K君の言葉(50年前の話)2018-06-25


              塩見岳から南アルプスの稜線を望む  2003.09.09(脊髄損傷前)



 18から20歳頃までの多感な青春時代の2年間を私は三鷹市にあった大学の男子寮で過ごした。当時300人程の寮生が生活していて、それから50年以上経つが今でもつきあっている友人が多い。K君とは2年生の時同じ寮委員をして何かと話す機会が多かった。K君は熊本出身で同じ九州だということもあって身近に感じた。私は20歳の時K君から人生を決定づけるような影響を受けた。K君は今東京で弁護士をしている。

 K君は自分は臆病だと言った。その上優柔不断だからぐずぐずして眼の前のやるべき課題に取り組もうとしない、実行すると決めたのにもっともな理由をつけて先に引き延ばそうとするというのだ。K君は自分をそう分析したうえで、だから考えて、「 ”No” でなければ ”Yes” 」つまり躊躇しないで実行すると決めたんだと言った。私も自分自身を臆病で優柔不断な人間だと思っていたので、K君の言うことに引きつけられた。

 誰でもそうだが物事はどのように考えなければならないか、そして自分はどのように行動しなければならないかという課題を抱えている。そのことが生きている証でもある。はいこれは右これは左とすぐに結論がでる問題は少ない。考えれば迷ってしまう、それが普通だ。粗雑に結論を出す必要はない、じっくり熟慮して結論を出す、そして実行する。K君の言うことに奇異はない、至極当たり前のことを言っているように感じられた。K君の ”Yes” は考え抜かれた末に導き出された究極の行動規範、人生哲学だが、その真髄はどこにあるのかもう少し検討してみよう。

 世の中には立場や思想信条の違いで ”Yes” ”No” が相反することが多い。原発問題然り、移民問題然り、憲法改正然り………。しっかり考えて判断する場合もあれば、習慣や惰性で簡単に処理している場合もある。この世ではしてはいけないことがありそれは ”No” で、反対にしなければならないことは ”Yes” であると思っている人がいる。一方、いやこの世にはしてはいけないことなど何もないし、しなければならないことなども特に何もないと考えている人もいる。 ”Yes” か ”No” かを問うとすれば、抽象的議論をせず個別具体的に検討するしかない。

 こういうシビアな事柄のほかに、世の中にはまあしてもしなくてもどっちでもいい、 ”Yes” か ”No” かどっちでもいいという事柄もある。数的にはこっちの方が多いかもしれない、そして人生はこのどうでもいいようなことの連続で充満しているといってもいい。このどっちつかずはけっこう我々の頭を悩ませる。ここで、K君の「 ”No” でなければ ”Yes” 」の出番となりその本領を発揮することになる。

 例えば、友人からあるイベントに誘われたとしよう。”Yes” か ”No” かはっきりしない、まあどっちでもいいかという場合がけっこうあるのではないか。せっかく誘われたのだ、特に断る理由がなければ参加してみようというのが、「 ”No” でなければ ”Yes” 」の意味するところである。面白くなかったならば次から参加しなければいいだけの話である。 

 私はK君の真似をすることした。実践的で有力な行動の基準であると思ったからだ。以来50年以上経つが、仕事の場面で、家庭の場面で、様々な人間関係の場面で私はこの ”Yes” のお世話になってきた。元来私は何事にも引っ込み思案な性格だったのだが、周りの方が私のことを曲がりなりにも積極的な人間だと思っているとしたら、それはこの基準の賜物である。30半ばで知り合いが一人もいなかった福岡に東京から移り住んでこれまでやってこれたのも、この ”Yes” のお陰である。そしてそれは間違いなく私の人生を面白くしてくれた。

 私は人生は ”邂逅” だと思っていた。自分一人の独創的な創意工夫で道を切り拓くということもまれにないではないが、私のこれまでを振り返ってみると人との出会い、本との出会いの影響が大きかったと思う。少し考えればお分かりのように、この ”Yes” は継続すると次第に人の性格を変え行動を変えそして人生を一変させる力をもっている。20歳の時、私の ”邂逅” はK君の ”Yes” と合体し、相乗効果で私の生き方を根こそぎ変えてしまった。

 さてこの基準を適用して生きていくと、することが多くなりすぎて頭が混乱し収拾つかなくなることにはならないか。また予期せぬ不測の事態に陥る危険が多発することにはならないか。確かにこのような疑問が生じるが、実際にはそういうことにはならない。なぜならもともと ”No” の場合には行動しないという歯止めがあるからである。反社会的である、違法である、危険度が高い、他人に迷惑をかける場合などは当たり前だがしてはいけないかしない方がいい場合であり ”No” となる。好きになれない、なんとなく気分が乗らない、時間的制約があってできない、経済的負担が大きい、などの主観的・個人的理由で ”No” となる場合もある。  

 ところで多くの人はなぜいろんな場面で臆病で優柔不断になるのだろうか。いったん決めたことを色々理由をつけて躊躇し先に引き延ばそうとするが、怠惰であるためにそうするのだろうか。それは多くの人とっては自分と家族の生活を維持継続することが何よりも大切だからだと思う。そのことを否定的に自己保身といってもいいが、普通の人がこの自己保身を捨てさることは至難の業である。臆病風が吹いて次の一歩がなかなか踏み出せない、そのことを非難してもいいがその踏み出せない内実は自分と家族の今の生活を壊したくないという本能的な生存の欲求である。従って手強い相手だといえる。

 K君はこのことにほとほと手を焼いたのだと思う。他人の心の領域にはなかなか踏み込めないが、せめて自分は自己保身を克服して生きようと決意したのだ。”君子危うきに近寄らず” ではなく、”義を見てせざるは勇なきなり” である。自己保身を理由に ”No” と言うことを自らに禁じ、意識して退路を断って次の一歩を踏み出すと決めたのだ。ちょっと考えると立身出世主義のようでもあるが似て非なるものである。立身出世主義はあくまで計算ずくめの上昇志向である。K君はとうの昔そういうレベルの生き方には決着をつけ、最後に残った手強い自己保身を 「 ”No” でなければ ”Yes” 」で克服し、場合によっては自己犠牲をもいとわないという生き方を選んだのである。   

 近頃国会を舞台に森友・加計問題で、何かを隠すために嘘をついるのではないかと疑いたくなるような、政治家や官僚達の人間性や誠実さなど無きに等しい言動を頻繁に見せつけられた。その度に私は次のイメージにとらわれしまう………人の体から口が遊離して宙に浮かび、その口先が元の人間とは無関係にパクパクと開閉して声を発し、そこから空虚な言葉がへらへらと漏れ出ているというイメージである。そんな言葉ともいえないような言葉には人を説得する力もなければ感動させる力もない。私は見たくないものを見せつけられ、体が震えるような生理的な嫌悪感を抱いてしまう。K君の言葉とはその真摯さにおいて雲泥の差がある、真心から絞り出すように生み出される言葉の復権を希う。
 

博多祇園山笠を楽しんで・・・「いい人の集まり」考(1)2015-08-10

(写真の説明)
           博多祇園山笠一番山・・・大黒流           平塚直樹氏撮影


                        
                                                 追い山ならし       



博多祇園山笠の舁き山(かきやま)には七つの流れがある(八番山の上川端通りは櫛田神社の清道入だけ)。私が大黒流の川端から参加するようになって30年近くになる。大黒流は今年は7年に一回の一番山である。大黒流は12の町から成り立っており、12年に一回当番町がめぐってくる。今年は川端が当番町、従って一番山で当番町という84年に一回の年にあたる。

私は脊髄を損傷するまでは、見送り(山笠の後半部)の右肩の二番台下ないし三番台下という場所に入って山笠を舁いていた。舁き山は重さ約1トン、四つ柱の上に組立られているが、その柱の下部は分厚い鉄で保護されている。木の柱の足が鉄の靴を履いている格好である。舁き山は時速約10㎞で地面よりわずかに浮き上がって走る。時々道路の地面に接触する。すると鉄とコンクリートの摩擦で花火のような火花が線となって起こる。二(三)番台下からはこれが真下によく見えた。その花火を見ながら山笠を舁いてきた。


                                大黒流 舁き山前に集合


私は30代半ばで福岡に住むようになった。それまでは18歳まで長崎、それから東京で暮らしてきた。住んでみると福岡の町が気に入った。仕事の関係で福岡を離れることもなさそう、徐々に地元の祭に出たい気持ちが高じてきた。大黒流の町内には住んではいなかったが、知り合いを通じて山笠に入れてもらった。

山笠は純粋に体育会系の祭なので、あとは体力づくりである。仕事が終わってから、天神のソラリアスポーツに週2~3回のペースで通いはじめた。主にマシンでランニングをした。10kmを42分で走れるようになった。するとランニングが面白くなり、ソラリアスポーツのマラソンの練習チーム(10人弱)に入れてもらった。週1回大濠公園のランニングコースでNTTのマラソン選手が教えてくれた。私は速いわけではないが、若い人たちに混じってマラソンの真似事をするのが楽しかった。指宿菜の花マラソンや阿蘇のウルトラマラソンなどにも出た。家族で各地のマラソン大会にも出た。けっこうマラソンにはまり込んでしまった。


                                   お汐井とり(箱崎宮)



それから数年後、左目が網膜裂孔ということで見えなくなった。手術して視力は回復したが視野は三分の二程に狭くなった。医者からマラソンは身体に良くないのでやめるように言われた。考えてみると、42.195㎞を走ることは人間の普通の生活には必要ないし、そもそも人間は動物としてそのように長く走るようにはできていない。戦争の軍事的必要性の遺物がスポーツ化したものである。これは何もマラソンに限ったことではない。いいとか悪いとかの問題ではないが、かなりのスポーツがそういう経歴をもっている。医者のアドバイスに従ってマラソンをやめた。

マラソンの代わりにウォーキングをはじめた。夕食後地図を片手に住んでいる筑紫野市の町を歩き回った。しばらく続けたが物足りない。ウォーキングをやめて、学生時代少しかじったことのある山登りを再開することにした。50代のはじめの頃のことである、以後登山にのめり込んでいった。山笠は目が悪くなった時も休むことなく、60歳までは無遅刻無欠席で続けた。これが脊髄損傷前までの山笠から始まった私のアウトドアライフである。


                     追い山   一番山なので櫛田神社の清道で祝い目出度を唄う。
                     朝がまだ明けていない。


川端の町内に住んでいないで山笠に出ているのは私だけではないが、様々な人間関係や祭のしきたりの上で、何かと不安な気持ちを抱えていた。そこでIさん、Kさんを中心にして、そういう人達で「山のぼせ会」という私的な集まりを作った。会社の役員・サラリーマン・学校の先生・ホテルマン・工務店経営・・・など職種はいろいろ、町内に住んでいないが山笠が好きだという面々である。「山のぼせ会」を作って20年以上になる、集まってきたのは延べ30人になるだろうか。町内に住んでいないということで肩身の狭い思いをすることもなく、町内の人達とも融和的な関係を続けてきた。「山のぼせ会」の古参メンバーはほとんどが台上がりも経験している。


今の私は車椅子なので山を舁くことはできないが、7月13日の集団山見せの後の直会(なおらい)に参加させてもらった。一番山なので県知事と市長も直会に参加した。その時の記念写真が下の写真である。




直会の後、恒例の「山のぼせ会」の飲み会をした、20人近くが集まった。利害関係はない、威張る人はいない、出しゃばる人もいない、そんなことは野暮でかっこ悪い。祭の時は誰も名刺などめったに出さない、そんなことをするのは粋ではないからである。そこに属しているだけで心地よいと感じるだけでいい、「山のぼせ会」はそんないい人の集まりである。

福岡は私が生まれ育った町でもなく、学生時代を過ごした町でもない、30代半ばで住み始めた町である。地縁血縁何もない。私は会社勤めのサラリーマンのように組織に属した人間でもない。公認会計士・税理士という自由職業人といえばかっこいいが、ただの零細な一人事業主にすぎない。福岡の町で人を知ることによってしか生きていくことができない立場にあった。従って、人に誘われるままいろんな集まりには臆せず参加してきた。いろんな人に出会った。

いつの頃からか、私の頭の中に「いい人の集まり」という言葉が生まれた、そしてどっかと居座るようになった。研鑚型・勉強会型・同好会型・・・いろいろな集まりに今までに延べ10いくつかは参加しただろう。しかしすべてが私にフィットしたわけではない。「いい人の集まり」というフィルターでふるいをかけてみると、そこには共通するものがあった。朱に交われば赤くなるというが、赤く染まってもいい、いや赤く染まりたいと思わせるものがそういう集まりにはあった。人間関係の最も原初的なものである。「いい人」とか「朱・赤」とかしか表現できないようなものだが、私はそれを確かに実感した。「いい人の集まり」が即「いい社会」になるわけではないが、人間関係とか集団と個人の関係をここを起点に考えはじめた。

山笠から始まった話が長くなった。続きは、「いい人の集まり」考(2)としていつか書こう。


車椅子の仲間と牡蠣小屋へ2015-03-18

(写真の説明)
S君のお父さん、N君のお父さんが撮った写真です。 2015.3.11




牡蠣を炭火で焼いて食べた。サザエや鰺の開きなども焼いて食べた。生ビールも飲んだ。割勘で一人1700円、安くてうまくて大満足。

二月に行く予定だったが、N君の体調不良で三月になった。私も一月に腸閉塞で入院したので延期になって助かった。昨年は福岡市西区の唐泊の牡蠣小屋、今年は糸島の岐志漁港の牡蠣小屋だ。

飯塚市にあるせき損センターでリハビリをしている、車椅子仲間の有志で行なっている年中行事の一つである。N君のお父さん、S君のお父さん、Kさん他がお世話をして、年5~6回いろんなイベントを企画している。誘われ私も昨年から参加している。正月の宗像大社初詣から始まって、牡蠣小屋、花見、焼肉バーベキュー、九州国立博物館での故宮展、豊後高田市の昭和の町観光が、昨年行なったイベントである。数年前宿泊の旅行も行なったそうだ。

介護をしている家族も参加するので15人位の団体になる。車椅子の障害者が使えるトイレがあるかなどの下見も欠かせない。お世話をしてくださっている方々に感謝である。

せき損センターでリハビリをしているといろんな方々と出会う。これまでの私の人生では決して出会うことのなかった方々である。

まだ幼い子供が呼吸器をつけ、リハビリの先生に手足を動かしてもらっている。腕、脚がかわいそうなくらい細い。しゃべることができない。リハビリのI先生は、「こちらが話しかけると必ず笑い返してくる、その笑いがせめてもの救いだ」という。ベッドに寝たきりにならないで、せめて車椅子に座れるようになってほしい。

脊髄損傷者は低血圧になることがある。目の前が白くなり意識が朦朧となる。私が60~40の時もあるというと、Nさんは50~30になるという。Nさんを介護している夫の方は、「よう生きとります」とさらりと言ってのける。その言葉に私の低血圧はどこかに飛んでいってしまう。元気をもらうとはこういうことかと思う。

実にいろんな人がいる。書きたいことは山ほどあり尽きない。

牡蠣小屋の帰り、伊都菜祭(地元産直のスーパー)に寄ってソフトクリームを食べた。

車椅子
春夏秋冬(しゅんかしゅうとう)
いい仲間

(お粗末、失礼)