76歳になった。 ― 2022-09-04
2003年7月6日(脊髄損傷前) 斜里岳(北海道)
「……市井に漂いて商買知らず、隠に似て隠にあらず、賢に似て賢ならず、物知りに似て何も知らず、世のまがい者、唐の大和の数ある道々、技能、雑芸、滑稽の類まで知らぬ事なげに、口にまかせ筆に走らせ一生を囀(さえず)り散らし、今わの際に言うべく思うべき真の一生事は一字半言もなき倒惑」
近松門左衛門の辞世の筆であるという。この見事なまでの自虐的な逆説を読んだだけで近松門左衛門なる者がただ者でないことが分かる。これが何故に逆説であるのか。長年にわたり私が経験したことであるが、物事のなんたるかを知らない者は一般に傲慢であり、逆によく知る者は一般に謙虚である。学べば学ぶほど人は自分がいかに何も知らないかをそしていかに愚かであるかを自覚する。
ところでこの身の表し方あるいは隠し方のなんとカッコイイことか、これだけで近松門左衛門のファンになってしまう。私も76歳を過ぎ「今わの際」もそう遠くもない身の上のはずであるが、その切実感も無いまま「言うべく思うべき真の一生事」など皆目頭に浮かばずまた考えようともせず、相変わらずの読書と囲碁と映画の好き勝手な日々を送っている。万事にわたり独りよがりであることはじゅうじゅう自覚しているつもりだが、死なるものはまだまだずっと先の話と内心思っているということであろう。
とはいうものの私のこれまでの人生って何だったんだろうと人並みに思わないことはない。物心ついてから(幼稚園の頃か)今日に至るまで、様々な出来事や出会った人々また読んだ本の事などを思い出し、必ずしも世間並みではなかったこれまでの自分の来し方をどんな気持で思い返せばいいのだろうか。自分の人生が甲だったのだ乙だったのだと、肯定でも否定でもなく反省でも自画自賛でもなく、何の内省も交えず事実通り思い返すことはまだ少しつらい感じがする。なぜならそれはまだこれからの人生がわずかだが私には残っているという意味は大きいからだと付け加えざるをえない。
「人は様々な可能性を抱いてこの世に生まれて来る。彼は科学者にもなれたろう、軍人にもなれたろう、小説家にもなれたろう、然し彼は彼以外の者にはなれなかった。これは驚く可き事実である。」 (様々なる意匠 小林秀雄)
有名な「様々なる意匠」に出てくるこの文章はどう読めばいいのか。すごいことをいっているのだろうか、読み進めていくと小林秀雄は「宿命」なるものを云おうとしているようだが。
「然し彼は彼以外の者にはなれなかった。」 確かに然り、私は私以外の者にはなれなかった。この事は単なる結果論ではない。私以外の者にならないために悪戦苦闘して生きるのが私が世を渡る流儀だった。これ以外にどんな生き方があったろうか、そしてその喜怒哀楽の内実を誰が知ろうか。私以外の者になるということはほとんど死を意味する。
この小林秀雄の同義反復のような表現をもう少し正しく分析するならば、人は身体を同一物として死ぬまで継続して生きているが故に、この内心の自分を修復しつつも同じ者として継続しているとついつい錯覚してしまう。この錯覚が物象化した観念の産物が「私」にほかならない。万物が生々流転の相にあるが如く、自分も日々変化し10年前20年前の自分とは同じではないはずだ。かかる変化変貌の契機こそが第一義に語られるべきことであり聞くに値することである。
さらに正確にいえば小林秀雄のいうようには人は様々な可能性を抱いてこの世に生まれて来る訳ではない。そんな「この世」などこの世のどこにも無い。「様々なる意匠」が書かれた1929年は2年後に満州事変が勃発した時代だったことを想起してみればよい。もっとはっきり例を挙げれば、アメリカで黒人の奴隷として生まれた人間にはどんな可能性があったというのか、悲惨な人生を送るという一つの可能性しか残されていなかったのではないか。
「仏道を習うということは、自己を習うのである。自己を習うというのは、自己を忘れるのである。自己を忘れるというのは、万法に証(さと)らされるのである。万法に証らされるというのは、自己の身(からだ)と心、そして他人の身と心がなくなってしまうのである。」 (正法眼蔵・現成公案 道元)
「仏法を求めるとは、自己とは何かを問うことである。自己とは何かを問うのは、自己を忘れることである。答えを自己のなかに求めないことだ。すべての現象のなかに自己を証(あか)すのだ。自己とはもろもろの事物のなかに在ってはじめてその存在を知るものである。覚りとは、自己および自己を認識する己れをも脱落させて真の無辺際な真理のなかに証すことである。こうしたことから、覚りの姿は自らには覚られないままに現われてゆくものだ。」(正法眼蔵現代文訳 石井恭二 河出文庫)
つくづく自己なるものに捕らわれ迷い続けた人生だったと思う。連想ゲーム的な読書をしていると何の因果か道元に出会った。道元は言う、「みづからをしらんことをもとむるは、いけるもののさだまれる心なり。」(正法眼蔵) 之を読んで私は私が考え続けたことの大筋は間違っていなかったと安堵した。私は”廣松渉”を理解したいと思い廣松渉の本を読んでいるが、認識論の世界で”道元”となんと似通っていることか。
マハトマ・ガンジーの言葉「明日死ぬと思って生きなさい。永遠に生きると思って学びなさい。」
明日死ぬと思っては生きることなどできっこない、そう思っただけで気が狂ってしまう。永遠に生きると思った途端に全身脱力して立ち上がれなくなる。そんな極端で無茶なことを言われても困るし実行できない。ガンジーはそれぞれの決意の高まりを求めたのだろう。‥‥76歳になっても学ぶべきことはまだまだ多いはずではないのか、ガンジーの声が聞こえそうである。
五味川純平「戦争と人間」、 船戸与一「満州国演義」 を読む。 ― 2021-10-20
劔岳北方稜線より早暁の鹿島槍(双耳峰)を遠望(2006.08.27 脊髄損傷前)
50年以上前のことだが受験勉強中心の生活から解放されて大学1年生の時、かっての超ベストセラー 五味川純平の「人間の条件」を読んだ。このたびかねてから読みたいと思っていた五味川純平の「戦争と人間」と船戸与一の「満州国演義」を読んだ。2冊ともに長い小説である。長編小説としてよく読まれているドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」と比べると、二つとも2倍以上の長さである。
これまで昭和史の本を読んできたが、1930年前後に国内の世論は満州事変支持へと大きく傾いた。政府・軍部による世論操作にもより、日本国内の中国に対する侮蔑的なナショナリズムは大衆的レベルにまで沸騰し、更に経済が最悪の状態にまで逼迫したことにより、日本は満州国を建国し戦争必至への道へと大きく旋回してしまった。
日露戦争(1904~1905)、辛亥革命(1911~1912)、第一次世界大戦(1914~1918)、ロシア革命(1917)に続いて、1930年前後の国内の主な動きは以下の通りである。
1927(昭和2)金融恐慌 第1次山東出兵 東方会議 第一回普通選挙
1928(昭和3)3.15事件 済南事件 張作霖爆殺事件 改正治安維持法
1929(昭和4)田中義一内閣→浜口雄幸内閣 軍縮財政 世界恐慌
1930(昭和5)ロンドン軍縮会議→統帥権干犯問題 台湾霧社事件
浜口首相狙撃 農業恐慌 間島朝鮮人武装蜂起
1931(昭和6)3月事件 中村大尉事件 万宝山事件 満州事変 10月事件
1932(昭和7)犬養毅内閣 第1次上海事変 満州国建国 血盟団事件
5.15事件 リットン調査団報告
1933(昭和8)ヒットラードイツ首相に 国際連盟脱退 滝川事件 神兵隊事件
その後、2.26事件(1936)から 日中事変(1937)、ノモンハン事件(1939)、日独伊三国同盟(1940)、太平洋戦争(1941~1945)、ポツダム宣言受諾(1945)へと奈落の底にまっしぐらに突き進んでしまう。
<大きく旋回した>という上の理解はとりあえず間違ってはいないと思うがもう少し大局的に見ると、清がアヘン戦争(1840年)でイギリスに敗北し、ペリーの黒船が日本に来航(1853年)した頃から東アジアの大きな激動が始まった。幕末・明治維新から太平洋戦争敗北(1945年)に至るまでの約100年間の急激な日本の動きも、<欧米列強の植民地主義と東アジアの近代化とナショナリズム>という大きな歴史のうねりの一部として理解する方が分かりやすいと思う。
さらに歴史を大きく俯瞰すると<欧米列強の植民地主義>の傷痕は今なお世界の到る所で生々しい現実を晒しており、<近代化とナショナリズム>の内容は複雑で時代とともに変化して一様ではなく批判的に検討しなければならない面もあるが、世界を見渡すと今もって貧しい民衆の群が社会の底辺でうごめき、民族間の戦争・紛争は止むこと無く何処かで勃発している。その一方で欧米の飽食している人間が飽くことなく世界の富を支配し続けている。
戦前のこの波乱に富んだ激動の時代(1931年の満州事変~1945年の敗戦)はすでに過去のものであるが、その時代に生きていたならばどんな気持ちで生きていただろうかと考えられずにはいられない。時間が濃密に凝縮した<侵略と自衛>というこの戦争の時代に私は心を奪われて久しい。
日本の歴史の中で方向を誤った変調な時代であったという評価が支配的であるが、当時を軍国主義だといえばそれで全てが解決されたような気分になることこそが問題である。戦前と戦後の間にアメリカ・GHQが支配する占領の時代(1945~1952)があったが、戦前は知れば知るほど今生きている現在と深い所で通底していると感じてしまう。一言で云えば品のないいい方だが、相も変わらず小賢しい薄っぺらな人間が制度や組織の悪しき惰性に乗っかってこの日本社会を牛耳っている。
もっと具体的に云うと、責任をとらず自己の保身と利益を第一に考える政治家と官僚、威勢がよく耳ざわりのいい主張になびく素朴だが無力な大衆、中国・朝鮮に対する侮蔑的な歪んだナショナリズム、見識も知性も教養も恥ずかしいほどに貧弱な政権のトップ、政党政治の機能不全等々、ひどく酷似性を感じてしまう。
しかしよくよく考えてみると酷似性を感じるのは当前のことだといってよい。原爆を投下され空襲で焦土と化し300万人以上の同胞が死んだ悲惨な戦争ではあったが、たかだか15年間くらいの戦争が終わっただけで上記のような人間の思考や行動が変わると考える方が、楽観的で滑稽だというものかもしれない。
戦後の歴史もすでに70年以上経つが、"反戦" ”平和” ”民主主義” ”自由” ”平等” 等々の、250年前のフランス革命と似たようなお題目を唱えているだけでは、霞ヶ関・永田町一帯に生息する政治家と官僚の本質を何も変えることはできなかった。何が根本的に間違っていたのか、我々はどこからどのような思考を出発させなければならないのだろうか。
五味川純平、船戸与一の小説は戦前のこの時代を扱ったものである。作家も小説も通俗的すぎると思っている方がおられるかもしれないが、小説の巻末の膨大な(注)と参考文献の一覧を見れば、二人の作家がかなりの分量の資料を漁ったことがお分かりになると思う。「戦争と人間」の(注)は澤地久枝氏が書いているが、これを読むだけでもかなりの根気とエネルギーが要求される。船戸与一はガンを病みながらも執念で「満州国演義」を書きあげこれが遺作となった。私より2歳年上の作家である。
これらの小説を読みたい方は、日本の現代史をある程度調べてから読まれる方が分かりやすいと思う。標準的な所で半道一利氏の「昭和史1926~1945」(平凡社ライブラリー)、保阪正康氏の「あの戦争は何だったのか」(新潮新書)、山室信一氏の「キメラ 満州国の肖像」(中公新書)、安富歩氏の「満洲暴走 隠された構造」(角川新書)、戸部良一他「失敗の本質 日本軍の組織論的研究」(ダイアモンド社)などを参考にしてはいかがであろうか。変わったところで、佐野眞一の「阿片王」(新潮文庫) は歴史書ではなくノンフィクションであるが、歴史を表層ではなく現在に通じた厚みをもって理解するのに役立つ。
日本学術会議の会員候補として推薦されながら、管政権により否認されたことで話題になった東大教授加藤陽子氏の諸著作も傾聴に値すると思う。小説では、安部公房「けものたちは故郷をめざす」、吉村昭「殉国 陸軍二等兵比嘉真一」、大岡昇平「野火」などは読んで損はない。
歴史の本で100%お薦めできる決定版はなかなかない。歴史の不明な点を調べていくとますます分からないことが増えていく。これまで歴史の教科書に書いてあったことに疑問を感じるようになる。現代史においてさえ新たな史料が見つかりこれまでの通説的な解釈が覆ることも多い。難しいことだが偏らないで広範囲に読むとしか言い様がない。
小説はフィクションであることには違いないが、その土台となる歴史の個々の事実は時間の経過の通りで曲がってはいけない、その上での人間のドラマである。似たようなことを船戸与一は次のように述べている。”小説は歴史の奴隷ではないが、歴史もまた小説の玩具ではない。” 我々読者は小説のストーリーを楽しみながら同時に歴史のディテイルを学ぶことができる。
私は更に興味に任せて戦前の昭和史の本数十冊を読んだ。興味深い本もあったがそれらの本等については長くなるのでここでは触れない、又いつかこのブログに感想を書きたいと思う。映画では、「人間の条件」、「戦争と人間」、「野火」(新旧)、「セデックバレ」、「南京南京」、「226」、「ラスト・エムペラー」、「硫黄島からの手紙」、等々を観た。
<私事で恐縮だが> 私の祖父の成瀬八郎は戸籍謄本によると昭和21年8月(日にちの記載はない)長崎市で死亡している。なんと私が生まれた翌月である。満州の北東(現在の黒竜江省)の牡丹江で憲兵をしていたという、当時牡丹江付近では地下資源採掘他に多数の日本人が住みつき関東軍が駐屯していた(昭和20年8月 牡丹江事件あり)。憲兵だったという祖父の死は日にちの記載がないことで、自然な死にかたでないことは明らかであろう。BC級戦犯として処刑されたのであろうか。
私の父は今から数年前93歳で亡くなった。父は佐賀県鹿島市と嬉野市の中程にある山あいのさびれた農村に林田姓で生まれ、幼い時に親戚の成瀬八郎の養子になった。林田家は農家で貧しかったのだろう、憲兵をしていた成瀬八郎に養子に出したのである。林田家の長女が成瀬八郎に嫁いでいた、従って父の義母は実の姉ということになる。成瀬八郎夫婦には子供が生まれたが生後すぐ亡くなったという。義父が満州で憲兵をしている中、父は独り生活費の仕送りを頼りにして長崎市で学生生活を送っていた。
従って私は林田姓だったかもしれないし、あるいは本来ならば成瀬姓を名のるところであったのかもしれない、故あって母方の養子となり松崎姓で生きてきた。つまり私は血筋正しき由緒ある家柄の人間ではない。私の妻も似たようなものである。従って私達の子供達も言わばどこの馬の骨とも分からないということになろうか。
どこの馬の骨とも分からない………なんと素晴らしいルーツではないか、 ”雑草のごとくたくましく生きていく” という心の 源泉がここにあると私は誇らしく思っている。雑草は踏まれても強い。自慢できる祖先探しをするNHKの「ファミリーヒストリー」という番組などは、わが家族には全く関係ない。
例えば天皇家のように万世一系と云うような祖先のフィクションに心の拠り所を求めるというような生き方は、どこかいかがわしく嘘っぽいと思う。人は自分のDNAを生まれたときのまま死ぬまで変えることができない。だからどのようなDNAを持っているかを思考の出発点にするわけにはいかない。
同じことだが人間は誰しも自分から願い出てこの世に生まれてきたわけではない。ある日あるとき物心がついたとき、自分がこの世に存在していることを知るだけである。自分が社会に放り込まれ独りで生きることを余儀なくされていることを知るだけである、つまりそこからすべてが始まる。従ってそれより前の出自を問題にすることは、ひとりの人間の人生を考えるときには原理的に間違いである。
私がまだ小学生の低学年の頃(昭和30年代のはじめ)のことであるが、私の祖母(父の義母)が佐賀の片田舎から私らの長崎の家に来て一日泊まっていったことを 思いだす。祖母は子供の目から見ても貧しい身なりをしていた。山で拾ってきたという椎の実をお土産に持ってきた。どことなく遠慮がちであった。私は孫(または甥)になるわけであるが、祖母は私にどう対応したのいいのか分からない風だった。祖母との出会いはこれだけである。
父は学徒動員で出征し陸軍少尉として朝鮮の釜山で終戦を迎え、原爆投下直後の長崎市に戻ってきた。父は生まれたばかりの私を抱え、義父の普通ではない死をどんな気持ちで迎えたのだろうか。その父が従軍し軍隊生活を体験したためであろうか、私がまだ小学生の時だったが五味川純平の「人間の条件」を貪るように読んでいたことを思い出す。
少し話は飛んで私が30代半ばの頃(その頃、私は公認会計士としてある監査法人に勤めていた)のことになるが、ある日父は私に対し反省的に詫びる口調で ”お前の考えが正しかった。自分の考えが間違いだった。” と話し出したことを思い出す。
大学生の時私はヘルメットをかぶり学生運動(全共闘)にのめり込んだ、そして大学4年生(工学部)の時父にはなんの相談もしないで退学届を出した。履歴書を出してどこかの会社に就職して生きていくなどという選択肢は、当時の私の頭の中にはこれっぽっちもなかった。わずかな一歩ではあったが私は初めて独りで自分の人生の決断をした。”たいていのことはどうでもいい、たくましく生きていくのだ。” 私は自然に決意していた。
思えば父には心配のかけ通しで、親不孝な20代の10年間だったと思う。その20代の時私は定職にも就かず住所も転々とし、しかし人並みに結婚と離婚の悲喜劇だけは演じさせてもらった。ほかの人とはかなり違った私のオリジナルな20代、特別に苦労したなどと云うつもりは全くない、普通ではない私だけのいとおしい日々であった。
私と父とは政治的主張で真っ向から対立していた、父とは和解しないままの10年間だった。父はその事を言っているのだ。それからというものあれだけ右寄りだった父が自民党政治を批判し徐々に左傾化していった。私には父が変わっていく様子が手に取るようによく分かった。
昭和天皇が亡くなった時、父は ”あの男はとうとう死ぬまであの戦争についての自分の責任について何も謝まらなかった。” と私にはっきり聞こえる声で怒気を満杯に含ませて言った。腹立たしい悔しさというか、あの戦争に従軍した人間にしかわからない筆舌に尽くしがたい重い感情、身中に沈殿していたもって行き場のない感情を父は腹の底から発射したのだ。一瞬だったがあの時父は紛れもなく戦中派の確信犯の姿を見せた。
その後長崎市の市長選挙がある度に、昭和天皇の戦争責任について肯定的な発言をしていた本島等氏(1922~2014 市長4期)を支持し、推薦人名簿を集めるなど応援活動をしていた。父と本島等氏は大正11年の同年の生まれである。 <私事終わり>
「戦友」という軍歌がある。日露戦争の時の軍歌であるがその後も広く兵隊ソングとして謳われた。歌詞は次の通り。
ここは御国の何百里/離れて遠き満州の/赤い夕陽に照らされて/友は野末の石の下
(以下14番まで続く) なるべくゆっくり謳うことが情感を増し、全部謳い終わるのに30分以上かかるという。そのメロディーが郷愁を感じさせ厭戦的だという理由で、東条英機により謳うことが禁じられた。
私は上の小説を読み進める時、舞台が満州の場面では<赤い夕陽に照らされた満州の荒野>なるものをイメージしてしまう。それは、冬の季節では<白一色の雪原>に変わり、春夏では一面<コーリャンの緑野>に変わる。「戦友」のメロディーと映画「戦争と人間」のテーマソングも胸中時として流れる。
私は中国の東北地方(満州)に行ったことはないし、高梁(コーリャン)の畑を見たこともない。通奏低音というか絵画的音楽的で一種詩的世界と言ってしまっては、戦争で死んでいった幾百万の人達に対し不謹慎の誹りと非難されてしまうかもしれないが、そういう気分に我が身を浸しながら本を読んだ。(かかる心情については安富歩氏が満州の成り立ちから深い検討をされている。)
戦争を扱った小説の読み方は人それぞれであろう。私は一つには自分に似た登場人物(主人公とは限らない)の戦争の中での生き方に注目して読む。そうすることで読み方にメリハリがつく。二つには、歴史の中の個々の事件の襞にできるだけ肉薄したいと思って読む。従って時々寄り道をせざるを得ない。
例えば2.26事件では、「二・二六事件」中村正衛(中公新書)、「妻たちの二・二六事件」澤地久枝(中公文庫)、「獄中手記」磯部浅一(中公文庫)、「私の昭和史」末松太平(中公文庫)、「国体論及び純正社会主義」「日本改造法案大綱」北一輝、「北一輝論」松本清張(講談社文庫)、「北一輝」渡辺京二(朝日選書)、「革命家・北一輝「日本改造法案大綱」と昭和維新」豊田穣(講談社文庫)、「再発見 日本の哲学 北一輝ーー国家と進化」嘉戸一将(講談社学術文庫)、「昭和維新試論」橋川文三(講談社学術文庫)などを読んで私なりの理解を深めることになる。
当然のことだが<北一輝>に関する本は膨大にある。あの時代に生きていたならばと考え、2.26事件に決起した若き青年将校達に我が身を重ね合わせ思わず背筋がぞっとしてしまう。遠い昔の話ではない、私が生まれるわずか10年前の日本の歴史の方向を決定づけた事件である。学者に成るわけでないが歴史をそれなりに我がものにしたいと思う。私はかかる歴史の流れの中に生まれそして生きている。”私という人間は誰であるか” という謎解きを考えるためには現代史の理解は避けて通れない。
………私は時々思うのだが、これまでたいして勉強らしきものをしてこなかったこの75歳の高齢者の男が、今さらそもそもそんな願望(私という人間は誰であるかという謎解き)を満たすことにはたしてどんな意味とか価値とかがあるのだろうか? その読書の成果らしきものを社会に還元しにくい高齢者が、自分一人心の中だけで満足することとははたしてどういう営為と名付ければいいのだろうか? その営為に何らかの普遍性はあるのだろうか?
意味とか価値とか普遍性とかにどうして私はこだわってしまうのか? よくよく考えるとそんなものは内面的な上昇志向、承認欲求、自己満足の別名ではないのか? そんなものは全く無くても一向にかまわないのではないか。この疑問と伴走しながらの私の読書である。
重度身体障害者になって10年目を迎えるが、私の興味は経済学から歴史へと移ってきた。そしてなるべく早く歴史からカンジンカナメの哲学の気になっているところに読書の軸足を移したい思っている、そうしないとそのうちボケてしまうか寿命が尽きてしまう。
………ところで何故に私はこんなにちょっと焦った風にそして自分を急かせるように考えてしまうだろうか。この事は前にもこのブログで何度も書いたことで、又蒸しかえすようだがまた同じように考えてしまう。晴耕雨読の境地に到達しえないまま、未熟にもこの高齢者の男は死ぬまでこんな感じで生きていくのだろうか。
さて、元に戻って結論風に言うと二つの小説の主人公は誰かはっきりしない。濃淡はあるが主人公は人間ではなく「満州国」と考えたほうがよさそうである。「王道楽土」と「五族協和」を理想として唱えた戦前に現れた一種の壮大な幻想であり、しかし現実に存在したその「国家」の誕生から消滅までの歴史を作者は語りたいのだと思う。なぜなら「満州国」なくして日本の現代史はないからだ。
五味川純平は「戦争と人間」で新興財閥五代一族とそれに関係する関東軍将校や満州人を配置して語り部とした。船戸与一は「満州国演義」で敷島四兄弟(一郎、次郎、三郎、四郎)を外交官、馬賊頭目、関東軍将校、元無政府主義者とし、かつ関東軍特務機関に所属する間垣徳蔵というミステリアスな人物を配置して語り部とした。
登場人物はそれぞれの歴史の領域を語るために配置されたのであり、冒険物語ではないので読者が期待するような自主性や心の春秋には少し乏しいかもしれない。日中戦争・日米戦争の15年間の歴史を教科書的な歴史としてではなく、そこに生身の人間の生き死にを伴って情感豊かにその歴史の細部を理解することがかかる小説を読む醍醐味であろう。
ところで思うに、戦前も現在もなんと情けない程愚かな時代であることか。そして浅薄な批判を踏みこえて、賢い道を切り開くことがなんと難しいことか。自分をそして自分を含めたこの社会をどうとらえるかは本当に困難を極める。歴史を知ることがその一助になればよいがそう簡単なことではない。人は本を読み呻吟し考える、その果てに何があるか、何かを獲得するか。私はその時間が徒労に終わるとは思わない、少なくとも人は思索する自分を発見する、そして ”自分の人生” を歩み始めた!と感じる。
この感動は大きい。
この感動は大きい。
天拝山のあの道この道………養精術(2) ― 2019-10-01
オンネトー(雌阿寒岳の麓) 2003.07.05(脊髄損傷前)
3年前のブログ「身体障害者となり落ち込んだか。」で、ほとんど落ち込まなかったと書いた。それは怪我して当座のことだったが、それから7年半が経った。7年半といえばそこそこいろんな事があってもおかしくない年月だが、私は同じ仲間の脊髄損傷者と比べると、併発する病気(肺炎、腸閉塞、褥瘡、尿路感染など)の発症も少なく、割と規則的で平穏無事な生活を送っきたといえる。従って心の持ちようも安定して推移したと思う。
自慢するわけではないが、また自慢できるようなものでもないが、ここまでに至る心の持ちようを振り返って、ここに書き留めておきたいと思う。同じような障害者の目にとまって参考になれば幸いであり、また書き留めることでこれからの私自身の生き方の道しるべとして役立てるためでもある。
そうは思ったものの、実は恥ずかしい気持が強い。裏にしまっている心の内を人様の目に晒すことは、普通はやらないことである。自分の心の内をやたらさらけ出す人は ”つまらない人間” だと、何かの本に書いてあった。やはり心の内は伏せておくのが常識というものだろうと思う。
だが、私は私自身のためにあえて書き残しておきたいと思う。自分は ”つまらない人間” だと宣伝しているようなものかもしれないが、まあそれでもいい。思い起こしてみれば、このブログを書くということは自分の存在証明書の発行作業であり、それを自分が読んで「嗚呼!まだ俺は生きている」と確認するという繰り返しのためでもあった。だから私は自分の心の内もこのブログに書き、そして自分で読み返すのだ。
私が自分自身にこの7年半でつぶやいた言葉を思い出して列挙してみる。
[大学病院の救急に運ばれた。5時間位の意識不明から覚めた。大怪我をして運ばれたようだ。とにかく首が猛烈に痛い。躰は全く動かない。頭は大混乱、何をどう考えたらいいのか皆目わからない。]
”この私が大怪我をしたなんて何かの間違いではないか、この私の身に限ってそんなことが起るなんてあり得ない。夢に違いない。目が覚めたらまたいつもの日常が始まっているだろう。夢であって欲しい。” (しかし、そのいつもの日常は始まらなかった。)
” 大変な怪我をしたようだが、果たしてどの程度の怪我だろうか。まあ、今は手術が済むまで色々心配してもしょうがない、なるようにしかならない。大怪我だったとしても、自分の運命を引き受けるしかない。静かに明日を待とう。”
” 死ぬわけではない。どんなになろうが生きていければそれでいい。そう思おう。”
[1週間位経った。]
” 両手両足が完全麻痺でほとんど動かない。寝返りもできない。電動車椅子にはなんとか乗れるそうだ。ベッドに24時間寝たきりにならなくてよかった。しゃべることには不自由はなさそうだ。だが、一体これからどうなるのだろうか?”
[2週間位経った。]
” 若い頃からの私の今までを考えれば、この程度で落ち込むようには私の心は出来ていないはずだ。これまで心がつぶれそうになったことは何度もあった。しかしその都度、時間はかかったがなんとか克服してきた。だからたいていの逆境には耐えることができるようになっている。そのたくましさを求めての今までの人生だったではないか。大したことはない、なんとかなる。”
[せき損センターに移り、リハビリに励む。しかし、腕は10㎝位しか動かない。怪我して半年位経った頃。]
” うつしよの はかなしごとに ほれぼれと
遊びしことも 過ぎにけらしも (古泉千樫作)
この短歌に刺激され対抗上、入院中の病院のベッドの上で次の短歌を作った。作り終えた時、何か憑きものが落ちた気がした。
胸の上 リハビリ重ね 右の手で
いとし左手 撫でさすりけり ”
[1年後、退院してから]
” 今までは健常者、これからは障害者、二つの違った人生を体験できる。健常者だったら気付かない考え方ができるかもしれないし、障害者だから味わえる喜びがあるかもしれない。いや、きっとあるだろう。貴重な体験ができる人生だ。”
” 怪我する前のことだが、私は中高年の山の会(あだると山の会)で登山を楽しんだ。麓から一歩一歩フーフー言いながら登り、疲れたら休憩して吹き出た汗を拭き、喉を水で潤す。それを何回も繰り返しやっと山頂に達する。だからこそ、登頂した喜びを感じられたのだ。ヘリコプターで連れて来られたら、こういう喜びは味わえないだろう。
足が動かない、残念だがもうこの喜びは味わえない。この喜びと似た喜びはないものだろうか?。
目的を持って読書をする、何冊も何冊も読書をする。すると山を登っている感じがしないだろうか。小さなピークが見えないだろうか。稜線とそれに連なる主峰を仰ぎ見ることはできないだろうか。人間が築き上げた叡智がどういう山河なのか、踏破できなくてもせめて展望できる所まで歩けないだろうか。よし、目的を持って読書をしよう。”
[怪我して2年後位]
” 人生の後半で障害者になった、そんな私だからこそ世の中に何か発信できることがあると思う。じっくり考えてブログで発信しよう。”
[怪我して4~5年後位]
” これまでは人との会話が苦手だった。相手の話をじっくり聞くのも苦手だったし、その話を引き取って自分の感想や考えを述べ、話を続けることも下手だった。努力して上手な聞き手&上手な話し手になろう。そのためには会話の内容が問題だ、読書の量を増やそう。”
” 障害者になって人と会う回数がめっきり減った。入ってくる情報も少なくなった。知的興奮の機会もほとんどない。放送大学の大学生になり、広範囲に学び直そう。そこから連想ゲーム的に自分の知的世界を広げよう。”
天神さまの径(気分によっては、石楠花谷コース)から主稜線上の最高点(295メートル、地図を見ての私の判断)を越え、竹林コースを往復し地蔵川源流コースを下る。九州自然歩道をまた登り返し主稜線と出会い、向きを変えて天拝山の山頂に戻る。眼下に広がる福岡の街を展望し、正面登山道を下りる。
足は動かない、そんなことは大したことではない。私は明日も天拝山に登る。” (天拝山のあの道この道)
上に書いた青字の部分は読み返してみると、意識的にそうしたわけではないが幸いにもポジティブでプラス志向が強い。私の周りにいた脊髄損傷者を思い返してみると、私のように恵まれている人ばかりではなかった。肺炎を併発し亡くなった人がいた。別の施設に移ったが、リハビリがうまくいかないで躰が固まったままになり、ベッドに寝たきりになった人がいた。
また、経済的に困窮し同じ脊髄損傷の仲間からお金を借りて返済できず、人間関係も破綻しとうとうリハビリにも来なくなった人がいた。私は続けられる仕事(公認会計士・税理士)があって経済的には助かった。経済的に困窮し埋もれてしまう人は予想以上に多いと思う。ケアマネジャーの制度が障害者の隅々まで普及し十分に機能することを願う。
私が知っている中で多いのが、離婚というかはっきりいえば配偶者(或いは恋人)から見放された人、配偶者が逃げ出してしまった人である。配偶者にも自分の人生がある。手足が動かずベッドに寝たきりになったような人間の面倒を、あなたが一生見なさいとは誰も言えない。逃げ出してしまう人の胸の内は分かりすぎる程分かる。去った人間がいて、残された人間がいた、両者ともにつらい。人生をこれきしであきらめてはいけないと傍ら願うばかりである。
また、経済的に困窮し同じ脊髄損傷の仲間からお金を借りて返済できず、人間関係も破綻しとうとうリハビリにも来なくなった人がいた。私は続けられる仕事(公認会計士・税理士)があって経済的には助かった。経済的に困窮し埋もれてしまう人は予想以上に多いと思う。ケアマネジャーの制度が障害者の隅々まで普及し十分に機能することを願う。
私が知っている中で多いのが、離婚というかはっきりいえば配偶者(或いは恋人)から見放された人、配偶者が逃げ出してしまった人である。配偶者にも自分の人生がある。手足が動かずベッドに寝たきりになったような人間の面倒を、あなたが一生見なさいとは誰も言えない。逃げ出してしまう人の胸の内は分かりすぎる程分かる。去った人間がいて、残された人間がいた、両者ともにつらい。人生をこれきしであきらめてはいけないと傍ら願うばかりである。
あらためて思うことはやはり言葉だと思う。その局面その局面での言葉の発見だと思う。しかしすぐには言葉は発見できない。言葉を発見することはそうたやすいことではない。落ち込みが深ければ深いほど、言葉の発見には長い時間がかかる。私の経験では落ち込んでから1年くらいかかることはざらであった。それ以上長いこともあった。
言葉の発見という云い方がわかりにくければ、言葉を練り上げる、或いはストーリーを作ると云ってもよい。言葉が見つからない、その時間は本当につらい。その忍耐の果てに自分を元気づける言葉はあるだろうか、自分を救う言葉はあるだろうか、あって欲しい。その言葉を求める孤独な営為は報われるだろうか、報われて欲しい、たとえどれだけの時間がかかろうとも。
練り上げる言葉はワンセンテンスの場合もあるし、一文章の場合もあるし、それ以上長い場合もある。ストーリーになることもある。私の経験上はあまり長くならず、そぎ落として簡潔に表現する方がよいと思う。
例えば、私が40歳頃落ち込んだ時、練り上げた言葉は「人間は可変多面体」というものだった。ここでは意味は説明しない、他人のために作ったのではない。私一人が分かればいい、その言葉で私は救われ励まされたのだから。また、自分の人生になぞらえたあるストーリーを作り、自分が森繁久弥のような名優になったつもりで心の中で何度も演じ、そうしているうちに気分が変わり落ち込みから生還したこともあった。
落ち込んだままで言葉が見つかりそうにない場合はどうするか。一人悪戦苦闘して再起不能で駄目になってしまうより、精神科か心療内科を受診することを勧める。睡眠をとり、少しでも気持が持ち上がるように向精神薬に頼る方がよい。私もうつ病の時はそうした。これまで書いてきたことと矛盾するようだが、融通のきかない頑固な精神主義はよくない。
書きながらこのブログは少しづつ支離滅裂になってきているかもしれない。何回も書いたことだがここで私が書くということは、自分がこの世にこうして生きているという、自分自身に宛てた存在証明書の発行作業だ。一人で演じる一人作家の一人読者、この芝居を私は気に入っている。
73歳になった。 ― 2019-09-14
黒部五郎岳 2006.08.08(脊髄損傷前)
一年前のブログ「70歳から生き方について考える。」の続編です。
四年前のブログ「国分功一郎「暇と退屈の倫理学」を読む」とも関係があります。
73歳………私が子供の頃であったならば、まれにみる長生きで仙人みたいな想像もつかない年齢ということになるだろうか。まだ小さい子供の時のことだが、親戚のおばあちゃんが養老院に入るということで、風呂敷包みを手に提げて私の家のそばの道を歩いていく姿を見た時、見てはいけないものを見たような気がしたのを憶えている。養老院は私の家を通り過ぎたずっとずっと山の方にあった。今思えばあのおばあちゃんはまだ60歳前だったかもしれない。
あの時私と目が合ってしまった、その場にたまたま出合わせたのがよくなかったのだ。この世の果てでひっそり死にに行くのだ、子供ながらにそんな気がした。その頃前後してだったが、深沢七郎作の「楢山節考」(木下恵介監督、田中絹代)の映画を祖母に連れられ見に行った。養老院に行ったおばあちゃんは私の祖母の妹で、遠く離れた町に長く一人で住んでいた。なぜだかその時の私には養老院と映画で見た姥捨山が同じもののように重なって感じられた。
時代は変わった。いつしか世の中は人生100年などと云われ、60歳定年後さらに40年間を生きることが珍しくなくなるという、とんでもなく恐ろしい時代が訪れようとしている。ちなみに私の父は90半ばまで生き、私の妻の母も100歳近くまで生きた。急激に日本の世の中は高齢化の社会になってしまった。私もその高齢者の入口付近にいる一人である。
70歳頃から感じ始めている不安がある。長すぎる老後をどう生きたらいいのか? はて困ったぞ!どうしたらいいものか? 先人の適当な前例かモデルはないものか? なければ自分でなんとか考え出さなけれならないのか? この不安はすぐには答が出そうにない。”人生暇つぶし” と言うには、あまりにも長すぎる人生である。
60歳頃まで働いてその後は老後を適当に楽しんで人生を全うするなどという、一昔前までの人生モデルはもはや参考にならない。そんなモデルで生きていると、つぶしてもつぶしきれない暇がありすぎて、その老後の途中で 退屈のあまり ”私の一生って一体何?” と悲鳴を上げてしまう。その時、しっぺ返し的残酷な後悔が間違いなく待ち受けているのではないかと思う。
私は老後の生き方というテーマを自覚しないままに、60歳からもう13年間も生きてしまった。まだ先は長そうだ、暇つぶしではない老後を考える必要がある。
長寿はめでたい事ではあるが、高齢者にとっては困った事が四つある。一つは経済的な問題である。大半の高齢者は年金中心で生活している。この長すぎる老後を支えるために日本の年金制度は本当に大丈夫だろうかと考えてしまう。
①少子高齢化と人口減少、➁低成長の経済、③1,000兆円の国債残高、④増税を嫌う国民体質、⑤非正規労働者の増大、⑥経済のグローバル化による貧富の格差と貧困層の増大等、年金制度の将来にとっては不安材料ばかりである。
年金制度に依拠した老後をイメージするより、生活保護の老後を設計する方が現実的ではないのか、認めたくはないがそんな感じさえしてくる。経済的に貧しい老後では悲しすぎる。この年金問題は何はともあれ日本の最重要な課題の一つである。私も日本人の成員の一人として、考えているところをこのブログでいつか書きたいと思っている。
二つは、将来のことは分からないということである。100歳まで生きるつもりでいたのに70歳で死んでしまった。逆に、普通に生活していたら100歳まで生きてしまった。前者の場合には無念さが残り、後者の場合には持て余してしまう長すぎる老後が残る。
何歳まで生きるか分からないのに、100歳までの人生プランを考えても仕方ないのではないか、途中で死んだらどうする。とりあえず日本人の平均寿命の80歳位まで生きると考えて、後は成り行きでいいのではないか、そのうちに頭もだんだんボケてくるだろうからと考えたくもなる。先ほど書いた私の不安はこの二つ目の困った事、いつ死ぬか分からない=いつまで生きるか分からない、と直結している。
ところで、こんな問題でグズグズ&グダグダしている私を一撃で吹き飛ばすような名言がある。 「明日死ぬと思って生きなさい。永遠に生きると思って学びなさい。」(マハトマ・ガンジー)
三つは、老後の時間はそれまでの若い頃の時間とは質的に違うということである。個人差はあるが、<集中力>も<持続力>も<記憶力>も<思考力>も、そし て<感受性>も<好奇心>も劣ってくる、もちろん<体力>も<健康>もそうである。総じていえば、<気力>の衰えである。
私は近頃特に記憶力の著しい衰えを何かにつけ体験している。それを赤瀬川原平氏流に「老人力」と肯定的にとらえてもいいが、実際には仕事上も日常生活上も困ることはなはだしい。個々人の習慣と努力でその劣化を食い止めるしか方法はないのではないかと思っている。
そしてこの事は更に考えを押し進めるとそこには、その人なりの人生観や哲学とも関係する難しい問題が秘そんでいる、つまり「老いと死の受容」という問題である。今の私にはこの問題は全くの手付ずである。
” 形見とて 何か残さむ 春は花 山ほととぎす 秋はもみぢ葉”(良寛)
”全身を埋めて、ただ土を覆うて去れ。経を読むことなかれ。………”(沢庵)
この三つ目は私の不安と深く関係していることは云うまでない。
四つは、家族による介護の問題である。高齢者になると身体的・精神的な疾患がどうしても目立ってくる。特に認知症と脳梗塞であるが、医療保険・介護保険があるので病院への入院、デイサービスや老人福祉施設等への通所や入所、ホームヘルパーのサービス等によりその一家族の介護の負担はかなり軽減される、しかしそれでもその家族に残る負担はまだまだ大きい。
私は介護保険で要介護度5の重度身体障害者であるので、デイサービスやショートステイでの認知症の高齢者の姿をよく知っており、その介護の大変さを実感せざるを得ない。そもそも私自身が24時間要介護の高齢者の身であり、私の妻は老々介護で毎日孤軍奮闘中で疲労の連続の中にある。これらの事に向けての医療保険と介護保険さらに社会福祉の行政の充実を待ち望む次第である。
老後の生き方についてヒントを得ようと啓発本を数冊読んでみたが、期待しているような内容の本はなかった、更に調べてみたがやはり低レベルのものばかりだった。世間一般では老後の生き方の問題は健康と経済の実用的な問題に偏っており、それ以外の内面的なことはお粗末にしか扱われていない。
書かれていることは煎じ詰めれば、老後に向けて若い頃から計画していろいろと準備をしなさい(そんなことは老人に言わないで若い人に言え、余計なお世話だと言い返されるのがオチだろうが)、そして老人になったならば自信を持って独創的に生きなさいとは言ってはいるが、結局は常識と通俗的道徳に従って生きていきなさいという域を出ていない。
そこで「老後」から「隠居」と視点を移して考えてみることにした。言葉や語感が変わると気分が変わることがある。隠居に関する本や高齢者になって書かれた本などをいくつか読んだ。本に書かれている先人達の悠々自適な隠居生活を読んでいくうちに、霧が晴れたようにフウーとある閃きが興った。
「創造的活動」というキーワードの発見である。そうだ! これのあるなしが全てを決するのだ。これがなければ老後(隠居)の生活をいかにイメージしようともむなしい。老後あるいは隠居を考えるということは、創造的活動をするかしないかを考えることと同じことではないのか。
悠々自適な隠居生活とは恵まれた一部の老人の話ではないのか。確かに全ての人が理想的な状態で老後(隠居)を迎えられるわけではない。誰もが経済的に裕福とは限らない、従って老後も働かざるをえない人は多い。家族に恵まれない人もいるし、健康に恵まれない人もいる、人生様々である。正義が勝つとは限らないこの世をとにかく生き抜き、そうして晴れて老後を迎えた。その老後ははたしてどうなるのだろうか。
私も迷いの渦中にあり、「創造的活動」と発声してみたに過ぎない。すると曇っていた目の前が晴れてきたような気がするだけである。まだ形もなければ内容もない、「創造的活動」という言葉があるだけである。この言葉を手がかりに前進して見よう、私は意識的にその立場に立った訳である。私の勝手な解釈であるが、” はじめに言葉ありき ” である。
四肢麻痺で寝返りもできず24時間要介護で、しかも73歳という年齢の私にとって、これからの創造的活動ってそもそも何だろうか? 創造的という言葉の字面にあまりとらわれる必要はないと思う。自分が面白いと感じ自分のペースで持続できれば、それが私にとって創造的ということにほかならない、今はその程度に考えている。重点は ”活動” の方にある。
創造的活動の内容は人様々であろうと思う。その人なりの持味で創造的活動を行う、それが私が望む老後(隠居)の姿である。それはこんなことだとかあんなことだとか私が例示できるものではない、何でもいい。私もこの年齢になればやりたいと思っていたことや、まだやり残したことの二つや三つはありそうだ、始めてみようかと思う。
一回ポッキリでは創造的活動とはいえない。もしうまくいかなかったならば別のことをすればよい。やってみようと思う気持が大切だ。若い頃からしている事の継続だってかまわない。この世に自分が生きたという証(あかし)を遺すくらいの気持で心を傾けられればオンノジである。
眠ったように生きて老け込んでいくだけが人生ではない、せっかく生まれのだ、何かを始めるのに遅すぎるという言葉はこの世にはない。そう思って何かしら活動している自分がいればそれでいいと思う。
良寛さんの生涯をイメージしてみる、すると私がいう「創造的活動」が色褪せて見えてきた。日がな一日縁側に座って日なたぼっこしながら猫を抱いている翁は、私の老後の理想の姿ではなかったか。そこには時間を持て余して退屈している姿など微塵もない。モノクロニックな世界を乗り越え、しがらみと煩わしさをも消化して楽しみと感じとり、春夏秋冬の自然の一部に化している翁に対して、創造的活動をなどと言うことは場違い、身の程を知らないと云うほかはない。
そもそもの話だが、私は自分が73歳であるということに実はピンと来ていない。まだ自分は50歳代ではないかという感覚が、正直なところ躰の何処かに残っている。老いとか死とかはずーっと先の事だと何処かで思っている。今まで書いてきた事と矛盾するようだが、本当のところ老後の生き方をきちんと考えようという身の構えがまだできていない。真面目なふりをして上の黒字の文章を書いてしまった、このままにしておく。
人間の死ぬ記録を寝ころんで読む人間(山田風太郎)
(中途半端だが、このブログはこれで終わる。)
私って誰? ………養精術(1) ― 2019-08-18
トリカブトの群落(裏剱、池の平小屋付近)
2006.08.26(脊髄損傷前)
人は生きていくため様々な局面で色々と考えごとをする。その数多の考えごとを収斂すると、共通に一つのことが浮かび上がってくる。考えごとをしているのは誰であるか? 逆照射すると ”考える私” が浮かび上がってくる。この ”私” は全ての局面に主体として共通に存在している。さて、このような ”私” とは何者であるか? どのようにとらえたらいいのか?
問う主体は問われる客体でもある。問われる客体はこの世で何かを考え何かをしようとしている。そして遂にはその射程に問う主体をとらえる。蛇が己の尾を飲み込もうとしている。その奇っ怪な姿が人間である。この人間の理解が物事を考える出発点である。ここには主体を客体として問う構図がある。しかし種々の物事の解答があるわけではない、問いをどのように発したらいいのかについての示唆を与えるだけである。この示唆は極めて重要である。
前にも書いたが、アダム・スミスの「道徳感情論」はこの主体と客体の関係を詳述している。この本の副題は次の通り、「人間がまず隣人の、そして次に自分自身の行為や特徴を、自然に判断する際の原動力を分析するための論考」である。 あるいはその解説書、堂目卓生著「アダム・スミス「道徳感情論」と「国富論」の世界」(中公新書)でもよい。精読すると頭が整理される。
この世で何を考え何をしようとしているのか。誰が?…………この私がである。この私が何かを考え何かをしようとしている、それ以外に私はない。そういうことをしようとしているのがこの私にほかならない。当たり前のことをいっているようであるが、私が20歳代で獲得した ”私とは何者であるか” を定義した貴重な哲学である。
当時の学生の常識的な風潮であった「戦後民主主義」と「教養主義」にひれ伏していた私は、「何故そう考えるのか?」というO先輩の問いかけに曖昧な返答しかできなかった。そのことを正面から受け止めた私は、真剣に考えていくうちに分からなくなり徐々に脆くも崩れ落ちた。そしてその果てに別の自分を発見した。
具体的に何かを考え何かをしようとしている私は、無色透明な抽象的な私ではなく、これまでの世の中の歴史に色付けされた私、歴史を纏っている私である。これが新たな私の発見であり、歴史というものと私との最初の出会いでもあった。私が学生であった1960年代後半とは、そういうことを問題として問うことが普通の時代であった。
一般に人は我が身が歴史を纏っているということを自覚していない。魚が水の中で生きているのが不思議でも何でもないことと似ている。私の場合は、「戦後民主主義」と「教養主義」の怪しさを感じとり、幾分か批判的に対象化できたと思っている。それ以来この纏っているものから脱げ出したいと思っているが、なかなか容易には脱皮できないでいる。私にとって歴史とはそういうものである、従って私が問題にする歴史は常に現代史である。
どんな時でも「何故そうするのか?」と問うことが常態化している私は、例えば「それは私の趣味です」というようないい方には敏感に反応して納得しない。そこには趣味という客体だけが強調されていて、あなたという主体との関係が見えてこないからである。
趣味という一見誰にでも分かりやすい、しかしその実よく考えると何を言っているのかよく分からない単語に逃げ込んで、無意識に思考停止になっているように見えてしまう。「何故それはあなたの趣味なのか?」と重ねて問うことはしない。しつこいと嫌われるからだが、実はその答えがほとんど用意されていないからでもある。
それは趣味を道楽と言い換えて同じ事である。そのような多元的で固定観念の固まりのような単語を言い放って物事を終わりにしてはいけない。禅問答的というか、堂々巡りというか、同義反復というか、肝腎なことが何も伝わってこない。
そのことがあなたを捕らえて放さない魅力を、きっかけから思い出しては反芻しアレコレと考え、整理されないままでいいから別の言葉で別の言い方で、とつとつと語ろうとすることである。そこにはおそらくあなただけのストーリーがあるのだと思う。そういうストーリーを語る以外に、「何故そうするのか?」という問いに対するまともな答え方があるだろうか。人が自分の何かを他人に伝えることとはそういうことだと思う。
「何故あなたは現代史を問題にするのか?」という問いを予想してあらかじめ答えておいた。単に歴史が好きだからというような答え方が、私にはありっこないというのがお分かりいただけた思う。私にも私なりのストーリーがあるのだ。
主体と乖離した(主体とのストーリーがない)客体を問題にしても、そこにあるのは空虚な言葉しか発しえない主体である。悲しいかな!そこには救い難い退廃しかない。そして実はよく観察すると、努力、勤勉、実直などのかなりの部分が、残念ながら無意識にとはいうもののこの退廃の入口にあるか退廃そのものである。「何故そうなのか?」の問い直しがなされていないためである。
自分の人生を粗末に扱ってはいけない。もしかするとあなたは、あなたの中の他人という別の人間の人生を儀式として代行しているに過ぎないかもしれない。その他人とはこの世の種々の固定観念が凝縮し人格化した化け物で、あなたに成りすましている。「何故そう考えるのか? 何故そうなのか?」と問えば、その他人は溶解するか逃げ出してしまう。こうしてあなたは本当のあなたの人生を生きることができる。そしてあなたを今までとは違う新たな世界に案内すること必定である。
私は毎日12時間眠っている。 ― 2019-03-21
阿蘇山 2005.11.20(脊髄損傷前)
私って何者?
誰もが長い人生の過程で一度や二度は抱いたことがあるこの疑問、私は近頃妙に現実味をもってこう呟くことが多くなってきたように感じる。おそらく今の生活の有り様がそういう疑問を惹起させているのであろう。今の日々の生活がこれまでのそれとは比べようもなく違いすぎているからである。
私は毎日12時間眠っている。原因は薬の副作用の為である。65歳の時に脊髄を損傷したが、それから丸7年が経ってしまった。1年間病院に入院していたので、退院してから6年間が経過したがほぼ同じようなパターンの生活をしている。薬は1日6回、合計10数種類を40~50錠程毎日飲んできた。多すぎるので減らそうとしたがなかなか減らない。眠たくなるのは特に鎮痛薬の副作用の為である。
眠気を催す薬は多いが、鎮痛薬はその副作用の程度が甚だしい。一般に痛みには2つの種類があるといわれている。一つはナイフで腕を切った時のような患部から来る痛みで、人体の防御機能のためなくてはならない痛みである。もう一つ神経の誤作動から来る痛みで、神経障害性疼痛といわれるものである。足を切断した人が、あるはずのない足の親指が痛いと感ずるのがその例である。私が感じている痛みもこの後者で両腕が痛い。特に右腕が痛く、比喩的に言えばナイフで切り裂かれているようで、痛みが発作的に襲って来たときには思わず声を出してしまう。両腕には特に外傷は何もない。
麻酔科(ペインクリニック)で鎮痛薬の処方を受けるようになってから痛みはかなり緩和されたが、今度は眠気との闘いが始まった。今は3つの鎮痛薬(リリカ、カロナール、トリプタノールorノリトレン)を使っているが、その服用の量により催眠効果が違ってくる。量を多くすれば鎮痛の効果は大きくなるが、それだけ催眠効果も大きくなる、痛し痒しである。その結果、ここ3年間は毎日コンスタントに12時間は眠ってしまう生活を続けている。
夜から朝にかけて8時間眠る。これはほぼ誰でも同じであろう。私の場合はさらに午前中に1~1.5時間、午後1~1.5時間、夕方1~1.5時間眠ってしまう。日によっては1.5時間が2時間になることもある。いくら我慢してみても駄目である。いつの間にか眠ってしまっている。近頃は無駄な努力は止めて、寝覚めた時にスッキリすればそれでいいと割り切って眠たくなったら眠ることにしている。
こういう生活をしていると、一日の活動時間が極めて少なくなる。リハビリだの、病院通いだの、ヘルパーさんによる衣服の着替えだのとそれでなくとも重度障害者であるがゆえの必須の時間をかなり割かねばならない。透析患者が生きていくために透析のため病院通いの時間を割かねばならないのと同じである。つまり私に固有に属している時間が短いと嘆いているのである。
もし脊髄を損傷しなかったならば私は今どんな生活をしているだろう、などとは私は考えない。そんな考えが頭をよぎったことは本当にないのかと問われれば、そんな問いがあることは知っているし、その問いに絡め取られて愚痴しか言わなくなった人も知っている、「もし」と考えてハッピーになるならば何度でも「もし」と夢想しよう、私が言えるのはここまでである。重度障害者であることから逃れられないのだから、重度障害者として楽しく生きる、ただそれだけのことである。それ以外の道があるとは思われない。
7年前から私は重度障害者(障害者1級、介護保険要介護度5)として生きている。そんな人生がよりによってこの私に訪れようとは勿論夢想だにしていなかった。今までと同じような平凡な人生が続くものと思っていた。しかしある日何の因果かこうなってしまった。運良くか運悪くか、こうなってしまった私はこの世で二つの人生を送っているような感じがするのである。
普通では味わえない二つの人生を味わっている私は、前も後もおそらく同じ私であろうと思う。仮に「前の私」と「後の私」と名付けてみると、「前の私」は7年前に終わっている。今の私は大怪我をして重度障害者になった「後の私」である。 そこで最初の問である、私って何者? この生すぎる問いはどんな答えを期待しているのであろうか。
私が生きてきた時代とはどんな時代だったか。そこで、私はどんな主義主張に影響されて自分の哲学を作ってきたか。その哲学とはどんなものか。それを体現しているのがこの私である。真正面から真正直に考えるとそういうことかとは思う。
少し違った風に考えて、「後の私」は「前の私」とどういう関係にあるのかという問いを立ててみよう。「前の私」の時間的な延長上に「後の私」があるのは事実の問題である。「後の私」を生きている私は「前の私」にどう向き合えばいいのか。「後の私」は「前の私」の単純な延長ではないはずである。
「後の私」は「前の私」が徐々に結晶化する過程ではないのか、近頃このイメージに到達した、そしてこのイメージが私の頭の中でだんだん強くなりつつある。鉱物はある極限的状態が続くと結晶体になる。私にとって重度障害者であるというこの身体的状況は十分に極限的状態である。食塩だって炭素だって結晶化する。人間も結晶化して何の不思議があろうか。このブログの冒頭で “近頃妙に現実味をもって” と書いたのは私がこのイメージに生々しくとらわれてきているという意味である。
”自分らしく生きる” といってもいいのかもしれないが、あまりにも俗ないい方であるし、「自分らしく」とはどういうことかと堂々めぐりのような説明をしなければならない。そもそもアプリオリに自分が存在しているような言い方にも違和感がある。もともと自分というものが厳と固定的に存在しているわけではないと思う。結晶化するといういい方のほうがが私にはピンと来るし、何しろカッコいい感じもする。希ば、結晶化しようという自発的意欲と行動に充ち満ちている「後の私」でありたい、せっかく重度障害者になったのだ、そう考えてもよかろう。
この結晶化のイメージを持てるようになってから、「後の私」つまり重度障害者として生きなければならない私にとって、自分の生き方がすこし鮮明になってきたような気がする。矛盾するようであるが、結果として結晶体にならなくてもいっこうにかまわない。結晶化という言葉がこれからのプロセスで私を元気づける魔法の言葉であればそれでいい。
ここまで書いたが読み直してみると、極めて私的な内容で独りよがりの考えであり、書いてあることは他人にはほとんどその意味が通じないだろう。大体、人間が結晶化するはずがないし、そもそもその考え方が分かりにくい。
「後の私」も日々の生活ではそこそこ世俗的であろうから、そこから物事を考えないといけないのではないか。結晶化のイメージは一旦封印して、「後の私」は現実の今の私であるから、そこで出会う諸々の事柄とどう向き合っていくのかを主軸に据えて考え生きていくべきではないか。
その時「前の私」が持っていた主義主張が色々と試され鍛えられるだろうから、そういう過程を結晶化と呼んでもいいかとは思う。あえて「前の私」「後の私」と分けて考えてしまうのは、その日常生活があまりにも変わり過ぎたからであるが、私の内面はほとんど変わらず連続している。断絶しなかったのだから内面については「前の私」「後の私」と分けて考える必要はない。
しかし敢えてそうするのは、私の考えや行動にメリハリを付け元気づけをしているような効果があるからである、そのことを結晶化という言葉で呼んでみた。言い訳が長くなってしまった、自分の気分を伝えることは難しい。
K君の言葉(50年前の話) ― 2018-06-25
塩見岳から南アルプスの稜線を望む 2003.09.09(脊髄損傷前)
18から20歳頃までの多感な青春時代の2年間を私は三鷹市にあった大学の男子寮で過ごした。当時300人程の寮生が生活していて、それから50年以上経つが今でもつきあっている友人が多い。K君とは2年生の時同じ寮委員をして何かと話す機会が多かった。K君は熊本出身で同じ九州だということもあって身近に感じた。私は20歳の時K君から人生を決定づけるような影響を受けた。K君は今東京で弁護士をしている。
K君は自分は臆病だと言った。その上優柔不断だからぐずぐずして眼の前のやるべき課題に取り組もうとしない、実行すると決めたのにもっともな理由をつけて先に引き延ばそうとするというのだ。K君は自分をそう分析したうえで、だから考えて、「 ”No” でなければ ”Yes” 」つまり躊躇しないで実行すると決めたんだと言った。私も自分自身を臆病で優柔不断な人間だと思っていたので、K君の言うことに引きつけられた。
誰でもそうだが物事はどのように考えなければならないか、そして自分はどのように行動しなければならないかという課題を抱えている。そのことが生きている証でもある。はいこれは右これは左とすぐに結論がでる問題は少ない。考えれば迷ってしまう、それが普通だ。粗雑に結論を出す必要はない、じっくり熟慮して結論を出す、そして実行する。K君の言うことに奇異はない、至極当たり前のことを言っているように感じられた。K君の ”Yes” は考え抜かれた末に導き出された究極の行動規範、人生哲学だが、その真髄はどこにあるのかもう少し検討してみよう。
世の中には立場や思想信条の違いで ”Yes” ”No” が相反することが多い。原発問題然り、移民問題然り、憲法改正然り………。しっかり考えて判断する場合もあれば、習慣や惰性で簡単に処理している場合もある。この世ではしてはいけないことがありそれは ”No” で、反対にしなければならないことは ”Yes” であると思っている人がいる。一方、いやこの世にはしてはいけないことなど何もないし、しなければならないことなども特に何もないと考えている人もいる。 ”Yes” か ”No” かを問うとすれば、抽象的議論をせず個別具体的に検討するしかない。
こういうシビアな事柄のほかに、世の中にはまあしてもしなくてもどっちでもいい、 ”Yes” か ”No” かどっちでもいいという事柄もある。数的にはこっちの方が多いかもしれない、そして人生はこのどうでもいいようなことの連続で充満しているといってもいい。このどっちつかずはけっこう我々の頭を悩ませる。ここで、K君の「 ”No” でなければ ”Yes” 」の出番となりその本領を発揮することになる。
例えば、友人からあるイベントに誘われたとしよう。”Yes” か ”No” かはっきりしない、まあどっちでもいいかという場合がけっこうあるのではないか。せっかく誘われたのだ、特に断る理由がなければ参加してみようというのが、「 ”No” でなければ ”Yes” 」の意味するところである。面白くなかったならば次から参加しなければいいだけの話である。
私はK君の真似をすることした。実践的で有力な行動の基準であると思ったからだ。以来50年以上経つが、仕事の場面で、家庭の場面で、様々な人間関係の場面で私はこの ”Yes” のお世話になってきた。元来私は何事にも引っ込み思案な性格だったのだが、周りの方が私のことを曲がりなりにも積極的な人間だと思っているとしたら、それはこの基準の賜物である。30半ばで知り合いが一人もいなかった福岡に東京から移り住んでこれまでやってこれたのも、この ”Yes” のお陰である。そしてそれは間違いなく私の人生を面白くしてくれた。
私は人生は ”邂逅” だと思っていた。自分一人の独創的な創意工夫で道を切り拓くということもまれにないではないが、私のこれまでを振り返ってみると人との出会い、本との出会いの影響が大きかったと思う。少し考えればお分かりのように、この ”Yes” は継続すると次第に人の性格を変え行動を変えそして人生を一変させる力をもっている。20歳の時、私の ”邂逅” はK君の ”Yes” と合体し、相乗効果で私の生き方を根こそぎ変えてしまった。
さてこの基準を適用して生きていくと、することが多くなりすぎて頭が混乱し収拾つかなくなることにはならないか。また予期せぬ不測の事態に陥る危険が多発することにはならないか。確かにこのような疑問が生じるが、実際にはそういうことにはならない。なぜならもともと ”No” の場合には行動しないという歯止めがあるからである。反社会的である、違法である、危険度が高い、他人に迷惑をかける場合などは当たり前だがしてはいけないかしない方がいい場合であり ”No” となる。好きになれない、なんとなく気分が乗らない、時間的制約があってできない、経済的負担が大きい、などの主観的・個人的理由で ”No” となる場合もある。
ところで多くの人はなぜいろんな場面で臆病で優柔不断になるのだろうか。いったん決めたことを色々理由をつけて躊躇し先に引き延ばそうとするが、怠惰であるためにそうするのだろうか。それは多くの人とっては自分と家族の生活を維持継続することが何よりも大切だからだと思う。そのことを否定的に自己保身といってもいいが、普通の人がこの自己保身を捨てさることは至難の業である。臆病風が吹いて次の一歩がなかなか踏み出せない、そのことを非難してもいいがその踏み出せない内実は自分と家族の今の生活を壊したくないという本能的な生存の欲求である。従って手強い相手だといえる。
K君はこのことにほとほと手を焼いたのだと思う。他人の心の領域にはなかなか踏み込めないが、せめて自分は自己保身を克服して生きようと決意したのだ。”君子危うきに近寄らず” ではなく、”義を見てせざるは勇なきなり” である。自己保身を理由に ”No” と言うことを自らに禁じ、意識して退路を断って次の一歩を踏み出すと決めたのだ。ちょっと考えると立身出世主義のようでもあるが似て非なるものである。立身出世主義はあくまで計算ずくめの上昇志向である。K君はとうの昔そういうレベルの生き方には決着をつけ、最後に残った手強い自己保身を 「 ”No” でなければ ”Yes” 」で克服し、場合によっては自己犠牲をもいとわないという生き方を選んだのである。
近頃国会を舞台に森友・加計問題で、何かを隠すために嘘をついるのではないかと疑いたくなるような、政治家や官僚達の人間性や誠実さなど無きに等しい言動を頻繁に見せつけられた。その度に私は次のイメージにとらわれしまう………人の体から口が遊離して宙に浮かび、その口先が元の人間とは無関係にパクパクと開閉して声を発し、そこから空虚な言葉がへらへらと漏れ出ているというイメージである。そんな言葉ともいえないような言葉には人を説得する力もなければ感動させる力もない。私は見たくないものを見せつけられ、体が震えるような生理的な嫌悪感を抱いてしまう。K君の言葉とはその真摯さにおいて雲泥の差がある、真心から絞り出すように生み出される言葉の復権を希う。
70歳から生き方について考える。 ― 2018-06-08

九重(三俣山)のミヤマキリシマ 2003.06.08(脊髄損傷前)
いつの間にか70歳になった。70歳からの生き方はこれまでの生き方とは違うのだろうか、などと考えているうちに来月には72歳になってしまう。少し焦る気持ちが沸き起こってきた。これではあっという間に80歳になってしまう。日本人男性の平均寿命は80歳、私の寿命は85歳位と考えていたので、これでは何もしないで私の人生は終ってしまうではないか………そんな気持ちになってしまった。さて、どう考えたらいいものだろうか。
物事には準備期間とか助走期間というのがある。突然70歳になったりはしない。普通はその前に少しずつ将来の生き方の準備をしていくのではないのか。ところが私の60歳代の10年間はさんざんなものだった。60~65歳の5年間はうつ病に打ちのめされた日々で、もう2度と味わいたくない辛い時間だった。睡眠導入剤と向精神薬で何とかその日その日をつないでいたようなものだった。65歳の時、駅の階段で転倒し頸椎を骨折した。四肢麻痺で寝返りもできなくなり24時間介護が必要な体になってしまった。それから今日まで障害者としての生活に順応することに精一杯だった。重度の障害者として第二の人生が突然始まり、それから老いるという必然が追いかけてきているという感じである。
「君たちはどう生きるか」(吉野源三郎著 岩波文庫)という本が売れているという。1937年(盧溝橋事件と同じ年)に出版されたずいぶん古い本だ。私も中学2年生の時中学校の図書館で読んだ。覚醒されたというか啓発されたというか、読んだ後で自分がこれまでとは違った人間になったような感じがしたことをはっきりと覚えている。拙いながら私が人生というものを考え始めた時である。
それから今日までの60年もの間様々なことがあった。そしてそのときどきで私なりに真剣に考えて自分の人生を継続させてきた。30歳の時私は落ち込んでいた。世の中には自分を元気づける妖しげなる術があるのではないか。その術を発見し体得できればたくましくかっこよく生きることができるのではないか、と思った。私は自分の心を支える言葉を探した。人生論というか哲学というかその付近の領域のことを私は「養精術」と名づけた。そして副題を「たくましさの哲学」「かっこよさの哲学」とした。今日まで生きてきたということは、そのときどきで「養精術」の各論をつけ加えてきたことだと言ってもいい。その「養精術」を振り返ってみることでこれからの生き方の一助にしてみよう。未来とは白紙に好き勝手に絵を書くようにはやって来ない。現状の克服の中にしか現実の未来はない。
いわゆる教養主義なるものを20歳頃までは信じて疑わなかった。しかし徐々におかしいのではないかと考え始めたが、72歳の今となっても本当のところ克服できていない。教養を積むことは良いことだという生き方や考え方を一般に教養主義というが、検討していくと問題点が多い。自分では気づいていないが様々な固定観念が私の思考をいびつにしている、その代表格が教養主義である。それらは束になって私を縛りあげ骨抜きにしているような気がする。それらを克服することをしないでどうしてこれからの自分の未来を考えることができるだろうか。どうすれば様々な固定観念の呪縛から解放されるのだろうか。
もう一方で私の頭の片隅をチラチラするのは、「悟る」というか「枯れる」というか全く別次元の老後の生き方である。若い頃からずーっと心の深いところで、縁側に座って日がな一日を日なたぼっこしながら猫を膝に抱いて過ごしている年老いた自分を想像してはそうなればいいなあと思っていた。ところがその憧れていた生き方とは正反対に、私はいい年をして教養主義に囚われたまま青臭く生きようとしている。
私は昨年71歳で放送大学(4年制大学)に入学し大学1年生になった。九州大学もある春日キャンパスでの入学式に行くと社会人らしき人が100人程来ていた。60の手習いならぬ70の手習いである。10年間在籍するコースを選んだ。10年間で社会科学、自然科学を問わず200科目程度勉強するつもりでいる(1科目は45分×15回)。50歳の頃に60歳(還暦)になったら仕事の時間を減らして夜間大学に通おう、そして経済学を学び直そうと思っていた。10年遅れたが、障害者になったのでインターネットで学べる大学を探し放送大学にたどり着いた。私は今まで歩いてきたのと同じく青臭く生きる道を選んだようだ。
デイサービス(週2日)での午後、私はパソコンのインターネットでその放送大学の講義を受講している。するとデイサービスのスタッフの方から「松崎さんもたまには皆さんと一緒にカラオケでもしませんか。」と声をかけられる。皆さんとは80~90歳代の認知症の方々である。カラオケはあまり好きではないのでと言い訳をしながら放送大学の講義を視聴する。するともう一人の私が現れてきて言う。「君も悟ってないなあ、何故認知症の皆さんと一緒にカラオケができないのだ。」 確かにここには好き嫌いだけでは済ませられない重大な問題が潜んでいる。
” 霞立つ ながき春日に 子供らと 手鞠つきつつ この日暮らしつ "………良寛さんは遥かに遠い。
学びたいことは山積している。読みたい本もたくさんリストアップしている。しかし私には限られた時間しか残されていない。だからついつい勤勉でかつ効率よく時間を使わなければならないなどと考えてしまう。こんな風に考えてしまうところが私の駄目なところである。やはり私は堂々巡りというか出口のない固定観念の地獄に落ち込んでいると言わざる得ない。時間という固定観念だ。時間は眼に見えない、だからあれこれイメージすることになるが、その時間を過去から未来への一本の直線のようにイメージしそれを横軸にしてその上に人生というものを載っけて物事を考える思考法だ。あたかも時間を物差しのようにイメージしている、そしてそこから勤勉でとか効率よくとかいう考え方が生まれるのだ。
明日、交通事故で死ぬかもしれないではないか。その時こんなに早く死ぬとは思わなかったとでもいうのか。何故自分には少しの時間しか残されておらず、その時間ではやりたいことのほんの少ししかできないなどと悲観的に考えてしまうのだ。いつ死んでもいい、いやどう考えようといつかは死ぬ。学び残しや読み残しがあってもいいではないか、それが普通で自然だ。そのことが分かったうえで、勤勉で効率よくなどという矮小で硬直した世界から抜け出して、今という学びの時間をゆったりと楽しむという生き方を求めてはどうか。時間一般などというものはない、私の時間があるだけだ。否、そもそも時間などというものはないのだ。人生は楽しむためにある、とは50歳の頃「養精術」に書いた言葉ではなかった。72歳にもなって私はこんな簡単な理屈も分かっていないのだ。
生きているというならばナメクジだって生きている。しかしナメクジは自分の生涯の短さを嘆いたりはしない。
I君の死に思う。 ― 2017-01-28
剣岳北方稜線より八ッ峰を望む
2006.8.27(脊髄損傷前)
1月3日の日にI君が亡くなったと元奥さんから電話があった。そういうこともあるかと予想はしていた。12月末倒れているところを介護のヘルパーさんに発見されたが、意識は戻らないまま多臓器不全のような状態で亡くなったらしい。69歳の男の死は、よくある独居老人の孤独死の一つということになるかもしれない。大学時代の友人の一人だった。
そもそもの原因は過度の飲酒によるアルコール中毒だった。それはI君の身心を徹底的に破壊し尽くした。娘さんが二人いたが家庭は崩壊して奥さんとは離婚した。3人とも家を出ていってしまった。I君は弁理士で10名程のスタッフを雇用して手広く特許事務所を営んでいたが、来客を2~3時間待たせるような遅刻も頻繁になった。徐々に顧客は離れスタッフは辞め特許事務所は閉鎖する羽目になった。脳も蝕まれていった。興味はあっても普通は手を出さないネットの出会い系サイトにのめり込み、そこで知り合った女達から金品をむしり取られた。
躰もおかしくなった。知覚は麻痺し煙草の火が足に落ちたことにも気付かず、その火はスリッパから靴下に燃え広がった。足は重篤な火傷になり無菌の集中治療室に入院した。クラブのホステスと再婚したが、生活は虚飾にまみれたものだった。その浪費の果て数億円はあったと思われた財産はあっという間になくなった。そしてその女とも離婚した。
I君は全てを失った。脳を犯され内蔵はボロボロになった老いさらばえた男は、生活保護を受けて独り命をつないだ。その生活がどんなものだったのか想像できない。行政が事務的に火葬し、遺骨の引き取り手もなく相模原の共同墓地に埋葬されたという。
私がここで書きたいことはアルコール中毒の怖さについてではない。I君は自分が蒔いた種とはいえ浪費の果て生活に困ってしまった。何人かの友人知人にお金の無心をしているようなので、Iにはお金を貸さないで欲しいという電話が元の奥さんからあった。I君からそのような申し出は私にはなかった。私を含め彼をよく知る友人にはそのような申し出はしなかったようだ。書きたいのはそのことだ。プライドが許さなかったのか最後の矜持だったのか、親しい友人に無心する落ちぶれた自分の姿は見せなかった、そうすることは耐え難かったのだったのだろう、 ……………… 以上が東京のI君についての話である。
同じ大学時代の友人で同じイニシャルだが別のもう一人のI君は10年程前亡くなった。福岡で弁護士をしていた。従って私とは何かと仕事上で関係も深かったし、時にはお酒を飲む間柄でもあった。I君は普通に仕事をし普通に家庭生活を送り、特に奇異なことは何もなかった。特筆するとしたら、子供さんが4人いたがそのうち一人がダウン症のお子さんだったことと、熱心に九州の古代史を研究していて邪馬台国はどこにあったかなどにユニークな自説をもっていたことぐらいである。私は彼との交友関係は長く続くと思っていた。ところが彼はある日家庭での夕食時、脳梗塞で倒れ入院した。そこからI君の人生はおかしなものになっていった。倒れてからはなぜか私と会おうとしなかった。
脳梗塞のため会話というか話言葉に支障をきたし、退院したが弁護士の仕事はできなくなった。弁護士事務所は閉鎖した。東京に友人が多くいたこともあり、退院してからはよく上京していたという。その頃は仕事の道も絶たれ生活に困るようになっていたようだ。在京の友人達はI君の生活の再建のため尽力したようだが、I君は全くその気がなく、なぜか九州の古代史についての自説を述べるだけだったという。生活しようという気持ちが希薄になったのか、友人達はどうすることもできなかったようだ。福岡に戻っても自分の世界に入り込んだままでやがて離婚し、独り生活保護で露命をつないだ。
特筆することがもう一つあった。I君は住む所を頻繁に変えた。弁護士になってからでも、静岡、札幌、旭川、秋田、東京、横浜、鹿児島、福岡と転々とした。顧客あっての弁護士だから仕事の継続性はどうするのかと傍から心配していた。福岡の次は何処に行くつもりだったのか。かって奥さんが諦めたように話したことがある、Iとは結婚して以来正月休みを家族一緒に過ごしたことがない、Iは一人でヨーロッパ旅行をしていたと。放浪癖とでもいえばいいのだろうか。
50年前学生の時、I君は私に”人間はなぜ考えるのか”と話しかけてきたことがあった。私はたまたまその種の本を読んでいたので、そこに書いてあったことをさも自分の考えのようにして話した。彼は成る程といった顔をして聴いていた。彼は逗子に引っ込んで司法試験の勉強を始めた。のどかな早春のある日、彼を訪ねて山桜を見ながら湘南のなだらかな山道を一緒に歩いた。大言壮語をしない物静かな男だった。遠い過去のことだがつい昨日のことのような気がする。
I君は福岡で行路病者のような死に方をした。その変死体を父親だと確認したのは、現在福岡で弁護士をしているご子息だったという。親子で弁護士事務所をする道はなかったのか、と想像するのは結末が残酷だっただけに苦しい。福岡で生活保護を受けて独りアパートで生きていたならば、なぜひと言私に連絡してくれなかったのかと悔やんでも悔やみきれない。
東京のI君は弁理士、福岡のI君は弁護士、二人とも離婚して生活保護を受け最期は誰にも看取られず一人で死んでいった。私は古稀を過ぎ脊髄損傷で一日のうち2/3はベッドに寝たきりだがまだ我執を捨て切れず生きている。
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