と覇権のコントロールは一国だけでは難しい問題であると思う。ASEAN(東南アジア諸国連合)のこれからの動きが解決の糸口を示すかもしれない、注目して見てみよう。
アメリカとの関係だけでなく、近隣諸国との外交問題もほぼ毎日のようにマスコミで報道されている。近頃では、ロシアとの北方領土返還問題、北朝鮮との拉致問題、韓国との慰安婦・元徴用工問題と竹島問題、中国との尖閣諸島問題などであるが、マスコミの論調を無批判に受け入れて感情が先に立ち、相手国が一方的に悪いと憤慨しているだけに終わってはいないか自省する必要がある。
うっぷんを晴らすとその時はすっきりした感じになるが、相手国との間では何もいいことを生み出さない、いや相手国の政府と国民に反感を植え付けるだけである。数年前日系のデパートを荒すなどの中国での反日暴動を見て、大半の日本人がそう思ったはずだ。攻守立場を入れ替えて同じことがいえる。例えば、韓国の元徴用工問題で相手国に非があるように感じてその非を声高に非難していると、知らず知らずのうちにこちら側が偏狭なナショナリズムに落ち込んでしまう、そしてそれが憎悪に変わっていく。このことに無自覚でいることが恐ろしい。元徴用工問題はそんなに簡単に片付く問題とは思えない、自分がその立場だったらと考えてみるとすぐ分かることだ。嫌われる日本、嫌われる日本人になってはいけない、こちらの視点の方が重要だ。近隣諸国に嫌われるというつけがどれ程高くつくか、我々日本人は敗戦から今までいやというほど知らされてきたはずだ。近頃のニュース報道を見ていてつくづく思う。
少し本題から離れるが、古い本だが五木寛之の「戒厳令の夜」が面白い。チリのクーデターのことを書いたので思い出した。その本の中で出てくる、パブロ・カザルスの「鳥の歌」(スペインのカタロニア民謡)がいい。
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